桜異聞録 9


力一杯に襖を開け放った夕花が見たのは、白い褥に横たわる三成に添う小柄な紅梅色の後ろ影。栗色の髪が滝のように背を伝い床に零れる。
紅梅の袖口から覗く小さな手。その手中に七宝の小瓶。影は、三成の頤にそっと手を当て上向かせると、小瓶の口を三成の薄い唇に触れさせていた。
その姿を見た瞬間、夕花は声を振り立てた。

「殿ッ!」

その声に驚き振り返った影は、雪白の容に栗色の瞳を目一杯に見開いた少女。まだあどけなさの残る面差しに驚愕の表情を貼り付け夕花を凝視する。

「あなやッ、人間の娘ッ!? 何故に眠らぬのじゃッ!!」
「妖めッ! 殿から離れなさいッ!!」

驚きの余りに妖の少女の動きが一瞬止まる。その隙を外さずに夕花は懐の小刀を素早く抜くと少女目掛けて一刀を投じた。狙いは的を外さず、白刃は少女の手の七宝の小瓶に当たった。小瓶はカシャンという音を立てて割れ落ちると、畳に透明な液体をぶちまける。

「ッ! あぁ、ご神酒がッ!!」
「待ちなさいッ!」

駆け寄る夕花を避けようと、少女は身を翻す。だが、割れた小瓶に気を取られたせいか夕花の動きの方が早かった。
夕花は少女の白い手を掴む。その手を振り解こうと少女が腕に力を込める前にその細い腕を背に回して動きを封じてしまう。背に捻り上げられた腕が痛むのか、少女は「うぅ……」と小さく呻く。

「は、離しやッ!」
「逃がしませんッ! さあ、捕まえましたよ」

少女は必死に夕花に抗う。だが、夕花は構わず少女を畳に伏せさせると、容赦なく白い首筋に手刀を叩き込んだ。










「……ま…………さま」

誰かが肩を揺する。ついで、呼びかけているのは誰だろうか。
茫洋とした微睡みの中、左近は少しずつ意識を覚醒させる。

「清興様……。お起き下さいませ、清興様」

意識と無意識の境界を越えた途端、己に呼びかける聞き知った声を朧気に認識をした。
左近が呼びかけに応じるようにのろのろと重い瞼を開けると、夕花の心配げな顔が目に映る。声を認識した程に、まだ意識は覚醒しきってはいないようだ。

「……ん? 夕花? 俺は…眠っていたのか? いつの間に……」
「あぁ、良かった。お目が覚めましたか。妖の術のようです。妖は捕らえ、今は直江様が見張っておられます」
「な…なんだとッ!!?」

ホッと息を吐く夕花の言葉に、今度こそ左近は完全に目を覚ました。










隣の三成の寝所では、兼続が妖の少女の周囲に護符で円陣を組み結界を敷いていた。その横では、三成が相変わらず臥所に横たわり深い眠りに淵にいる。
ひとまず、三成が無事なことを確認して左近はひどく安堵した。

「直江殿。面目ない……」
「いや、わたしの方こそ。まんまとこやつの術に嵌ったようだ。夕花殿が妖を捕らえてくれなければわたしもいまだに眠りに中だ」

兼続は端正な顔に苦笑を滲ませるが、左近はそれに応える気力もない。先日から続く己の失態を思い左近は唇を噛む。


     穴があったら入りたい とはこのことだな


三成から二万石という破格の信頼を受けながら、まるで役に立っていない。いや。禄云々の話ではない。
武士として男として、愛しい主の身の危機に何もできなかった不甲斐なさに歯がしみする思いだった。
「三成に過ぎたる者よと世に云われて、慢心したか」と己を叱責しても既に後の祭り。いつまでも、悄然と肩を落とし自らの傷口に塩を塗り込み続けていても仕方がない。
今は、ただ三成のためにできることをやるだけだ。





2007/05/15