桜異聞録 5


左近は畳に伏す三成を抱き上げる。薄い胸が己の腕の中で緩く上下を繰り返すのと確認すると三成の頬に手を添えた。触れる肌からは暖かな温もりを感じる。

「殿ッ! あぁ…良かった。生きている……」

手に伝わる人肌の暖かさに左近は安堵の吐息を漏らした。
「うぅ……」と苦しげに腕の中の三成が身を捩る。しかし、意識はない。

「殿ッ! 殿ッ!!」
「妖の術か? お目覚めにならぬ……」

三成は、完全に気を失っているようだ。何度呼びかけても目を覚まさぬ三成に、左近と新ノ丞は新たな不安を覚える。
左近は、ざっと三成の身体を見てみるが、見たところ外傷はないようだ。となると、妖に襲われた際に過って頭でも打ったのであろうか。兎に角、医師なりを呼んで手当をさせる必要がある。

「渡辺殿。ひとまず、殿を床に……って、おひとりか? 屋敷の者は?」

警護の者を引き連れて来たと思いきや、新ノ丞が単身で書斎に駆けつけたことに左近は驚く。しかも、今の今迄そのことに気が回らなかった。どうやら、かなり冷静さを欠いていたようだ。軍師が聞いて呆れる。
左近の問いかけに、新ノ丞は渋面をつくって応じた。

「それが、みな、頬を張っても尻を蹴飛ばしても目を覚まさぬ。その上、ここに辿り着くにも同じところをこう……ぐるぐると……」
「では、いったいどうやってここに?」
「ほれ、島殿が連れておった娘御。あれが、道を教えてくれたのよ」
「夕花が?」
「あぁ……、どうやらあの娘には妖の術が効かないようだ。いま、屋敷内に怪しい所がないか、見回ってもらっておる」

確かあの妖の少女は「結界がどうの……」と云っていたような気がする。
すると、邸内の足を踏み入れた時の違和感は結界と云うことだろうか? しかし、自分はどうして三成の元に辿り着くことが出来たのか? 夕花に結界が効かない理由は? そして、気を失っている三成はどうなるのか………

思考はグルグルと渦を巻き、答えのない問いを繰り返す。
政事のこと
軍事のこと
世情のこと
俗界のことならば、冷静な思考で切り抜けることに慣れはいるが、得体の知れない世界のことはわからないことだらけだ。ましてや、実際に三成は危機に晒され今も意識がない。
左近は、褥に横たえた三成を見つめて、しばし沈思する。

「こういったことに強いといえば……」

呟いた己の言葉に、ハッとひとつの光明を見出す。

「渡辺殿。申し訳ないが、山城守の屋敷へ使いに行ってはくれませんかね?」
「山城守の屋敷に? 確かに……。屋敷内がこの状態では、山城守様のお知恵をお借りした方がよいな」
「すまぬ。俺は殿のお側に……」
「承知」

左近の言葉に新ノ丞も希望を感じたのか、強く頷くのであった。










「清興様。白湯を持って参りました」
「夕花か。すまぬな。来たばかりだと云うのに……」

静かに三成の寝所の襖が開くと、夕花が盆に白湯を持って来た。
急に喉の渇きを覚え、左近は湯飲みに手を伸ばす。ほどよい温度の白湯が身体を温め気持ちを落ち着ける。
ホッと息を吐く左近に夕花は小さく頭を振った。

「清興様のせいではございません。ですが、屋敷の者たちは、ボチボチと目を覚まし始めたようです。清興様から何かお話をされた方がよろしいのでは?」
「そうしたいのは、山々なんだ。しかし、殿のご様子をどう話せばいいのやら……。妖物の類は不得手でね。それが得意そうなお方がお越しになるから、その方と相談をしてからと思っている」
「そうですか……。あの…殿のご様子は?」
「眠っておられる。特にこれ以外に目だって異常はないようだが……」

主の寝所に立ち入ることに遠慮をしてか、夕花は戸口に座し心配げな面持ちで左近の顔を見上げる。
左近は床に中の三成に視線を移すと、夕花からも三成の様子が見えるように座をずらした。まさか、主との初対面がこんな事態になろうと誰が予想出来たであろう。左近は心中で嘆息をする。

左近に促されて、夕花はおずおずと戸口より床に伏す三成の様子を窺う。黒目がちな瞳が瞠目し、口元が小さく「あっ!?」と声を上げた。

「清興様。これ以外って……まさか……」
「そういうことだ」

昏々と眠り続ける三成。左近はその髪を一房手に取った。
その色は、鮮やかな朱ではなく白く輝く銀色であった。





2007/04/20