桜異聞録 2


「ところで、里では変った事などは起きてはいないか?」

夕餉の席。
一通り、侍女としての務めの心得や準備の話をした後、左近はふと夕花に問うた。
出来る限り目を配っているつもりではあるし、管理を任せている者も信頼に置けることは十分承知している。されど、平素は手にかけてやれない分、何か出来ることがあればと思って聞いてみたのだが、

「いいえ。平郡の里は落ち着いたものです。あぁ、ただ……」
「だた?」
「吉野の方で変事があるとか……」
「吉野でか?」
「はい。変事というより……怪異と申しましょうか。伝え聞く話では、桜が咲かぬと……」
「桜が?」

予想外の夕花の答えに左近の怪訝そうに眉を寄せる。
平群の里と吉野の里はそう遠く離れているわけでない。平群に比べれば吉野の方が山深い土地ではあるが、昼間見た平群川の水面に綻ぶ桜の枝々を思い起こせば、吉野の桜が咲かぬというのは確かに奇怪な話だ。
左近の問い返しに夕花も小さく頷く。

「えぇ、吉野の全山の桜の木々の蕾は膨らむものの、この時期になっても一輪も花が咲かぬという話です」
「一輪も?」
「えぇ、おかしなこともございますわね」

そう云い置くと、夕花は食後の茶を入れるために席を立った。
残された左近は、奇妙な話しにただ「むぅ」と唸るばかりであった。





吉野――――――
山桜の名所として名高き奥千本の山肌は、一面茶色の荒涼とした冬景色さながらの情景であった。
その見慣れぬ光景に左近は唖然とした。
いつもの年ならば、山は茶の枝の間から小さな紅を仄かに覗かせ始めている時分なのに、目も前に広がるこの景色はいったいなんだ。

「本当に蕾だけだな。これじゃ、吉野の奥千本も丸裸だ」

左近は、グルリと周囲に張り出した桜の枝のひとつを手にとって呟いた。左近の困惑に呼応するように、隣を歩く男も首を捻る。

「えぇ、本当に……。どうしたんでしょうかね。あたしらも長年山守を務めて参りましたが、こんなことは初めてですよ」
「そうか……。すまんな、もう仕事に戻ってもいいぞ」
「へい、それでは……」

吉野の桜の世話をする山守たちの話では、別段、立ち枯れの病にかかった訳でもなく木そのものは健康だという。


     ならばなぜ?


ジッと眼前の重く膨れた蕾を付けた桜の枝を見つめて左近は考え込む。
――――――

「清興様。なにか不審な点でも?」

夕花が遠慮がちに左近に声をかけた。
彼女も驚いているのか、木々を見遣る瞳は丸く見開かれている。流石にこの光景を不気味に感じているのだろうか、不安げな表情で左近を待っている。

「いや。何か人為的なものかもと思ったのだが……。自然現象では、俺もお手上げだな。ま、民の不安に付け込んでなにか不穏な動きがないか、草にでも見張らせるとしよう」

この地は寺社勢力の根が深い。故に信心深い土地でもある。更に京や大坂にも近い。
この怪異の原因を権勢を振るいつつある秀吉の所為にして、反乱を企てる者がいないとも限らない。迷信とわかってはいても不安につけ込まれれば人は簡単に騙され暴発する。そうならないように、用心をするに越したことはない。
ひとまずの対応策を結論づけると、左近は夕花に振り返った。

「手間をかけたな、夕花」

左近は夕花を安心させるように微笑んだ。
その笑みに安心をしたのか、夕花もホッと息を吐く。

「いいえ、わたくしも吉野は久しぶりですから……。桜が見れないのは残念ですが」
「用は済んだ。それじゃ、大阪に向かうとしようか」
「はい……あっ!」
「どうした?」

踵を返し並んで馬が繋いである場所まで戻ろうとした時、夕花が小さく声を上げた。

「あのぅ、髪が桜の枝に引っ掛かって……」

困ったように夕花が上目遣いで左近を見上げる。
夕花は、結い上げていた自分の髪の一房を手にするが、真後ろのため絡めた髪を上手く引き抜くことが出来ない。強く引っ張れば、枝からは解放されるであろうが、それでは折角美しく整えられた髪が傷んでしまう。

「どれ、取ってやろう……ッ!?」

そう云って左近が夕花の髪に手を伸ばした時、グイッと自分の頭が強く引っ張られた。
振り返ると己の髪が一房、しっかりと桜の枝に絡み付いてしまっている。状況は夕花と同じ。

「すまん。俺もだ」

こうなったら強く髪を引っ張るしかない。
左近が困ったように眉を下げて微苦笑を浮かべると、夕花は堪えきれぬ笑いを喉の奥で必死に噛み殺しているところであった。





夕刻の大阪の石田屋敷の門前。
陽は既に西に傾き、黄昏時の橙の光が辺りにたゆたう。
一日の仕事を終えて、石田家臣団の最古参 渡辺新ノ丞が石田邸の門を潜ろうとした時、夕闇の向こうから見知った顔がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
それは筆頭家老 島左近である。
見知った顔の足を止め、新ノ丞は左近に声をかけた。

「おや、島殿。平群より戻られたか」
「殿は?」
「書斎にお出でだ。そちらの娘御は?」
「一族の娘です。殿付きの侍女が先月、辞したのでその代わりに連れて参った」

左近の後ろにひとりの娘が立っていた。
薄紅色の着物を纏った色の白い娘で栗色の髪をゆるりと背に流している。
物腰柔らかそうな大きな目元と桜色の小さな唇。小柄な背と相まってまるで人形のようだ。

「あぁ、先日話のあった例の……。名はなんと申される」
「桜花と申します」

娘が新ノ丞に深々と頭を下げると、ハラリと長い栗色の髪が肩から零れ落ちる。
瞬間、フワッと桜の香が鼻腔を掠めたような気がした。

「そうか、名の通りの方ですな」
「殿にご挨拶に参ります故、失礼」
「あ……あぁ…………」

左近も新ノ丞も無口という訳ではないし、互いにそりが合わない訳でもない。寧ろ、三成に仕える者同士という連帯感がある。常ならば、ここでもう少し軽く言葉のやり取りがあるはず。
だが、左近は先を急ぐかのように娘を伴って、さっさと門を潜ってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、新ノ丞は首を傾げた。

「やけに口数が少ないが……疲れておいでなのかな?」

その疑問はすぐに解決することとなる。意外な展開を伴って――――――





2007/04/06