桜異聞録 6


「成る程、そんなことが……」
「えぇ、妖の女は『命を取るつもりはない』と云っておりましたが、ごらんの通り殿は眠ったままです」

眠り続ける三成の臥所の傍らで、直江兼続は眉を寄せて眠る親友の白い寝顔を見つめていた。
それに応じる親友の股肱の臣の顔には、平静を装っているものの微かに不安げな色が見て取れる。日頃、知謀と武勇に裏打ちされた自信に満ちた人となりを知っているだけに、その青ざめた顔はいっそ痛々しくさえ思える。


     さもありなん。三成がこの状態ではな……


昏倒する主を見て心配にならぬ家臣などはいない。人知を越えた者の所業なら尚更に不安なことだろう。
兼続は、左近に向き直るとゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。

「であろうな。精気を抜かれている」
「精気?」
「うむ。所謂、生きるための力のようなものだな。急激に精気を抜かれたため、回復のために眠っているのだろう。おそらく、二、三日程で目を覚ますと思うが……」

ここで、兼続は一息吐く。

「分からんのは、髪の色が抜けてしまったことだ……」

兼続は首を振りながら困ったように眉を顰める。視線は眠る三成の銀色の髪に注がれていた。
常に明朗な口調で語る兼続の口が珍しく重い。本当に髪の色が抜けてしまう理由に思い当たらないようだ。兼続にわからないのであれば、左近には更に見当がつかないのだが、取り敢えず思いつくこと述べてみる。何か言葉にしなければ、不安が隠しきれない。今の自分の心情を表すのならばきっとこんな感じであろう。

「精気を抜かれたから、髪の色が抜けてしまったのでは? 人伝の話では、酷い体験をした人間は、一晩で髪の色が白く抜けてしまうっていうじゃありませんか?」
「髪が白くなる程、大量に精気を抜かれた場合、身体が酷くやつれるものだ。だが、見たところそんな様子はないな」

元々、三成はほっそりとした面立ちではあるが、確かにやつれたという印象はない。髪に色の変事さえなければ、ただ眠っているとしか見えない。
兼続は言葉を続ける。

「島殿の話からすると、妖の女は三成から精気を奪ったということは確実なのだが……。その時の様子で何か気になる点とかはないのか?」
「あの女。殿の上に屈み込んで……両の手を合わせるように……」

必死の攻防の最中に横目で見ただけではあるが、左近の脳裏にはその情景がはっきりと刻み込まれていた。
左近は正確に自分の見たことを伝えようと慎重に言葉を運ぶ。

「その両の手の間に手鞠くらいの大きさの半透明の玉が浮かんで見えましたな」
「……恐らく、奪った三成の精気か…それを入れるための器かなにかだろう」
「その半透明の玉が、段々と赤く染まっていきましてね。丁度、殿の髪の色と……ッ! まさかッ!!」

ハッと顔上げた左近の顔はより一層青ざめてくる。
左近に兼続は頷き返す。

「そうか。となると、妖の女の目的は三成の髪だな。髪には古来より霊力が宿るといわれる。人の髪はその人の写しでもあるという。術や呪(まじな)いに人の髪を使うのはそのためだ」
「術や呪(まじな)いというと……当然、呪詛も含まれるんですよね」

左近の両の膝上で握る拳にグッと力が入る。
呪いだの呪詛だのといった類のものは、人の気を削ぐまやかしのようなもので、謀略の手段として人を脅す力はあっても実際に人を呪い殺す力があるとは思ってはいなかった。しかし、あの怪異を目の当たりにした今は違う。その上、相手はその辺の呪い師ではないのだ。

「あぁ。だが、解せぬのは……その場合、髪の毛そのものを使う。例えば、このようにな……」

兼続がスイッと差し出したのは、桜の枝に巻かれた数本の長い黒髪。

「これは?」
「渡辺殿が三成の書斎で拾ったものだ。島殿の影を切った場所に落ちていたという」
「それは、俺の……」

驚きのあまり二の句が継げない。
左近は瞠目したまま、差し出された桜の枝を手に取りジッと凝視する。

「恐らくそうだろう。形代として使われたのだ。話しに聞くと、妖の結界を抜けたとか。恐らくこの形代に使った髪と引き合ったのであろう。島殿。いずこかで、髪を抜いた覚えは?」
「確か……吉野を訪れた時かと……。山で桜の枝に髪を引っ掛けた際に……」

みるみる左近の顔面が蒼白になっていくと、ガクリと肩を落として項垂れる。

「……迂闊だった。まさか、うかうかと妖物に影を取られるようなまねをしていたとは……。まさか、殿をこのような目に遭わせてしまったのも……」
「いや、島殿のせいではない。神や妖の世界は人の世界の尺度では計り知れぬ。彼らとの出会いは、天災のようなものだ。嵐の気配を察知できても、やってくる嵐を止めることができないのと似ている。だが、正しい対処方法を心得ていれば、被害は小さくてすむ。そうであろう?」
「そうですね……。では……殿はどのようにすれば?」

三成がこんな災禍にあってしまったことに責任を感じる左近の苦痛な心情もわからぬではない。実際に、左近の所為かと問われれば、答えは否である。少なくとも、左近の責任というより妖側の方で何らかの理由により三成を選んだのだろうと思われる。
しかし、仮に自分が左近と同じ立場であったとしたら、やはり彼と同じように強い悔恨と苦悩を感じるに違いない。

兎も角、少なくともこれから話すことは、決して悪いことではない。
苦渋の表情を浮かべる左近の痛みを和らげるかのように兼続は極力、口調を和らげる。

「先程も云った通り、呪詛に髪を使用するならば、髪の毛を奪うはず。第一、屋敷中に結界を張り全ての人間を眠らせたりすることができる程の者なら、わざわざ髪の毛を奪ってから呪詛をかける必要などない。殺すにしてもそんなに難しいことではないだろうし、場合によっては、島殿の形代に命じることもできよう」
「………………」

一瞬、左近の目に人を射抜くような強い光が浮かんでは消えた。
ひょっとしたら、己の形代が三成に害を及ぼす情景が掠めたのかもしれない。

「では、呪詛の可能性は?」
「ないであろうな」
「では、殿はいずれお目が覚めると?」
「あぁ、それはまず間違いなかろう」

問う左近の声色がほんの少しだけ震えていることに気がついて、兼続は強く断言をする。

「髪の色が奪われた理由は不明だが、髪自体も体力の回復と共に色を取り戻すだろう。それに時間はかかるだろうが、いずれは生え変わる。どちらにしろ命の別状はないと思うが……少しは安心されたか? 島殿」
「えッ? えぇ」
「ハハハ、だから、そのように死にそうな顔をされるな」

励ますように明るい声を立てる兼続につられて、左近の強ばった肩から力が抜けると困ったように眉を下げて己の頬を撫でる。

「俺はそのような顔をしておりますかね?」
「しておる、しておる。まるで幽鬼のようだぞ」
「……これは参ったな」

クツクツとからかうように兼続が左近を揶揄すれば、先の見通しに希望がもてたのか、血の気の引いていた左近の頬に赤味が戻った。





すっかり温んでしまった茶に手を伸ばしながら、兼続が話を続ける。

「だが、やはり三成の髪の色を妖が奪った理由が分からねば、島殿のも安心できないだろうし、俺も心配だ」

冷えた茶を一口啜り、次に兼続が口を開いた時、もうひとりの親友の名が出た。

「そこで、明日にでも幸村に調べに行って貰おうと思う」
「幸村に?」
「あぁ、島殿はこんな状態の三成の側を離れられぬだろう。再び妖が襲って来ないとも限らぬから、わたしも側にいた方が良いと思う」

誠実な幸村の人となりならば、三成の危急を聞いてきっと快く協力をしてくれる。確かにこれ以上に心強い援軍はない。

「幸村に協力してもらえるならば、心強いとは思いますが、でもどこへ?」
「島殿が髪を奪われた場所。その近辺で変事は?」

ある。
何も云わなくても驚く左近の顔がそれを物語っている。
兼続は得心したように頷くと、ニッと口の端を上げた。

「あるのですな? ならば、鍵は吉野です」





2007/4/23