桜異聞録 12


「本当に桜が一輪も花を咲かせていないのですね」
「あぁ、まったくの丸坊主じゃねぇか……。蕾はまん丸に膨れているから、今日明日にもで花が開いても可笑しくはねぇってのによ」
「山守の話では、このようなことは初めてだとか……。まぁ、珍しいから怪異と云うんでしょうがね」

時は少しばかり遡り、ここは吉野。
奥千本の桜並木を一通り巡り、幸村と慶次は人里に降りた。ひとまず、咲かぬ桜を見ようと来たのだが、左近に聞いた話以上の収穫はなく、ただその異様な光景にお互いに驚愕するばかりであった。
ともかく、なんの手がかりもない今は、足を動かして情報を集めるしかない。寺社の参拝客相手の宿場町を歩きながら幸村はこれからの行き先を慶次に相談する。

「さて、吉野に参ったのはよいのですが……。ひとまず、近場の寺社にでも聞いてみますか?」
「ま、それが一番妥当といえば妥当だなぁ。んじゃ、ちょっくら行ってみようかね」

だが――――――

「…………結局は、無駄足でしたね」

吉野の宿の一室。
幸村は疲れたように呟く。吐き出された重い溜息に合わせるように灯火がユラリと揺れる。

「まぁ、焦るなよ、幸村。吉野に着いたばかりじゃないか。大和には寺や神社の数は多いんだぜ。寺がダメなら、在野の拝み屋や呪い師を当たってみてもいいんじゃないかい」

いくつかの寺社を回ってみたものの、今回の怪異の原因について皆目検討がつかない。それどころか、無駄に長い説法を聞かされそうになった時には、流石の幸村も辟易としたものだった。
快活な青年にしては珍しく、重く鬱屈とした硬い表情のまま幸村は「はぁ」っと肩を落とす。

「しかし、我々には時間がありません。一刻も早く、この怪異と三成殿の災禍との関係や原因を掴まねばなりません」
「と、なるとなぁ。俺流のやり方で構わないなら、手がない訳じゃあないんだがね」
「なにか、方法があるのですか、慶次殿!?」
「ま、明日のお楽しみってところかね。そら、そろそろ寝た寝た。明日、眠くて起きられねえといっても容赦しねぇぞ」

慶次の言葉を聞いた途端、顔面に喜色を滲ませた幸村に、慶次は笑いながら布団を放って寄越すのであった。



翌朝――――――

幸村はひとりで、再び寺社を巡る。
朝、慶次は一人で行くところがあると云って、合流の約束だけを告げてさっさと出かけてしまった。
頼りにしていた慶次に置いて行かれた上、慣れぬ土地での情報収集の結果は惨憺たるものだった。
足を棒にして歩き回り、気が付けば刻限はもう昼。午前の全てを無駄にしてしまったと幸村は浮かぬ顔のまま、慶次との約束の宿へと向かうのだった。



「よう、その顔じゃあ結果は云わぬが花ってやつだな」
「慶次殿ッ!? いったい、どこに行っていらしたんですか!?」

宿の食堂。
先に昼餉の注文をしていた慶次を見つけるなり、幸村が声を上げた。ズカズカと足音も荒く慶次に近づくと更に険を深める。

「云わぬが花ではないですよッ! 行く宛があるならあるで、なんでわたしに何も仰ってくださらないんですかッ!!」
「そう怒るなよ、幸村。物事には順序ってヤツがあるのさ。それに情報収集なら二手に分かれた方がいいってこともあるさね」
「……で、慶次殿の情報収集の結果をお聞きしてもよろしいので?」
「珍しく怖いじゃねぇか。まぁ、飯を食いながら話そうや」

戦場で無類の槍働きをする若武者と思えない程、普段は温厚な幸村だが、今は三成にも負けぬ不機嫌そうな顔をしている。
むっつりと黙り込んだまま慶次と相対するも、慶次は気にした風もなく並べられた膳を口に運んでいる。その鷹揚な態度に少々毒気を抜かれたのか、漸く幸村が慶次に話を促す。

「それで、午後はどうするのですか?」
「まぁ、調べるにも時間がないと来れば……噂話から情報を拾うってのが相場だな。で、噂話が集まるところといやぁ……」

そう云うと、口元をニヤリと上げて慶次が喉を鳴らして笑っていた。





それから半刻後――――――

幸村と慶次は、薫る白粉と香の匂い、優美な楽の音と艶やかな舞の中にいた。

「結局はこうなるのですね」

慶次に連れられてきたのは、ここいらで一番という妓楼。情報収集にはこれが一番と、無理矢理に座に上げられたのだ。
自他とも認める武辺者にとっては、余り得手となる場所ではない。ましてや、今の自分たちに課せられた使命のことを考えるとどうにも腑に落ちない。再び、幸村の眉が顰み気味となっている。
そんな幸村の素直な心情が面白いのか、慶次は呵々と大笑をすると、

「そう渋い顔をしなさんな。あんたの師匠の信玄公だってその弟子の左近だって、こうして情報を集めにしょっちゅう妓楼に上がるじゃねぇか」
「それはそうですが……」
「気分が乗らねぇか? だが、あんたがそんな顔をしてたらお喋りなお花も何も喋っちゃくれないぜ。ここには、お喋りが目的出来ているんだから、楽しい顔をしねぇとな」

「なぁ、そうだろう」と慶次は左右に侍る妓女たちの肩を抱くと、妓たちも嬉しそうに慶次の厚い胸板にしなだれかかる。
その様子に、幸村も強ばっていた肩の力が抜けるような気がして、やれやれと寄せていた眉を下げた。

「慶次殿はいつもとお変わりないですね」
「俺は傾奇者だぜ。妖相手にオロオロしてちゃあ名が廃るってもんさ。相手が妖だろうと魔王だろうと楽しめるモンは楽しまないとなァ」
「慶次殿には参りますよ」

そう云って、武辺者の若者は頬笑む傾奇者に笑いを返した。





「それにしても、こりゃあ、吉野の桜に負けねえ美人揃いだねぇ」

慶次は一座をグルリと見回して感嘆する。座に呼ばれた四人の妓女たちは、慶次の審美眼に叶う程の器量よい妓たちであった。
座に上がる前、この妓楼の女主人にはできるだけこの辺りの情報に詳しい妓が良いと言い含めて幾分か多めに支払いをしたのだが、どうやら情報通は美人とここでは決まっているようだ。

「まぁ、お口の巧いお方ですこと。お客さんも吉野には桜見物に?」

慶次の酒杯に白濁の酒精を注ぎながら妓女のひとりが問うた。どうやら、彼女がこの妓女たちの中で一番の年嵩であるらしい。

「少し早いがね。何、蕾から花開く様を見物するのも一興だと思ってよ」

酒杯に口を付けながら慶次がそう答えれば、妓も紅を乗せた口元に笑みを浮かべる。

「風流なご趣味ですのね。それでは、山を見てガッカリなさったでしょう? 今年はまるで花が開かないのですから……」
「あら、そう云えば……咲かぬと云えば、佐保の桜もちっとも咲かぬという話を聞きましたわ」
「へえ、それで?」

何気ない風を装うが、慶次の耳がピクリと動く。どうやら当たりを引いたらしい。
客の興味を引けたのが嬉しいのか、口を開いた妓が上機嫌に舌を滑らす。

「吉野があんな状態だから、みな、佐保のことまで気が回らぬようですけど……。やはり同じように蕾のまま花が咲かないそうですわ」
「あら? でも春日山は咲いているのでしょう?」
「宇陀の里も三輪山もだいぶ綻んでいると云っていましたわ。右京側の竜田山や信貴山、生駒山もちゃあんと花が咲き始めているという話よ」

次から次へと妓たちの紅唇から風にハラハラと散る桜の花弁のように、話題が振り落ちる。成る程、座に集められた妓たちが、噂話に耳聡いというのは確かなようだ。

「あらあら……それは随分とおかしなこと。佐保山の桜に吉野の桜の悪い風が移ったのかしらねぇ」

幸村の側に侍る妓がそう不思議そうに眉を寄せて呟くと、慶次の空いた酒杯に酒を継ぎ足しながら、最初の年嵩の妓が少し考え込むように言葉を紡ぐ。

「佐保山ねぇ。それなら逆かも……佐保山の悪い風が吉野の桜に悪戯をしているんじゃないかしら?」
「逆?」

一番、年下らしい幼さの残る妓がそうちょこんと小首を傾ける。

「てぇすると……ひょっとして佐保の女神様のご機嫌でも悪のかねぇ」
「まぁ、そうかもしれませんわね」

妓たちの噂話を受けた慶次の揶揄に彼女たちもクスクスと呼応する。
妓たちは慶次の話に理解を示したようだが、幸村には何故に妓たちが笑うのかがわからない。佐保山の女神とやらが関係しているようだが?

「あの……佐保の女神とは?」
「なんでぇ、知らないのかい、幸村」
「何せ武辺者ですので……」

幸村は素直に眉を下げる。
確かに詩歌や古典に通じる風雅な幸村というのも想像がつかない。胸宇の片隅で、そんなことをチラリと考えながら、慶次は口角を上げる。

「古来より、日本には季節を司る四人の女神がいてな。春を司るのが佐保姫って女神様だ。夏は筒姫。秋は竜田姫。冬は白姫ってな。それで、この女神様は南都(奈良)の東に座す佐保山に住んでいるって伝承さね」
「佐保山に女神ですか……」
「あぁ、この女神様の仕事というのが、春の野山を染めたり春の霞を織ったりするのが仕事だそうだ。案外、吉野の桜が咲かないのは、姫君の仕事が巧くいかねぇ所為かもなぁ」
「本当でしょうか、その伝承というのは……」
「さぁてな」

疑わしげな幸村を吹き飛ばすかのように大笑すると、慶次はグイッと杯を空けた。





ふたりが見世を出ると、陽光はまだまだ暖かく地上に降り注いでいた。
探索を辞めて宿へと引き上げるには、まだ早い。かといって、探索を続けるには少々遅い。そんな微妙な時間帯。しかし、自分たちに猶予などないことを幸村は十分に感じていた。

「それで、これからどうします。佐保山に向かうならば急いだ方がよいと思うのですが……」

手がかりと云うには、少々頼りない気がするが他に方策もない。
幸村は、馬の鞍の具合を確かめながら慶次に声をかけた。今すぐにて出立する準備はできている。

「お、わかっているじゃねぇか。なぁに、俺の松風とお前の馬の脚なら、夜には佐保に辿り着けるだろうよ」
「しかし、佐保山に着いてからはどうすればよいのか。本当に女神なぞいるのでしょうか」
「実際、物の怪が三成を襲ったんだろ? なら、佐保山に姫神が住んでいても可笑しかねぇ。ま、行ってみるだけ行ってみようぜ」

元気づけるように慶次が幸村の背を軽く叩く。それを合図に幸村と慶次はヒラリと馬上の人となった。
やがて、吉野の古道を二頭の馬が疾風のように駆け抜けていった。





佐保路を往くふたつの人影。
幸村と慶次は、夜半の春霞の月明かりの中をゆっくりと馬に揺られていた。

「すっかり遅くなってしまいましたね。今夜が満月でよかった」
「まぁ、夜桜を見ながら万葉に謳われる麗しの姫君を探し歩くってのも粋じゃねぇか。妖相手なら昼より夜の方が具合がいいってもんさ。それに、佐保山の周囲は、寺や古い御陵があちこちにある。化け物だって出やすいだろうぜ」
「まったく……楽しんでおられますね、慶次殿。しかし、夜桜と云ってもこの辺りは……噂通りですね」

グルリと周囲を見渡す幸村の眼には、桜の花弁は一片も見えなかった。
途中、駆け抜けた三輪山の桜並木はもうじき満開を向かえようかという具合であったが、今歩く佐保路の脇の桜の花々は、吉野の奥千本と同じく冬の眠りについたまま、花咲く気配がない。他の春の花は、季節に合わせて互いに美を競っているのだが、桜花のみが沈黙を守っている。
その物慣れぬ景色の中、ふたりは佐保山を目指して馬を進めた。




佐保山へと続く山道。その一画の大きく開けた場所で幸村たちは妙な影を見つけて歩みを止めた。
適当な岩を席に瓢箪とおちょこを挟んで向かい合わせの影がふたつ。

「さてさて……困った困った」
「困ったばかり申しておらずに、なんぞよい知恵はないのか」
「そういうお主は、どうなのじゃ? 第一、こう山に籠もられては催促のしようもない」
「かといって、催促のひとつでもせなんでは、我らが叱られてしまうぞ」
「はぁ……参ったことよ」

興味をそそられた幸村と慶次は、馬を降りてそっと物陰から岩に座す影に近づくと、溜息と何やら愚痴らしき会話が聞こえてきた。
狩衣に烏帽子。随分に古風な出で立ちの男たちが、月を肴に酒を酌み交わしていた。
それにしても、ひとりは縦に伸びた顔に殆ど平らな鼻頭。続くは少々突き出した唇。見た目は鳥のようである。
そして今ひとりは、横に広がったのっぺりとした顔。同じく鼻は殆どないが、対してグルリとしたまん丸な眼だけが異様に大きい。どうにも蛙の親戚ではと思わせる顔立ちである。

「妙な御仁たちですね。夜更けにこんな場所で酒盛りとは……」

目の前で酒を酌み交わす存在そのものが、妙と云えば妙なのである。幸村は言外にその感想を滲ませつつ慶次に振り返る。と、その意を汲み取ったのか、慶次は口の端をニヤリと上げて顎をしゃくった。

「幸村よ。あいつらの影を見てみろ」
「影?」

慶次が示した先には、月光に浮かぶ黒い影。酒杯を交わす男たちに影が地面に描かれているが、そこには――――――

「……鳶に蝦蟇でしょうか?」

明らかに人とは違う影が浮かび上がっていた。
影の持ち主である妖たちは、目を瞠る幸村たちに気付くことなく、ブツブツとなにやら不平を口にしながら酒宴を続けていた。

「ははは、妖の世界にも愚痴ってのはあるもんだね。なにやら随分とご不満なようじゃねぇか」
「なら、事情を聞くのも簡単そうですね」
「おッ、ようやく乗ってきてくれたようだねぇ。そう来なくちゃ面白くない。じゃ、行くかい?」
「用意は万全なんでしょうかね」
「俺が甘露の水を絶やしたことがあったかい?」
「それもそうでした。傾奇者に愚問でしたね」




ガサリと、草を踏みしめる音に酒宴を続けていた男たちの肩がピクリと跳ね上がる。
目を剥いてこちらを凝視する視線に慶次は陽気な声でかけた。

「ようよう、そこの御仁たち。春の女神のお住まいで春の月見とは洒落ているねぇ」
「なッ! なんじゃ、そこもとらはッ!?」
「そ、それ以上近づくでないッ!?」
「おいおい、安心しなって。何も取って喰うつもりはねぇんだから。ほら、こうして手土産も持っているんだ。警戒しなさんなって」

突然現れた大柄な武者ふたりに男たちは驚きと警戒の声を上げるが、慶次は白い歯を見せながら手にした大きな徳利を掲げてみせる。
ニッと歯を見せて笑う慶次の人好きのする笑みと、なによりも慶次が手にする大きな徳利が男たちの気をひどく引いたようだ。

「うぬぅ、さ、酒か?」
「あぁ、武器は持っちゃいねぇ。持っているのはこの酒のたっぷり詰まった大徳利だけだ。なぁ、幸村」
「えぇ、ほら」

そう云って、慶次の後ろに控えていた幸村が両の手を挙げて、武器を持たぬことを示した。慶次も手に徳利を捧げ持つだけで武器らしきものは持ってはいない。
男たちは互いに顔を見合わせて思案をしている。

「武器を持っておらぬなら……大丈夫かのぉ?」
「わしらの酒ももうないしのぉ」
「ま……まぁ、よいわ。そこもとら。もそっと近う寄れ」

どうやら、古今東西。人も妖も「酒」が持つ不可思議な魔力に抗うのは、少しばかり難しいようだ。
男たちは、幸村と慶次を手招きすると、酒宴の座にふたりを加えるのであった。





一方、大阪の石田屋敷――――――

庭に面した縁側に腰をかけて、左近と兼続はそれぞれに茶を口に運んでいた。
陽光を受ける春の庭を愛でながら茶をたしなむという、一見穏やかな風情とは裏腹に、ふたりの心境は暗澹たるものであった。

「幸村たちが発ってから五日……。彼らは上手くやっているのであろうか?」

「ふぅ」っと息を吐きながら、兼続の目は吉野の方角を眺め遣る。

「さて……吉野まで馬を飛ばしてほぼ一日がかり。今頃、いろいろと調べ回っている頃でしょうが、人の世のことならいざ知らず、妖のこと。そう首尾よく行くとは思えませんね」
「毘沙門天の加護があることを祈るのみか……」

嘆息する兼続に左近が肯いた。
幸村たちが吉野に発ってから五日。梅花からご神酒のことを聞いてから二日。表面上は何事もなく時間だけが進んでいく。

「幸い、あの少女。梅花の云う通り殿のご容態は、一応快方に向かってはいますがね」

ただ、梅花のお陰で、三成も時折目を覚ましては、簡単な食事や水を取ることはできるようにはなった。しかし――――――

「そう簡単には髪の色は戻らぬようだな」
「髪の色だけじゃないですよ。体力の回復にも相当の時間は掛かりそうです。今だって、粥を召し上がったらすぐに眠って仕舞われた」

左近は溜息混じりに三成の容態を兼続に説明をする。
いくら親友の危急とはいえ、兼続は上杉の家老を預かる身上である。三成へのこれ以上の危害はないと判断をし、左近と相談の上、一旦、屋敷へと戻ったのだ。
急ぎ職務を片づけて、再び石田屋敷に来たのがつい先頃。臥所に伏す三成を見舞い今に至る。

「もどかしいな。何も出来ぬというのは……」
「まったくですよ」

兼続の言葉に左近も苦笑を浮かべて同意する。

「我らにできるのは、幸村たちが飛んで帰ってくるのを待つくらいか」
「ははは、いくら慶次殿の松風が風のと如くといえども、飛んで帰るは無理でしょうなぁ」

ついつい自嘲気味になる心情を払拭するように、努めて明るく兼続が現状を比喩すれば、左近も笑って肩を竦める。が――――――

「そ、そうだと思うのだが……な。その……島殿……」

兼続の目が呆然と空の一角を凝視している。心なしか平素はキリッと引き締まった口元が、引きつっているようだ。
困惑するように震える兼続の指先がある一点を指し示した。

「幸村が飛んでおる」

兼続の指が指し示すその先には、確かに兼続の言葉通りの情景が広がっていた。





2007/07/13