桜異聞録 4
三成の書斎。
その襖を力一杯両手で開く。パンっという鋭い音が響いた時、左近は目の前の光景に戦慄を覚えた。
畳に伏す人影。倒れた脇息に文机。
力無く投げ出された白い手足が見える。
その上に覆い被さる薄紅の着物。
夕刻の薄闇の中、その光景が妙に明るく浮いて見える。
殿
―――――― ッ!!
左近は腰の刀を抜き放ち吼える。
「何者だッ! 殿から離れろッ!!」
その声に呼応し、薄紅色の着物がゆるりをこちらを向いた。
サラリと揺れる栗色の長い髪を伴って陶器のような白磁の顔が左近を見遣る。
「あなや。鬼が疾く駆け戻って参りましたか……」
「妖……か?」
左近を「鬼」と呼んだのは、夕花と同じ年頃の少女――のように見受けられた。
しなやかな栗色の髪。白皙の容(かんばせ)に刻まれた髪と同じ色の瞳にはけぶる様な色彩が浮かんでいる。
一見すると、人の子の乙女のように見える。微笑む桜色の小振りな唇は幼ささえ感じる。
だが
――――――
「妖とは、異なことを……まぁ、人にとってはどちらも同じことでしょうね。邪魔だではさせませぬ故
―――――」
小さな手がゆっくりと袖を翻すと、淡い霞が袖口から湧き出てきた。
霞が晴れた時、そこに左近は信じられないものを見た。
「ッ!! この左近の姿を騙ったのかッ!?」
「えぇ、そちの影にて、治部少輔殿を油断をさせようと致しましたが、食えぬお方ですわ。関白殿下の懐刀は狐のような者と聞き及んでおりましたが、まったくその通りでございました」
白い陣羽織に戦場刀。薄気味悪い程に同じ作りの顔が無表情に自分を見つめている。左近は、思わず背筋が冷たくなるのを感じた。
その己の影を従えて、少女はクツクツと悪戯っぽい笑声を立てる。
「故に、致し方なく力尽くでお静かにとお願い致しましたの」
「なッ、貴様ッ!!」
コトリと童のように小首を傾げながら、この妖はなんと云った?
つまるところ、偽左近で三成を騙しきれなかったのでその偽物で三成を襲ったと云うことだ。
自分の姿を写し取った上、その影で三成を襲わせた。
その事実に、左近は云いようもない怒りを覚える。
「当身をしてお気を失って頂いただけです。それに、別段、お命まで頂戴しようというのではございません」
自分を睨みつける左近の激しい怒りの視線もどこ吹く風。
妖の少女は動揺する風も見せるどころか、左近の怒りを煽るかのように楽しげな笑みを浮かべながら唄うように言葉を紡いだ。
「ですから、そちは大人しゅう自分の影と遊んでいなされ」
「殿ッ!?」
左近が一歩踏み込んだ時、横から鋭い剣圧が左近に襲いかかる。
その一撃を刀でいなして左近は襲撃者に向き直った。眼前には、分厚い大刀を構えた自分自身。どこまで、左近の能力を写し取ったかは知らぬが、今、手にある普通の刀では、あの戦刀と全うにやり合うのは難しい。
愛刀は普段使いには向かないため、平時に出歩く際には普通の刀を腰に差している。普段使い用とはいっても、刀は業物であるし使い手としても十分に修練は積んである。しかし、やはり慣れた獲物とは感覚が違う。加えて、いま刃を交えるのは得意の獲物を手にした自分自身の現し身。
「くッ! 流石に自分相手っていうのはきついな」
左近の眉間に深い皺が寄る。状況は不利だ。
だが、考えている暇はない。偽の己は次々と刀を繰り出してくる。それを必死に避けながら目の端で捕らえたのは、倒れ伏す三成に添う妖の少女の姿。薄紅の衣に阻まれて、三成の安否を計ることも出来ない。
あの女、殿に一体何をッ!!
耳の奥にギリッと歯を食いしばる音がする。
三成に襲った妖は許し難いが、それを為す術なく許してしまっている自身が一番腹立たしい。しかも、己の目前でとはッ!
ガッ!
金属と金属がかち合う重い音が響く。戦刀の重量を受け止めきれずに左近の手に痺れが走る。
辛うじて刀を取り落とすことはなかったが、手の握力が戻るまでの数瞬を凌がねばならない。しかし、相手はそれを許してはくれなさそうだ。
再び、襲撃者が大刀を振りかぶったその時
――――――
「島殿ッ!」
不意をついた新ノ丞の一撃が、横合いから大刀を払い偽左近を胸を薙ぐ。
と、新ノ丞の一閃を受けた偽の左近は血を流すこともなく霞と消えた。
「渡辺殿ッ! 助かったッ!!」
「ッ! 結界が破られたのか!?」
思わぬ助っ人の登場に、妖の少女は栗色の瞳を剥いて驚きの表情を見せる。
「物の怪ッ! 殿から離れろッ!!」
隙を置かず左近と新ノ丞は、三成に添う妖に斬りかかる。が
――――――
妖の少女は、音もなくフワリと空中を飛ぶと花弁が地に降り立つように静かに庭へと舞い降りた。
春の霞に包まれた朧月夜の下。妖の少女は、懐に抱いた手鞠程の大きさの赤い玉を嬉しそうに眺めている。
「…………まぁ、これだけ集まれば、姫様もご満足でしょうし……」
「逃げる気かッ!」
「もう、わたくしの用は済みましもの」
「待てッ!!」
フフッと満足げな笑みを浮かべ、少女は淡い光に包まれると春の夜空へと舞い上がる。
慌てて新ノ丞が空中の妖に向かって手を伸ばすが、既に翼を持たぬ者の手の届く範囲を超えた高見へと少女はその身を躍らせていた。もう、弓矢ででもなければ届かない。
「放っておけッ! それより、殿だッ!!」
妖を取り逃がしたことは気に掛かるが、今はそれよりも安否を気遣わねばならぬ者がいる。
左近は、急いで書斎に取って返すと倒れ伏す三成の元の駆け寄った。
ほんの数秒。
今迄の人生の中で、こんなに長い数秒はなかった。
2007/04/14