桜異聞録 10
「どうだ? 三成を襲った妖か?」
「…………似てはいるが…違うようですな」
捕らえた妖の少女に鋭い一瞥を投げかけて左近は兼続の問いに答えた。
人形のように整った小柄な顔立ちに艶を放つ栗色の長い髪。確かに、姿形はよく似ている。
だが、三成を襲った妖の少女からは傲慢とも云える強気な雰囲気を感じたが、今目の前にいる少女からには、そういった感じは受けない。どちらかというと、たおやかで幼げな印象を受ける。
少女は青褪めた顔のまま、カタカタと肩を小刻みに振るわせている。どうやら怯えているようだ。
その少女は、左近の返答に応じて血の気の失せた薄紅色の唇を開いた。
「そ、そうじゃ、水口の殿様の精気を取ったのはわたくしではないッ!」
「では、誰だというんだッ!?」
「い、云えぬ……」
左近の強い誰何の声に少女は益々顔を青くして口籠もるが、何とか声を繋ぐ。
「云えぬが……悪いと思うたから……こ…こうしてご神酒を……」
「この妖。殿に何かを飲ませようとしておりましたの。容器を割ったため中身はすべて零れてしまいましたが……」
少女の言葉を夕花が受けると、夕花は左近に割れた七宝の小瓶を差し出した。小瓶は細い鶴口の中程から割れ、大きく口側と胴側のふたつに別れている。後は細かい欠片が何片か。
白い布にくるまれた小瓶の破片を受け取り、左近がそれを眺め遣ると覚えのある馥郁たる匂いがふと鼻腔を擽る。
「これか……。この匂いは……酒か?」
「だから、ご神酒じゃ」
「ご神酒?」
左近の疑問を応えて少女の発した語彙に左近は眉を寄せた。
「三輪の神から主が賜ったご神酒じゃ。わたくしのものではない故、そう多くは持ち出せなんだが……。これは神からの賜り物。故、神気が濃い。ほんの数滴で、眠ったままの殿様の目を覚ますくらいは出来ようと…………」
少女は、訥々と割れた小瓶の酒の来歴について語るが、その内容に兼続も左近も目を丸くする。
三輪の神? 神からの賜り物? 神気??
どうやら妖や物の怪の類と思っていた少女の正体は、それらと類を異とするらしい。もっとも、「こうなっては妖も神も似たようなものではあるがな」と左近などは胸中で苦い息を吐く。
一方、少女の方も畳に染み込んでしまった酒精を眺めて、ふぅっと意気を落とす。
「じゃが、それもみな零れてしもうた」
「瓶の底にいくらかは残っているようだが……」
興味深そうに割れた小瓶を手にしていた兼続がそう告げると、パッと少女の顔が明るくなる。
「まことかッ! ならば、数滴でよい。水口の殿様のお口に含ませれば、お目も覚まされよう」
「あんた。そんな怪しい代物を信じて殿に飲ませると思っているのか?」
「……うぅ」
しかし、左近は喜ぶ少女に胡乱な視線を投げるとピシャリと少女の言葉を拒否する。その厳しい態度に少女は萎れた花のように再び肩を落とした。
暫しの沈黙。やがて――――――
「……女。神酒とやらを含ませずに、このままにしたら、三成はどうなる?」
「死にはせぬ。ただ、目を覚ますのに後、三、四日はかかろう。目が覚めた後も、神の気が薄い人の世では、精気の回復に時間がかかるであろうな。髪の色の回復にはもっとかかる」
「だが、死ぬことはないのだな」
念を押すように兼続が鋭い眼差しで妖の少女を射抜けば、少女も真っ直ぐに兼続を見返し頷いた。
「それはない。されど、聞いた話では、殿様は非常に多忙なお方とか……。死ぬことはなくとも、精気が回復するまで半病人も同じ。それでは、殿様が困ると頼まれて……」
「頼まれた? 誰にだ」
「そこの梅の木にじゃ」
少女が指さしたのは庭の紅梅。
梅の木は花枝を風にそよがせている。少女が指さした時、その枝が少女に応じるが如くに花弁を庭に撒き散らしているように見えたのは気のせいだろうか。
思いもよらぬ少女の話に、兼続も左近も毒気を抜かれたように「はあ」と眉を下げるばかりであった。
「そこの梅の木は、殿様にとても感謝しておる。いつぞや、あの梅の木が立ち枯れの病にかかった折も、切らずに庭師に看病をさせたとか。お陰で、命永らえることが出来たと感謝をしておってな。何とかならぬかと、花の頼りをわたくしに寄越したのじゃ」
少女の話に兼続が視線で事実を左近に問うと、左近は困惑気味に眉根を寄せる。
「確かに……、そういった事実はありますがね…」
左近が三成に召し抱えられてそう日が経たぬ頃の話だ。
てっきり、合理主義者で無駄を嫌う主ことだから、枯れかかった庭の植木などさっさと植え替えるものだと思っていたのに、わざわざ庭木の名人を招いて紅梅の木を診させるという。
不思議に思って問うてみたら、
「まだ、枯れておらぬのであろう? 治る余地があるなら治してやるのが筋ではないか?」
との答え。
この時、改めて新たに己の主となった年若い青年の見た目に反した不器用な優しさを知った気がしたのだ。
束の間の回想から意識を現実に引き戻し、左近は尋問を続けた。
「ほう、それで?」
「あの梅の木は……毎年、わたくしが、花染めを行っておってな。人で云えば、友達のようなものじゃ。友達のお願いは聞き捨てられぬ。そ、それに……………殿様の精気を奪ったのは………わたくしの……そ、そのぉ……」
少女は細い眉を寄せては口中で「えっと」や「そのぉ」ともごもごと云おうか云わまいかと迷っている。
迷い。
沈思。
そして、逡巡。
しばしして、少女は重たい口を開いた。
「姉者なのじゃ……」
一同は、ポツリと呟かれた少女の震える声を反芻する。
梅の木の花染め?
友達?
姉?
昇華しきれない言葉の渦が、グルグルと脳内を駆け回る。
平素であれば、忽ちの内に発せられた言葉の意味を汲み取り、その裏にある心理も嗅ぎ取ってしまう優秀な頭脳も今は沈黙を守ってしまっているようだ。
左近も兼続も、ただ互いの顔を見合わせて首を捻っている。
己の姉のしでかした事柄の責を左近たちが激しく問うもの思っているのだろう。その間にも、真っ青になった少女は必死に弁明を口にする。
「姉者も悪気はないのじゃ。本当じゃッ! こ…これには、止むに止まれぬ事情があって……だ、だから、わたくしは………わた……お…おわ……お詫びに…………」
とうとう少女は、栗色の瞳から透明な滴をポロポロと零し出してしまった。尚も口を紡ごうとするが、抑えられない嗚咽がそれを邪魔をする。
捕らえられた上、厳しい叱責にあい少女の緊張も頂点に達したのだ。少女は、溢れる涙で濡れた顔を伏してしまった。時折、ヒックヒックと肩が泣き声に揺れる。
その幼げな様に、流石に左近も兼続も居心地の悪いようで、どうしたものかと互いに眉間に皺を寄せる。
まったく、これじゃ俺たちが苛めているようじゃないか
見た目だけなら人間の少女とかわりがない。しかも、あどけない面影を浮かべる美少女である。中身の真偽は兎も角、外見から判断をすれば、彼女を泣かせている左近たちの方が悪人っぽく見えぬでもない。
別段、彼女を許した訳でもないし尋問の手を緩めるつもりも毛頭ないが、できれば泣き止んでは欲しいところではある。
「わ、わかった。わかったから泣くな」
妓楼の艶やかな妓たち相手になら百戦錬磨の島左近も、泣いている少女を相手にしたことなどはない。
思案の末に、泣き伏せる少女になんの捻りもない慰めを試みる左近の横で兼続が感嘆の声を上げた。
「妖であっても友情を大事にするか……。うむ、悪しき妖怪ではなさそうだな」
「直江殿。簡単に情にほだされないで下さいよ」
「わかっている。心配されるな、島殿」
何故か兼続は、少女にいたく感じ入ったようだ。明らかに、少女に対する態度が軟化をしている。理由は恐らく「友の頼みは断れぬ」という少女に共感を示したのだろう。
「義」を掲げ、それを行動の規範としている兼続ならば、友を思う心根を美しいと感心するのもわかる。しかし――――――
なにも、今ここでそんな風に思われなくても良いでしょうがッ!
明らかに左近の存念と何かの方向性がずれている。そんな兼続に胡乱な視線を投げかけるが、兼続はそんな視線に気付くことなく少女に問いかける。
「で、女。止むに止まれぬ事情とは?」
「そ、それは云えぬッ! それだけは絶対にわたくしの口からは云えぬッ!!」
「なにゆえ?」
「わ……、わたくしの主に関わること故。主の許しなくば、事情を説明することはできぬ。そ、それに……」
兼続の柔らかくなった態度に少し安心したのか、伏した顔を上げて少女は答える。しかし、答えられぬ問いに少女は眉を下げてフルフルと頭を振る。
「わたくしは、主の酒蔵よりご神酒を盗んでしもうた。これ以上、主を裏切る訳には……」
「なんと、妖でありながら主への忠誠を違えぬとは……。忠にも友にも篤いとは、天晴れな物の怪だ。人にもそのような立派な心がけの者などそう多くはおらぬと云うのに……」
「いや、だから……情にほだされんで下さいよ。この女の話が本当だって証拠は何もないんですから……」
「島殿は疑っておられるのか?」
「疑うべき根拠もないですが、信じる謂われもない。全部を語って貰っている訳じゃありませんからね。まして、そのご神酒とやらを殿に飲ませろなどと……慎重にもなりますよ」
意外そうな兼続に左近は首を横に振った。
確かに、この少女には悪意はないのかも知れない。寧ろ、真実、三成の身を案じて無理を重ねてこちらに参ったのかも知れない。されど、だからといって根本的な問題は不透明のまま。彼女の善意を利用した第三者が、悪意を持っていないとも限らない。
左近から見れば、三成も兼続も余りにも「義」というものを信じ過ぎているのでと思う時がある。ふたりとも常人よりも遙かに頭が切れるはずなのだが、時折、「義」や「道理」といったものがその視界を狭める。
まさに今の兼続がそうだ。少女の、主への忠心や梅の庭木への友情などに「義」を見る余り、彼女を信じかけている。
まぁ、素直に少女の心根に感じ入れない自分は、それだけ年と経験を重ねたということだろう。もっとも、ただ単に人が悪いだけなのかもしれないが…………
兼続は少女の言葉を半ば信じている。だが、左近は信じてはいない。
しかし、ひょっとしたら眠りの中の三成を救う手立てとなるかも知れない。ここで、毒かどうかを判定するのに一番てっとり早い方法を兼続は提案した。
「ここはやはり……毒見ですかな」
「そうでしょうな……」
まぁ、多少の毒なら身体を慣らしてあるし体力で克服もできるであろう。「まずは、匙を連れてきてから」かと左近が思考を巡らす横で、兼続がご神酒が残った瓶を手に高らかに決意を表明する。
「……フッ、三成のためならばッ!」
「って、ちょっと待って下さいよッ! あなたに毒味役などさせられる訳ないでしょうッ!! ここは、この左近が……」
「なにを云う。三成の大事な片腕にもしものことがあれば、わたしは三成になんといい訳をすればよいのだッ!」
「それはこっちの台詞ですよ。殿の大事なご友人に毒見などさせられませんよ」
大の大人がふたり、毒見をするさせられないと妙な言い争いを始めた。
すっかり泣き止んだ少女は、天下に名高いふたりの名軍師が子供のように言い合う姿を奇異な目で眺め遣りながらポツリと告げる。
「…………一言云うておくが……そなたらみたいに精気が満ち満ちている者が飲むと大変なことになるぞ」
『え?』
思いもかけずに、左近と兼続の声が唱和する。
「女。それはどういう意味だ?」
「…………うら若き乙女の口からは……申せなんだ」
『はい?』
再び唱和。
「何故、云えん?」
「だ、だから……わたくしのような………乙女の口からはとてもではないが…………い、云えぬわッ!!」
先程まで涙で真っ赤に染めていた少女の目元に朱が上がる。口元を袖口で押さえて、「絶対に云わぬ」と全身で示している。
その間にも目元に上がった朱は耳まで広がっている。
少女の挙動不審な態度を訝しむ左近と兼続に、事態を黙して見守っていた夕花がおずおずと声をかけた。
「あの………こういうことでは?」
そう云って夕花は己の足元を指した。その顔には困ったような苦笑が張り付き、彼女までもが微かに頬を染めている。
指さす方に目を向けると、いつの間に来たのであろうか。大きな虎縞の猫が一匹。夕花の足にじゃれついているが…………
「猫?」
「…………盛っておるな」
「……………」
「……………」
「そ、そういうことか……」
「そ、そりゃ…ね…」
人間ではないため、本当に見た目通りの「うら若き乙女」かは計りかねるが、確かに乙女としては口憚れる状態となるようだ。
参ったと云わんばかりに、左近も兼続もそれ以上何も云えずに微苦笑を浮かべた。
2007/05/19