桜異聞録 8


「幸村と慶次は、吉野に着いた頃か……」

主の性格を模したような質素な造りの庭。それでも、日を追う毎に色めく季節を映して春を呼ぶ花々がその花弁を綻ばす。
たけなわを向かえた紅梅の庭木。その芳香を吸い込み、兼続は夕暮れの春宵の空を見上げる。
幸村と慶次が大阪を発ってから、二日近く経つ。幸村の駿馬と慶次の松風。この二頭が轡を並べて街道を飛ばしたのだ。すでに吉野に辿り着いて、怪異についあれこれと調べている最中だろう。

「そうですな。何か手がかりを掴んでくれればいいんですが……」

そう返事をする左近の視線は、白い臥所に伏す三成に注がれる。

その眠る顔を温んだ春暖の風が撫で、白銀の髪を小さく揺らした。
一日中、薄暗く閉め切った部屋に閉じ込めておくのもと思い、庭に面した障子を開けたのだ。命芽吹く風が孕む力が少しでも回復の助けになればとの願いもある。
それに、主の寝所は屋敷の奥深くにあり、襖を開け放っても誰かに覗かれる心配はない。更に常に左近と兼続が側に侍する。竜虎の衣鉢を継ぐ二人の名軍師が油断なく周囲を警戒するのだ。どんな刺客であっても容易に手は出せないであろう。

左近の眼差しを辿り兼続も三成の白皙の頬を眺め遣る。
昨日までは、白磁の如くに抜けるような透明な白い頬が、今はほんの少しだけ色を取り戻したような気がする。自分の推測がまったくの見当外れでなかったことに兼続は僅かに安堵を覚えた。
だが、予断は禁物だ。
確かに回復はしているのかも知れないが、それが如何ほどにかかるのかは予想もつかない。あまりに回復に時間がかかると、それを理由に職を辞するように働きかける者が現れるやも知れない。
わだかまる懸念を胸に兼続は溜息混じりに口を開いた。

「三成は相変わらず眠りの中か……。大阪城にはなんと伝えてある」
「風邪にお召しになったと伝えておりますよ。十日程度は日数を稼げましょうが、それ以上病欠が長くなりますと、あらぬ噂がたつやも……」
「そうだな。三成の双肩には天下の運営が任されている。不治の病などと噂されては、やっかいだな」

どうやら、虎の軍略を継ぐ者も自分と同じ懸念を抱いていたらしい。

真実を知る者は、極僅か。屋敷の者にも大阪城へ伝えたのと同じく「主は風邪で寝込んでいる」と説明をしてある。
しかし、邸内を覆う微妙な雰囲気は、主が伏した理由が只の風邪ではないことをそっと伝える。だが、みな、主の身を案じつつも、そのことに関して口を噤み噂話の口の端にも乗せることはない。
忠に篤い家人たちは、平静を保ち何事もなかったかのように日常を送る。それが、主の立場のためであることをこの家の者すべてが知っていた。
家人たちから三成の病状が漏れることはまずはない。

されど―――――― と左近は思う。
三成を快く思わない者たちの耳目は鋭い。些かでも、邸内の様子が外に漏れれば途端に噂の火種とされる。
襲撃を行った者の思惑はどうであれ、結果的に三成の立場を危うくする種が蒔かれてしまった。
その憂慮するべき事態に己の無力さを思い知らされた。
左近は本日何度目かの溜息を小さく吐いた。





ふと、こちらに歩み寄る気配を感じて左近は沈みかけていた思考を浮上させる。渡り廊下の向こう。ふたつの湯飲みを載せた盆を持って夕花がこちらへの歩み寄って来るのが見えた。
夕花は湯飲みを左近に丁寧に差し出す。その所作は、成り立ての侍女とは思えないほど落ち着いたものだった。


     どうやら、自分の見立ては間違ってはいなかったな


突きつけられた己の無力に苛まれる中での唯一の慰め。
それに左近は出来る限りの笑みを向け、澱む思いを悟られぬよう努めて明るく「すまんな」と左近は差し出された湯飲みを受け取った。

「清興様。直江様。もうそろそろ、夕餉のお支度が調います。こちらにお運び致しましょうか?」
「そうしてくれ」

そう答える左近の顔を夕花の黒目がちな瞳が左近を見据える。その少し眉根を寄せ、ジィっとこちらを見つめるまっすぐな眼差しには、少し困ったようなような色が伺えた。
瞬の思惟。そして夕花は切り出した。

「あの……。差し出がましいかとは存じますが……」

最初は恐る恐る。

「清興様も直江様もお顔の色が優れませぬ。昨晩も一睡もされておられぬのでは?」
「む……。うむ」

だが、言の葉を紡ぐ内に、夕花の声色に若干の憤りが滲んでくる。

「殿のご容態がご心配なのはわかりますが、清興様や直江様までお倒れになったら如何致しまする? お疲れが残っては、再び、妖が忍んで参った時に、殿をお守り出来ませぬわ。寝ずの番がご必要なら、どうぞこの夕花にお命じ下さいまし」

そう云い置くと夕花は深く一礼する。と、夕餉の膳を運ぶためにその場を去って行った。
左近をかける言葉も思いつかずにその後ろ姿をただ見送るのだった。



「…………若いのに恐れを知らぬ娘だ。流石、島殿のご一族」
「いやぁ、あれは特別ですよ。俺もあそこまで物怖じしない娘とは思いませんでした」

ややあって兼続が感心したような呟くと、左近も苦笑を漏らす。左近は、眉を寄せて困惑と感嘆とが入り交じった微妙な面持ちを浮かべた。

「特別といえば、あの娘……妖の術を破ったそうだな」
「渡辺殿からそう聞き及んでおります。しかし、あれが何か修験や巫女の修行を行ったなどとは聞いておりませんが……」

そのことに関して特に夕花に問うたことはないが、少なくともそんな話は聞いた覚えはない。
そう答える左近の言葉に兼続は「うむ」と小さく相槌を打つと

「生まれつきやも……。妖の術を見破るというならば、見鬼の才があるのかもしれぬ」
「見鬼?」

兼続が口にする耳慣れぬ言葉に、左近は首を捻る。

「あぁ……文字通り『鬼を見る』才能のことだ。鬼と行っても様々あるが、あちらの世界の理を見破る力とでも解釈した方がいいだろう」
「その才が真であれば、随分と心強いですな」

あとで、夕花に問うてみる必要がありそうだ。
そう思った時、自然と小さなあくびが出る。見ると兼続も同じように眦に微かな涙を浮かべていた。互いに顔を見合わせると、やや気まずげな空気が流れる。
夕花の忠言は正しいようだ。双方共、それなりに消耗をしている。このまま、緊張の余り二人とも疲労でろくに動けない事態となっては元も子もない。

「まったくだ。夕花殿の才が真であればと思うと、少しばかり眠気が……」
「夕餉を食ったら、夕花の云う通り少し休みましょう。我らが倒れては殿をお守りするどころではありませんからね」
「ははは、そうですな」

ほんの少し、張り詰めた神経が緩む。
少なくとも、あれから妖の襲撃もないし、三成も僅かずつではあるが快方へと向かってはいる。
物慣れぬ怪異に晒され、三日連夜で続いた緊張の糸を少々緩めたとして誰が左近たちを責められようか――――





夕刻。時として人はこの時刻を「逢魔が時」と呼ぶ。
人と魔が交わる不可思議な刻。朱と橙と紺とが空を美しく彩なす。

夕花は夕餉の膳を運びながら、廊下から沈む夕陽を眺める。いつにも増して朱味を増す夕陽。
その沈む陽の朱さに胸の隅にわだかまる愁いを刺激された。息苦しい不安感がザワザワと心中を騒がせる。
自分がそんな心持ちになる時には、決まってよからぬ事が起こる。

厭な予感――――

それを振り切るように夕花は緩く頭を振ると歩む足を少し早めた。
三成の私室の襖が見える。
その襖の更に奥に三成が伏す臥所がある。眠る三成を守るべく、兼続と左近は不寝番を続けるのであったがこのままでは無理を重ねる二人の方が心配だ。
さっきは随分と強い調子で左近に休むよう進言をしたが、不快に思われていないであろうか? だが、どうあっても夕餉の後には、湯殿で身を休め、少しは睡眠を取って貰わねばならない。
そう決意を新たに夕花は、左近と兼続が待つ三成の私室の戸に向かって声をかけた。

「清興様。直江様。膳をお持ち致しました」

返答はない。
確かにさっきは二人とも室内にいたはずだ。今の三成の状態を放って二人が同時に部屋を離れることなどはあり得ない。
先程から夕花の胸中をざわつかせる予感が更に強くなる。
と、背後でガシャンという音が響く。驚いて振り向くと、一緒に膳を運んでいた侍女が、膳を取り落としていた。何やらフラフラと足元が覚束ない。

「あら……どうしたのかしら……なんだか、ねむ…………」
「八重殿?」

予感は確信に変わる。

「清興様ッ! 失礼致しますッ!!」

夕花は目の前を襖を思いっ切り左右に開く。タンっという鋭い残響が耳朶を打つ。
夕闇に霞む室内には灯りはない。その薄暗い室内に倒れ伏すふたつの人影が見える。

「清興様ッ! 直江様ッ!!」

倒れる影に駆け寄ろうと室内に足を踏み入れた途端、ピリッと皮膚に電流が走るような小さな痛みが走る。この感覚に覚えがあった。三成が妖に襲われたあの日。あの時、屋敷を包んでいたあの空気と同じ。
皮膚を刺す感覚を振り切って、夕花は倒れている兼続に近寄る。

「眠っていらっしゃる……の?」

素早く、様子を伺うがどうやら眠っているだけのようだ。妖の狙いは、兼続や左近ではない。ならば――――

「殿ッ!!」

夕花は、跳ね飛ぶ猫のような身のこなしで、三成の臥所への戸を開くのであった。





2007/05/07