桜異聞録 1


初老の男が、頭上の小枝を見て呟く。

「今年の花は随分と遅いのぉ」

年若い男がそれに応じる。

「そうですね。聞いた話では、京や大坂ではそろそろ7分咲きのようですよ」
「いつもならば、この時期は山の半分近くの樹が5分咲きにはなるのに、まだ蕾のまんまか。いくら、都に比べて山の花咲が遅いとはいえ……これじゃあ」
「何か……。よくない兆しでしょうかね」
「恐ろしいことを云わんでくれ。ようやく、世も落ち着いてきたというのに……」
「すみません。でも、本当に何が原因なんでしょうかね」

男たちは、互いに顔を見合わせ首を傾げる。
春分の中候。花の盛りを間近に控えた山守たちの会話。
それを聞いてか、ピイっと山鳥の囀りが山間を木霊した。





大和 平群の里――――――

信貴山の麓に広がる緑野には水田が広がる。平群川から流れる豊かな水は、水田を潤し暖かな春光が水面に照り返る。キラキラといくつもの光を反射する様は、さながらいくつもの四角い鏡が、緑の敷布と化した大地に並んでいるかのようだ。
小高い丘に築かれた屋敷。その庭先から久方振りに見る故郷の穏やかな春の姿。
その美しさに満足げに左近は微笑んだ。

やがて、小さな足音が近づいてくると、するりと背後の襖が開いた。

「清興様。お久しゅうございます」

ハキハキと生気に満ちた声に呼ばれて振り返った先には、畳に伏す娘がいた。若い娘らしい淡い露草色の小袖を纏ってはいるが、少年のように高く結い上げた碧の黒髪が肩先で揺れている。

「あぁ、夕花か。久しいな。面を上げてくれ」

左近の声に促されて、娘が顔を上げる。
年の頃は14、5。
意志の強そうな切れ上がった眦とスッと弧を描く眉。一見、気が強そうな顔立ちだが、黒目がちな瞳のキラキラとした輝きが、険の強さを和らげる。
島の一族に名を連ねる娘で、左近との直接の血の繋がりはない。だが、血縁故か、どことなく左近に面影が似ている。
幼少の折に、度重なる大和の混乱の中で両親を失ったため、本家の方で引き取ったという経緯がある。このた
め、幼い頃よりこの館に住まい左近にとっては姪のような存在だ。

「暫く見ぬ間に随分と娘らしくなったもんだ」

そう云いながら左近は、娘−夕花−に笑いかけながら庭から座敷に上がった。記憶にあった幼顔の少女は、今や大人びた表情を見せる娘へと成長していた。


     ま、それだけ俺も年を取ったということかね


見違えるように成長をしていた夕花を微笑ましく思うと同時に、時の流れの速さにらしからぬ嘆息を胸襟にひとつ吐いて、左近は改めて夕花に向き直った。

この平群に戻ったのは、ほぼ二年振り。
大和の地が京や大坂にほど近いとはいえ、関白 豊臣秀吉の懐刀として辣腕を振るう主 石田三成の家老を努める身としては、気軽に里帰りなどをする暇(いとま)もない。
その多忙な左近が、郷里に足を運んだのは何も郷愁に駆られた訳ではなかった。

先日、三成付きの侍女が辞したのがきっかけだった。それも一度に三人も……
ひとりは、病身の親の面倒を見るため。他のふたりは嫁ぎ先が決まったため。何も主の勘気に触れたとか、三成の人となりに嫌気が差したというような理由では決してない。
たまさか、折り悪く時期が重なってしまった結果である。

一大名ではあるが、水口四万石という小身の身。加えて、無駄を嫌う合理主義者の三成の性格を反映して城や大阪、伏見の屋敷で働く下働きの者や自身の侍女や供回りまで、ギリギリ最小限の人数しか置いていない。
ギリギリといっても、仕事や休暇のやりくりを考慮して適当な人数を雇ってはいる。しかし、それが一度に三人も辞してしまうとなると、早急に開いた穴を埋めねばならぬ。
かといって、下働きなら兎も角、主である三成の身辺に置く侍女ともなるとそう簡単に適当な人材が見つかるわけではない。まして、日頃から「横柄者」とされる三成のこと。更に侍女のなり手を捜すのに一苦労をしていた。
困った挙げ句に、左近が白羽の矢を立てたのが彼女だった。
自分の血縁であることから、身元が確かであることもさながら、血縁といっても遠すぎずもせず近すぎもしない間柄であることもよかった。
また、彼女の気性をよく知っている。決して、三成の不興を買うこともなく役目を果たせるものと踏んでいた。
ただ、自らの血縁者を推挙することに躊躇があったため他の家臣とも相談の上、三成の裁可を仰いだのだ。

結果――――――

「俺の無理な頼みを聞いてくれて感謝するよ」
「いいえ、とんでもございません。清興様のお陰をもちまして、この島の城の土地も清興様の代官地として安定致しました。清興様の主、石田様や関白殿下にも大変ご尽力頂き、そのご恩がお返しできるならば、なんの無理がございましょう」

礼を述べる左近に対して、夕花は小さく頭を振って答えた。

「なに、しばし放蕩して一族に迷惑をかけたこともあったしな。それに、この土地がまた戦乱で荒れるのは見たくはない。殿や殿下が、ここを俺の代官地にしてくれたことには驚いたがな」
「はい、みな、松永弾正以来の長年の戦に疲れております。ですから、石田様にお仕えするよう清興様からお話が会った時には、わたくし、とても嬉しゅうございました。この太平の世を築かれるために、ご尽力されている方にお仕えできるなど思ってもみなかったことですもの」

嬉しそうに微笑む夕花からは、三成や秀吉に対する深い敬愛の念が感じられる。これなら、三成に誠心誠意を持って仕えてくれるだろう。恐らく、三成の方も心を尽くして仕える夕花を気に入るに違いない。
左近は、改めて一も二もなく快諾をしてくれた夕花に感謝した。

「そうか……。あたら、娘盛りを気難しい殿のお世話係にするのも気が引けるのだが、そう云ってもらえると助かる」

そう云って笑う左近に対して、夕花は目を丸くすると、声高に左近に思わぬ抗議をする。

「まぁ、気難しいだなんてなんてことをッ! 石田様……いえ、殿はいつも下々のことを気にかけるお優しい方だとおっしゃっておられるではありませんかッ!!」
「俺はそんなこと云っていたのか?」

余りの夕花の剣幕に今度は左近の方が目を丸くした。

「平郡の里に寄越される便りには、殿をお褒めになる言葉し書かれておりませぬ。清興様ほど人を見る目にお厳しい方が、随分と惚気られるものだと、みな申しております」
「…………はは、それは……また」

「敬愛する主に向かってなんてことを」と云わんばかりに頬を膨らます夕花に、代官地の管理を指示する便りに自分はいったい何を書いたのかと、左近は頭を抱えたくなった。
多分、そんなにベタ褒めなことは書いてはいないとは思うのだが……
主観と客観では、感じ方に大きな差があるのはわかるが、夕花でさえ、こんなことを云うのだ。実際に文のやり取りをした者はいったいどんな風に思っているのかと想像すると頭が痛くなってくる。


左近は、ゴホンと態とらしい咳払いをひとつ。


「と、兎も角……。殿は非常に公正な方だが、お立場上あらぬ敵意を持つ者も多い」
「はい」

強引に変えた話題に、夕花は素直に話題を会わせてくれる。仄かに笑みが浮かんでいるのは、極力無視しよう。
少々、バツの悪い思いを感じながらも左近は話を続けた。

「そうならないよう屋敷の警護は厳重にしているが、いざとなった場合は……」
「心得てございます。昔、清興様に教えを受けたとおり、日頃の鍛錬は欠かしてはおりません。お陰で、最近では男衆も嫌がってわたくしの稽古に付き合ってはくれませぬ」
「ははは、それは重畳なことだ」

夕花は、相手にしてくれぬ男衆をからかうように少し肩を竦ませてみせる。
確かに、昔武芸を仕込んだ時も、他の少年らよりも彼女の方が飲み込みが早かった。今回、彼女を侍女に推挙するにも気質もさることながら武芸の腕を見込んでのことだったのだが、余りそれが克ちすぎると別の懸念が持ち上がってくる。

「まぁ、嫁き遅れにならんよう気を配るから、しっかりと仕えてくれ」

そう苦笑を返す左近に夕花は「余計なお世話ですわ」とむくれて見せる。
その、年相応の少女めいた表情に、左近は大きく相好を崩すのであった。





2007/04/03