桜異聞録 7


夢現から褪めたような奇妙な雰囲気が石田屋敷を包んでいた。
さわさわと落ち着きのない空気が、屋敷で働く者たちの表情をどことなく曇りがちなものに変えている。
いつも三成の屋敷の門を潜った時に感じる冬の早朝にも似た凛とした心地よい空気が今は微塵もないことに、幸村は云いようもない不安を覚え、小姓の案内もそこそこに三成の居室の襖を開けた。

危急の件として内密に左近と兼続に呼ばれた時から、胸にわだかまっていた暗い予感を感じていた。


     それがまさかこのようなことであったとは……


左近と兼続の話を聞き、布団に横たわる三成の姿を見て、幸村は沈痛な溜息を深く深く吐いた。

「知らぬこととはいえ、何のお役にも立てずに申し訳ございません」

元々、その場にいなかった幸村に何の咎もない。なのに、心底、悔やむように頭を下げる。そんな幸村に左近も兼続も苦笑を返す。その裏表のない真っ直ぐな心根に、左近は少し救われるような思いがした。

「そう思うのなら、これから三成の役に立てばよいさ」
「もちろんです!」

口角を上げる兼続に、幸村も力強く諾と答える。


     殿。よいご友人をお持ちですな。


少し和らいだ場に左近にも笑みが戻った。

「ところで、場所は吉野とか?」
「あぁ、あの辺りが今一番怪しい。すでに直江殿にはお話しをしているが、吉野で怪異な現象が起こっている」

左近は再度、吉野で起こっている怪異を手短に幸村に話した。





「咲かぬ桜の花。確かに……怪しいですね」

左近の話を聞き終え、幸村は難しい顔で首を捻る。それはそうだ。桜の咲かぬ怪など聞いたことがない。
だが、実際に吉野では花が咲かず、時を同じくして三成は怪異にあった。

「そうだ。現状では吉野に何かあると見てよいと思う。すまぬが、吉野へ行って何か手がかりを探して欲しい」
「すまぬなどとおっしゃいますな。わかりました。今夜にでも早速、吉野へを向かいましょう」
「気負うな、幸村。早暁でよい。ところで、吉野に土地の得ては?」
「残念ながら……」

今にも飛び出せんばかりの幸村に、苦笑いを向けながら兼続が聞いた。その問いに幸村はゆるく頭を振る。云われれば、不得手な土地での情報収集など果たして自分にできるのかと、途端に不安になる。
そんな幸村の心情を見越していた兼続がある提案を口にする。

「ならば、慶次と共に行けばいい。あいつは、風流なものが好きでな。吉野には良く足を運ぶそうだ。あいつなら土地勘もあろう」
「それは、心強いです。正直ひとりでは、少々不安で……。あ、いや……その、妖に恐れをなしたというわけでは……。ただ、得体の知れないだけに些か不気味ではあります」

素直すぎる幸村の言に対して兼続はクククと喉を鳴らす。

「相変わらず正直者だな。流石の幸村も人間相手では無双でも、妖相手では不気味か」
「わたしだけのことならば、何も迷わずに我が槍にて突き進むだけですが、今回は三成殿のお命に関わること。武辺者のわたしでも流石に慎重にもなりますよ」
「安心しろ、何も三成の命が危ない訳ではない。ただ、妖の女の裏が読めぬのだ。命は取らぬまでも、三成の立場を脅かす陰謀がないとは限らない」

兼続の言葉を左近が継ぐ。

「昨今、殿のお立場への風当たりはいや増すばかりですからな。殿が失脚をすれば喜ぶ連中は五万とおります。しかし、それとなく心当たりの御仁の身辺を探らせてはおりますが、今のところ裏で誰かが動いている気配は在りませんね」
「となると、狸殿にも動きはないと?」
「えぇ、今のところは……」

意味ありげな左近に物言いに兼続は少し考え込むように返す。
人為的な陰謀があるならば、一番気を付けなければならないのは、三河の古狸。そのことは、三成の近辺の者にとっては周知の事実である。
左近もその可能性を考慮し、その場で打てる手はすべて打った。未知の領域の出来事に戸惑い、できることまで思考を止めては、いったい何のために三成の側にいるのか。妖に対して無力にも三成を助け出すことのできなかった後悔の念と自らへの憤りをねじ伏せ、左近は冷静に配下に指示を飛ばした。
左近が集めた情報を元に左近と兼続は状況を整理してみるが、やはり人の手による陰謀という気配はない。

「さすがは、三成自慢の軍師殿。平時よりこれだけの情報を手にされているとはな」
「殿のお立場を考えれば当然のことですよ。ですが、この件は……」
「人の世の理ではなく、神か妖の世界の理が発端の可能性があるな。呪詛という不確実な手段を狸が執るとは思えん。まして、あの武断派の両名は、呪いなど最初から思いもつかぬであろう」

目の前の書簡の束を手に兼続は襖を見遣る。その向こうでは、いまだに三成が深い眠りについたまま。

「どちらにしろ、ここで議論をしていても始まらぬ。幸村、頼むぞ」
「承知致しました。どうか、お任せ下さい」

向けられた兼続と左近の視線に宿る強い信頼を受け、幸村は力強く頷いた。





2007/05/01