桜異聞録 13
「真田幸村。只今、帰参しました」
「…………」
「…………」
目の前で背筋を伸ばし帰参の挨拶をする幸村を、左近も兼続もかける言葉も思い浮かばずに、唯見詰めていた。所謂、「茫然自失」。
そんなふたりを訝しむように幸村は眉を寄せる。
「如何致しました? 呆けたようなお顔をなさって……」
「幸村」
「はい」
漸く絞り出すように兼続が幸村の名を口にする。頭痛でもするのであろうか。兼続は深い困惑の表情を眉間に刻みつけ、軽く目頭を押さえている。
「そやつはなんだ?」
そう云って兼続は幸村の隣にいる人物を指さす。いや、人物と形容してよいのか、かなりの疑問である。
幸村の隣に立つその者は、鳥面人身の姿をしていた。お伽噺や伝説に伝え聞く「鴉天狗」なのだろうか? いや、それにしては纏う装束は山伏のそれではない。第一、顔面を覆う羽毛も背から生えている大振りの翼も、鴉色ではなく焦げたような茶色である。
つまるところ、わかっているのは「人ではない」ということくらいだ。
「はい! こちらは、鳶の精霊の嵐道殿です」
「お初にお目にかかります。某、鳶の化生で嵐道と申しますじゃ。おぉ、これは直江殿に島殿。ご高名はかねがね……。此度は、治部少輔殿が随分な災禍に会われたとか。ご心配なことと存じ上げますじゃ」
そう仰々しく頭を下げる鴉天狗……いや、鳶の精霊を左近と兼続は、やはりジッと見詰めたまま微動だにしない。
「…………」
「…………」
「兼続殿。左近殿。どうされました」
「…………いや、ちょっとな」
「…………些か、唐突な展開についていけないだけですよ」
神域に属するふたりの美少女の次は、固そうな嘴を器用に開け閉めしながら、流暢に言葉を紡ぐ鳶の精霊。そして、その鳶の精霊と妙に親しんでいる幸村。
数日前、「得体の知れぬものは不気味」だと表情を硬くしていた青年が、今は人外の者と仲良く肩を並べて目の前にいる。
この展開は、希代のふたりの軍師の予想を遙かに上回っていた。
眉間に手を当てて、唸りながら考え込む兼続。
こめかみを押さえつつ、停止しそうな思考を奮い立たそうとする左近。
動揺を落ち着けようと、奇矯な行動を取るふたりを幸村は呆れたように肩を竦めた。
「何を今更……。しゃんとなさって下さい。この度の一件、まずは嵐道殿から事情を伺うんですから」
淹れ点ての熱い茶を器用に啜り一息吐くと、鳶の精霊 嵐道はおもむろに口を開いた。
「さて、此度の件。ことの発端は、桜ですじゃ。お二方、桜の女神と聞いてどの方を思い出されます?」
「古事記、日本書紀の記述を取れば『此花咲夜媛』であろう。桜は媛の化身であり、日本中に桜の種を蒔いたのは、彼の媛というではないか」
「しかし、春の野山に色を添えるのは、佐保姫と聞きますね。当然、桜も佐保姫が染め上げているのでは?」
兼続が、すらすらと古の書から此花咲夜媛の伝説を語れば、左近もすかさずに佐保姫の伝承を物語る。
この辺りの思考の切替の速さは、流石である。ふたりとも、冷静に状況を受け止めたようだ。ふたりの軍師の話に感心したように嵐道は頷くと、
「その通り。ですが、咲夜媛から見れば、おのが化身の花を他の女神が染めるのが気に入らない。佐保姫から見れば、自分が美しく彩る花を咲夜媛の花と云われるのが気に入らない」
ここで、ズイッと嵐道が身を乗り出した。
「そこで、どちらがより美しく桜を染めることが出来るか競うこととなったわけです」
「…………」
「…………」
少々、声を低く話の内容を強調する嵐道。その話の突飛さに兼続も左近も一瞬言葉を失った。
この度の事件が始まってから、もう何度、言葉を失うような目にあったことやら。数えるだに恐ろしい。上杉、石田と政治の中枢に位置する家の家老として、数々の修羅場を潜ってきたはずなのだが……
いやはや、世間は広いというが、神や妖の世のことまでは頭数に入れてはいなかった。
「で、つまりそれは、女神同士の自尊心をかけた桜染めの勝負というわけか?」
「それにうちの殿が、どう関わるので?」
眉を寄せる左近の問いかけに、嵐道は居住まいを正し改めて話を続ける。
「勝負は、此花咲夜媛は、浅間の社の鎮護の森を。佐保姫は吉野の奥千本を。それぞれ期日にまでに染め上げること。そして、某の役目はお二方が期日までに桜を染め上げるのと見届けることでござる。ですが……」
「吉野にはまるで桜が咲いていない」
一面、赤茶けた山肌を思い起こし左近が呟く。その呟きに嵐道は大きく首を縦に振る。
「そうですじゃ。此花咲夜媛の方は、浅間の森どころか有度山(日本平)から眺める富士の裾野のすべてを桜で見事に染め上げておられるというのに、佐保姫は少しも染めておられない。これでは、勝負どころではありませぬ。きちんと染めて頂かねば、某もお役目を果たしていないと神々よりお叱りを受けてしまう」
「それで、佐保姫が桜を染めることが出来ない理由はなんだ」
その理由に三成が襲われた原因が絡んでいる。
漸く辿り着いた真相に、兼続も左近も思わず身を乗り出すように、嵐道の口元を凝視する。
「ええ、某が耳にした話では、どうやら桜を染める秘蔵の染め粉を使い切って仕舞われたようで……」
「染め粉を?」
「はいですじゃ。なんでも一昨年。三輪の大神に頼まれて三輪の山を吉野にも負けないくらい美しく染め上げたとのこと。佐保姫の方も三輪の神の秘蔵のご神酒が欲しかったらしく、盛大に染めたそうです。それで染めたはいいが、今年の分の染め粉を使い切って仕舞われたとか」
ご神酒
――――――
確か、神域の美少女である梅花が持参したのは酒も、「三輪の神から賜った」のと云っていたことを、ふたりは思い出した。
だが、ひとつ疑問が立ち上がる。
「しかし、他の山や里では普通に桜の花が咲いておるが、それは?」
「それは、普通の染め粉を使っておられるのでしょう。吉野のような特別な場所には特別な染め粉。いくら、秘蔵の染め粉を使い切ってしまったからと云って代用の品で吉野の桜を染めることは、佐保姫の自尊心がお許しにならぬのでしょうな」
「……ひょっとして、殿の髪の色を盗んだのは……」
「染め粉の材料ですな。何せ、特別な染め粉。そんじょそこいらの材料では造り上げることはできませぬ」
三成を襲ったのは、三成の立場を狙った訳でも呪を施すためでもなかった。まさに見た通り。あの赤味のかかった髪の色が目的であったということだ。
嵐道の話を継いで、幸村が口を切る。
「嵐道殿とお会いした後、三成殿と同じような怪異に会われた方がいないかを探してみました。いずれも赤味のかかった髪で、学問や詩歌に秀でていたり、人柄が高潔などと一角の人物ばかりです。ただ、ことがことなだけに表立って公表する者はおりませんでしたし、西に東にと日本全土あちこちに被害が分散されておりましたので、人の口には上っておらぬようです」
「すると、殿を襲ったあの女は、佐保姫の?」
「姫の女童ですじゃな。あちこちで同じように染め粉の材料を集めておるそうな」
黒髪が一般的な中で、三成のように赤味の強い髪を持つ者はそう多くはない。まして、人より優れた才を持つ者となれば尚更である。
更に、それなりの身分の者が怪異に襲われたなどという話は、世間体を考えれば口を閉ざすものだ。しかも、その怪異は、日の本全土に散らばっているという。京や大坂なら兎も角、いくら優秀な忍や間諜を抱えていても、日本全国の情報を集めるなど、兼続や左近程の軍師であっても短期間で行えるようなものではない。
「だが、その情報はどこから……」
そう左近が首を捻る。左近の疑問はもっともなことだ。しかし、そんな左近の疑念に嵐道は笑って答えた。
「ほほほ、『蛇の道は蛇』でございます。情報料もふんだんにお支払い頂いたので、『あちら』の情報屋も喜んでおりました」
「あちらの情報屋って……。というか、情報料とは……」
「なに。わたしと慶次殿の血を少々……。湯飲み一杯程ですので、たいしたことではありません」
そう云って、幸村はニコッと口の端を上げる。その際、左の手首にスイッと一線を引いて見せたが、きっと他意はないはずだ。
しかし、いくら代金とはいえ、人外の者に請われるまま対価として自分らの血を与えるなど、大胆極まりない。流石は、天下に名を馳せる若武者と傾奇者といったところだ。常人なら、いったい何に使われるのか恐ろしくて、承諾などしかねるものだ。
「そうは云ってもなぁ。無茶をするものだな、幸村」
「まったくです。殿に代わってお礼申し上げる」
呆れたように兼続は溜息を吐くが、そう云っている当人もつい先日、「三成のためならば」と自ら毒味役を買ってでたのだ。己のことを棚に上げ、驚き入る兼続が可笑しく、左近は気づかれぬように些か口辺を綻ばす。それもこれも、三成の身を案じればこそ。そう思うと、彼らの三成に対する友情の厚さに改めて感謝する思いであった。
兼続と幸村に深く下げた頭を上げ、左近は兼続に視線を戻す。
「さて……、殿が怪異に襲われた理由も吉野の桜の咲かぬ理由も理解は出来ました。後の問題は、殿をどうやって回復させるかですよ」
「三輪のご神酒。それがあれば回復は早いと思うのだが、ご神酒は佐保姫がお持ちなのだな」
「ですが、佐保姫は山に籠もられたまま嵐道殿の催促に応じる気配もないとのことです」
「ぬうぅ……」
兼続の質問に幸村が応じるが、その答えに兼続の顔が思案げに曇る。が、そこに嵐道が、文字通りに嘴を容れてきた。
「それで実は、そこもとらの力を借り受けたいのですじゃ」
「え?」
「力を借りたい」と云われるが、兼続も左近も嵐道の力になれるような術の心得があるわけではない。一体何を貸すのかと眉を曇らせる左近たちの前で、嵐道は忙しなく嘴を動かす。
「なんでも、佐保姫の女童の術を見破った娘御がおられるとか。その娘御に閉ざされた佐保姫の御殿の入り口を見つけて欲しいのですじゃ。人で云う見鬼の目には、いかな幻でも見通す力がございます。その目ならば閉ざされた御殿への道もきっと見出せましょう」
思わぬ人物の名が嵐道の口から上がり、意表を衝かれる左近だが、その横で兼続が「おぉ」と声を上げると膝を叩く。その顔色は霧が晴れたように明るい。
「なるほど……。確かに理に叶っている。佐保姫に会えさえすれば、後は我らで何とか説き伏せて神酒を得ることも出来よう」
「それに、佐保姫の御殿は神域の一種。神気の濃い場所ならば、治部殿の回復も早まりましょう。某も、姫に桜染めの催促はしたと面目も立ち申す」
「なら、三成を佐保山へ?」
「お連れした方が良さそうですね。左近殿の意見は如何に?」
「そうだな…………」
そう幸村に問われて、左近は武骨な長い指を顎に当てて考思する。
できれば、疲労著しい三成に無理をさせたくはないが、嵐道の話が本当であれば、願ってもない話ではある。それに奈良・佐保山と云えば、駕籠にしろ馬にしろそう何日もかかるような距離ではない。
時間は余りない。
ご神酒が手に入らぬでも、神域に赴くだけでも回復の大きな手助けとなるという。
沈思する左近の頭脳が、いくらかの計略を弾く。
三成を取り巻く状況と三成の現状
回復の手段とそれを実現させるための手段
三成にかかる負担
しばしの思案の後、左近は口元に微かな笑みを浮かべた。
「是も非もありませんよ。すぐにでも出発しましょう」
早暁
―――――
朝焼けの太陽が昇りきる前に石田邸を後にする五つの騎影が静かに門を出て行った。
それを見送る影がひとつ。
見送りの影は、何かを祈るが如くに深く深く頭を下げ、門を出た騎影が見えなくなるまで面を上げることはなかった。
渡辺新之丞の見送りを受けて、左近たちは奈良への道を行く。
被衣で包み込んだ三成をそっとを腕に抱き、左近は余り馬が揺れぬように巧みに手綱を手に取る。人目を誤魔化すためとはいえ、女物の衣装に身をくるまれた上、誰かに抱かれて旅路を行くなど、人一倍羞恥心の強い三成には耐えられぬことだろう。だが、今の三成にそれに抗う体力も気力もない。
結果、三成は多少の不満を胸中に納めて、今は左近に身を預けて眠りの中にいた。
一行も、今はお忍び用の質素な衣服に身を包んでいる。一見すると武家か町人かの区別をつけるのは難しいが、何かあれば「病気平癒の祈願の旅」と言い繕えば、相手も納得するであろう。
一行は、体力を消耗しきっている三成を気遣うように、急く心を抑え速すぎず遅すぎずに馬の脚を進める。
時折、小休憩を挟みながら、ゆっくりと旅程をこなす。
何度目かの休憩の時、甲斐甲斐しく三成の世話をする夕花を呼び止め、左近がずっと引っかかっていた疑念を夕花に尋ねた。
「それにしても……お前に見鬼の才があるとわな」
「実は、昔から鬼や妖類は見えておりましたが、そんなことを云って他の人を不安させるのもと思いまして……」
申し訳なさそうに夕花が伏し目がちに小さな声で言葉を紡ぐ。
常に、竹を割ったようにはっきりと物を言う夕花の口が重い。それでも、何かを言いたげに巡らされる視線に気づいて、左近は黙って夕花の言葉を待った。
「その……母にもこの才があったそうですが、気味悪がられることが多かったそうです。島の本家に引き取られる際にも見鬼の才のことは口にせぬようにと言い含められておりました」
思えば、彼女は親に甘えたい盛りに両親を亡くし、たったひとりで知る人のいない本家に来た。いくら、一族の端に連なるからと云って、そこは己の生まれ育った家ではない。見鬼の才を他言せぬように言い含められてはしまっては、他人の目に映らぬ妖しい影に怯えても、誰にも云えずひとりで震えて夜を過ごす他にはなかったであろう。
だが、夕花は人に理解できぬ世界とひとりで対峙し、気丈にもその世界と孤独に向かい合ってきたのだ。
理解されぬ孤独な世界。
夕花は、それに凛と立ち向かっていたのだ。他人に頼らず悟られずに。だが、己の見誤ることなく捻れもせず、課せられた自分の定めに、心の内に一本の真なるものを確立して、しっかりと立ち続ける。
その姿勢は、どことなく謀略渦巻く政情にまっすぐに立ち向かう三成に似ている。
三成には、その生き方を理解し支えてくれる友人や家臣たち。そして自分がいる。だが、夕花は今の今まで、その力を理解し支えてくれる者がいたのであろうか。
「そうか……。すまんな、気付いてやれなくて」
「いいえ。ですが、この才が殿のお役に立つのでしたら、あってよかったものと思います」
年端もいかなかった少女が抱えていた思いも寄らない闇を垣間見て、左近は声を落とすが、そんな左近に夕花は、鮮やかに微笑み返す。
その微笑みは、少女のそれではなく、ひとつの壁を越えた大人の女の笑み。
一瞬きをする間にどんどんと成長をしていく初夏の若草のような少女に、左近も笑みを返すのであった。
2007/08/19