桜異聞録 3
「今、戻った」
「お帰りなさいませ、旦那様。遅うございましたな」
ひとりの老爺が、そそくさと門前に出でて左近を出迎えた。
大阪城下。ここは、石田屋敷にほど近いところに島左近の邸宅である。
石高の割にはこんぢまりとした小さな邸宅。三成の屋敷まですぐ近いという立地を最優先させた結果だが、独り身であるので取り立てて不自由はない。
管理を任せているのは一組の老夫婦。主を見習っての質素倹約という訳ではないが、小さな邸宅なのでそれで十分であった。
その老爺に左近は、馬の手綱を預ける。
「ちょっと寄り道をしたのでな。とりあえず、顔と手足を拭く湯をくれ。殿に帰参のご報告に行く」
「清興様。わたくしは?」
「お前の紹介は明日にしよう。まさか、その埃だらけの姿でお目にかかるわけにもいくまい」
振り返って夕花の馬の手綱を手に取ると、左近は改めて彼女の姿を見直した。
馬を駆ったために舞い上がった土埃で、顔も手足も薄汚れてしまっている。恐らく自分も同じような姿であろうが、三成と自分の仲であれば、多少の不敬も許されよう。ひとまず、帰参の報告をし、念のために吉野で見たことも耳に入れておきたかった。
左近に答えて夕花も自分の着物の裾を引っ張りながら汚れ具合を確認すると、
「そうですわね。遠乗りでもこんなに汚れたりは致しませんのに……。余程、お急ぎでしたのね」
「人選を間違えたか? こんなに口の減らない娘だとは思わなかったぞ」
戯けたようにウフフと笑う夕花に対して、左近はただ苦笑を返すしかなかった。
そこに
――――――
「島殿!?」
同僚の三成の家臣、渡辺新ノ丞の声が響いた。
「おや、渡辺殿。ただ今、里より戻りました。これより殿に……」
「えッ!? そなた、先程お屋敷で俺と挨拶したではないか」
「……は?」
そんなに大きくはない新ノ丞の両の目がグルリと限界まで見開かれている。
ポカンと呆けた新ノ丞の口からは、信じられないような言葉が飛び出ていた。
「殿付きの新しい侍女。そなたの一族という若い娘……確か、名を桜花と申す者を伴って……」
「…………」
左近の表情が険しくなる。そこまで新ノ丞が事情を語った時、ふたりとも事の異常さに明敏に身体が反応をしていた。
「清興様?」
疑問を含んだ夕花が左近に呼び掛けた時には、すでに左近はその場に夕花を残し、新ノ丞と共に脱兎の如くに駆け始めていた。
ふたりは全速力で夕暮れ時の薄暗い道を走り抜ける。
「渡辺殿ッ! 殿はいずれにッ!?」
「書斎だ」
「急ぎますぞッ!」
「うむ」
左近たちが石田屋敷の門を素早くくぐり抜けた時、いつも来客に目を光らせる門番や馬番の姿はなかった。
奇妙に静まり返った邸内。事態の異常さが皮膚に泡立つような不快感を与える。
「渡辺殿は、屋敷の警護の者をッ! 表門と裏門も固めて下されッ!! 俺は、先に殿の書斎に向かいます」
「承知ッ!」
この異常な事態に動じることなく新ノ丞は素早く動く。流石に、かつて柴田勝家の一万石、秀吉の二万石の招聘を蹴った男。矜持の高さだけではなく、その武芸と胆力には並々ならぬものがある。
左近は屋敷の警護を新ノ丞に一任すると、土足のまま邸内へと足を踏み入れた。
途端
――――――
ビリッと肌に触れる空気に摩擦のようなものを感じる。
「ッ! 空気が……変わった?」
どこがどうとは説明の付けようがなかった。
ただ、いつもは感じない違和感。それは直感というものであろう。
薄衣を一枚纏ったような不透明な感覚が手足にまとわりつく。不愉快極まりない。
「殿ッ!!」
それを振り切るように左近は三成の書斎がある屋敷の奥深くへと急いだ。
2007/04/08