桜異聞録 11


暫く夕花の足にじゃれついていた虎猫は、「にゃおん」と一際大きな声で鳴くと太い尾っぽをフリフリ左右に振りながら、恋いうる相手を探すべく春の夜の闇の中へと消えていった。
足取り軽やかなその様を見て、兼続が肯く。

「どうやら、真に毒ではないようだな」
「女。お前を完全に信じた訳じゃない。殿に万が一のことがあれば…………」
「わかっておる」

ギロリと投げかけられた鬼の一瞥から必死に目を逸らすことなく少女は青い顔のまま肯く。

「あの……では………」
「あぁ、頼む」
「殿。失礼致します」

左近がクタリとしたままの三成の上半身をそっと抱き上げると、夕花はご神酒を含ませた真綿をそっと三成の唇に当てる。真綿に染み込んだ酒精が、渇きかけていたその唇を濡らす。
湿り気を感じ反射的に薄く開いた三成の口から滴が数滴、口中に消え喉が小さくなった。

それから数瞬。
見守る左近たちにとっては云いようもなく長い瞬間が経過すると、最初にその変化に気がついたのは左近であった。

「…殿?」

伏せられた瞼が微かに震える。
唇が細く息を吐く。
程なくして「ん……」と小さな呻きを上げ、ずっと閉じられたままだった三成の瞳がうっすらと開いた。意識のない茫洋とした琥珀の瞳が空を彷徨う。

「殿ッ!」
「三成ッ!!」
「……さ…こん……? かね……つ…ぐ……?」

左近と兼続の呼び掛けが、三成の鼓膜を震わせ無意識の狭間から三成を引き上げた。ぼうっとした琥珀の視線が左近と兼続を捉えると、たちどころに瞳は意志の光を灯した。
――――――

「身体が……重い……。俺は……どうしたと…いうの……だ?」

三成は己の身の異変に困惑の表情を見せる。
全身が木偶にでもなったかのように重い。何とか手足を動かそうとするのだが、その思考でさえ油断をすればあっという間に云いようのない疲労感に囚われて、再び眠りの中へと飛び込んでいきそうだった。

「精気が足らぬ。やはり、回復には相当の時間がかかりそうじゃの」
「殿。よくお聞き下さい……。じつは……」

見慣れぬ美しい少女が心配げに自分を覗き込んでいるのを不思議に思いながら、三成は左近の語る言葉に意識を傾けた。





「なるほど……それは、困ったな…」

左近の腕に身体を預けたまま、三成は眉間に皺を寄せる。
たった二三の言葉を発するにも随分と苦労をするようで、少し肩で息をしていた。それだけの動作にも疲労感が重くまとわりつく。この状態では、執務をこなすどころの話ではない。

「ほんの数滴で意識を取り戻したのだ。そのご神酒とやらがあれば、元通りになるかもしれませんね」
「女。もっとご神酒とやらを持ってくることは出来ぬか?」

現在、一縷の望みを託せるのは少女の持ってきたご神酒しかない。兼続が少女に問うが、少女は細い眉を寄せて首を竦める。

「む……無理じゃッ! わたくしとて、その……殿様が気の毒とは思うが…………これ以上、主のものに手を付けるなどと……」
「事情は知らぬが、元はといえば、あんたの姉や主とやらのせいだろう?」
「そ……それは…」
「なら、あんたがご神酒を持ち出せないなら、あんたの主の名を云え。俺が直接掛け合ってやる」
「云えぬ。云えぬ」

激しく頭を振って少女は拒絶するが、左近に容赦はなかった。
元来、左近は笑みのひとつでもを浮かべれば、その人好きする人柄に惹かれて女ばかりでなく子供にも非常に人気がある。しかし、今はその面貌に怒気を滲ませて戦場さながらの迫力を滾らせる。だが、そんな気迫を向けられる方は、堪ったものではない。
少女は、ただただ白い顔を更に白くして頭を振り続けることしかできない。
左近とて、人間ではないとはいえ善意の少女を恫喝して怯えさせるなど本意ではない。が、元より被害を被っているのは三成の方である。その点は兼続も同意らしく、なんとか少女からご神酒を入手する方法はないか考えているようだ。
尚も左近が口を開きかけた時、それをそっと制する手があった。

「よい……左近。その妖を放してやれ…」

意外にもそんな左近を制したのは三成だった。

「殿………」
「元々、その妖に責はあるま…い。もう既に……主人の酒蔵から…盗みを働くという……罪を…犯してい…る。それ以上、その妖を責めても……致し方ない…」
「し、しかし……」

ご神酒以外の回復の手がない以上、このご神酒がなければ一番困るのは三成自身であるはず。なのに、その苦しい息の下から発せられた言葉に左近は目を瞠った。
喋るのもひどく億劫な状態にもかかわらず、三成は左近に腕に手を添えて、その面に「困ったヤツだ」というような苦笑を浮かべた。

「左近らしくない…な。妖とはいえ……おなごではないか……。苛めてどうする?」
「殿…………」
「妖……。主のものに手を付けさせたな……すまぬ。もうよい。主の元へ…戻るがいい」

少女に視線を移した三成は、笑みとそれだけを言い置くとフツリと糸が切れたように身体から力が抜け落ちる。
急に増した腕の重みに左近が慌てた。

「殿ッ!」
「眠ったようだな。だが、先程よりも顔色はいい。多分、時期に目を覚ますと思うが……」
「殿様……」

思いもよらぬ三成の言葉に少女は目を丸くしたまま、再び眠りについた三成を見つめる。
元々、三成に迷惑をかけてしまったのは自分たち。
謝らねばならぬのは、こちらの筈なのに三成は自分を気遣って「すまぬ」と云ってくれる。
なんだかよくはわからぬが、少女は胸の中心にポッと何かが灯るような暖かいものを感じた。
三成を助力してくるよう便りを寄越した梅の木も、今、周りで彼の身を案じる人たちもきっと同じ気持ちを持っているのだろう。



本来は、人の手に渡すようなものではない。だが、今の自分ができることといったら、これくらいしか思いつかない。ひょっとしたらいずれ己のことよりも自分を気遣ってくれた優しい人のために何かができるかも知れない。

「あ……あの、これを……」

少女は、左近に小さな手を差し出した。
左近はそれを無骨な手で受け取った。太い掌(たなごころ)に置かれたのは、五色の組紐で彩られた小さな鈴。仄かに赤みを帯びた黄金色の小鈴は、淡い色合いを灯火に照り返す。

「これは鈴か?」
「わたくしは、まだ大した神力も使えぬ若輩の身。なれど、なんぞわたくしで出来うることがあればそれで呼んでたも……」

左近は受け取ったそれを手中で転がすと黄金色の呼び鈴は、チリンと澄んだ音を耳に届ける。

「それと、わたくしの名は妖ではない」
「では、なんと?」
「梅花じゃ」

そう云うと、少女は初めて口元を綻ばして微笑んだ。





気がつけば、春の月はすでに天高く昇り宵を深くしていた。
その夜空を見上げながら、左近は少女−梅花−が飛び去った彼方を遠望する。

「行っちまいましたな」
「だが、少なくとも相手が物の怪の類でないことはわかった。恐らく、どちらかというと神に近い存在のようだな」

同じく眼差しを虚空に投げかけていた兼続が応える。

「三輪の神からの賜り物とか申しておりましたが……」
「三輪の神。大和の古い神か……。それに縁のあるものならば悪しき存在ではないであろう」
「吉野に三輪ねぇ……」

思わぬ事態に関連してでてきた馴染みある名に、妙な気分になる。
左近は、らしからぬ溜息をひとつつくと眠りの住人となった三成の様子伺うべくその場を後にするのであった。





2007/06/08