桜異聞録 14
「わしは、嵐道の同僚の水丸と申します。お見知りおきを……」
佐保山の山道の入り口。
慶次と共に一行を出迎えたのは、妙に横に広がった奇っ怪な面相の男であった。眠たげな眼をパチパチと瞬いて頭を垂れた男を、兼続も左近も些かげんなりとした気分で見つめていた。
「今度は……蝦蟇か……」
「蝦蟇ですな」
鳶に蝦蟇。次に出てくるのは、蛇だろうか。いやいや、それとも狐や狸かも知れない。いずれにせよ、例え今後、百鬼夜行に遭遇したとしても、もう驚かない自信だけは培われたような気がする。
そんな兼続と左近の気持ちを知ってか知らずか、蝦蟇の精霊 水丸はもそもそと口を動かした。
「ええ、蝦蟇の化生です。蝦蟇なだけにどうにもこの時期は眠くて仕方がありませぬなぁ」
のそりと肯いた水丸は、顔面を横に切ったような大口を開けて「ふわぁ」と大きな欠伸をする。その場違いな程にのんびりとした態度に左近が、呆れたように眉宇を寄せる。
「役に立つんですか? こいつ」
「まぁ、よい。放っておこう。それより、佐保姫の御殿というのはどの辺りだ?」
「さぁ」
「さぁ、ではない。まったく……。仕方ない。夕花殿には申し訳ないが、山を隅から隅まで見て回るしかあるまい」
兼続の質問に、のそっと首を傾げた水丸を半眼で一睨みすると、兼続は新緑と春の花々に彩られたの佐保山を見上げた。見上げた先には、抜けるような春の青空。そして、風に吹かれた花弁が舞っていた。
釣瓶落としといわれる秋や冬に比べて幾分日が長くなったとはいえ、春の夕暮れは、今だ肌に寒さを覚える。
「そろそろ、二刻近くになりますね」
幸村が、木々の間から覗く橙色の空を仰いで呟いた。
慶次たちと合流後、一行は休む間もなく、春の山道を秘められた佐保姫の御殿の入口を捜して彷徨っていた。しかし、御殿の入り口と思しき場所は見つからない。ただただ、穏やかな春山の風景が目に映るのみであった。
嵐道と水丸の話によれば、佐保姫の御殿へ参る際には必ず道案内の者が付き、彼等自身が単独で御殿への道を辿ったことはないのだという。「ですから、入り口への手がかりはないかと、問われてもわかりかねるのですじゃ」、と嵐道は頻りに頭を掻いて夕花に陳謝を繰り返している。その度に、夕花は小さく頭も振るのだが、流石に山道を二刻近く歩き回っては、その白い面に疲労の色が滲む。
その様子を察し、左近が夕花に声をかける。
「夕花も疲れたろう。今日は一旦、麓で宿を取ろう」
そう云う左近自身は、ずっと三成を背負い通しなのだが、さほどに疲労を感じてはいない。鍛え抜かれた武人にとっては、三成の痩躯はそれほど重しではないのだ。しかし、流石に少女の覇気のない顔を見れば、これ以上無理強いをしたくはない。第一、今は彼女の眼力だけが頼りなのだ。時間は惜しいが、そろそろ夕花を休ませてやらねばならない。
「えぇ、ですが……できるだけ早く御殿への入り口を見付けねば……」
「そんな風に焦ることはないぞ、夕花殿」
「そういうこった。それに、左近だって疲れてるんじゃねぇか? 大事な殿様を背負ったまんまでさ」
だが、己の眼に主の未来がかかっているのだと気負う少女は、青ざめた小さな頭をフルフルと横に振って答える。それを、兼続と慶次が優しく制する。
「なぁに。軽いもんですよ。ま、ですが、俺は兎も角、殿もお疲れでしょうからねぇ。今日のところは切り上げた方がいいでしょう」
「軽いなどと……そんなことを仰いますと、三成殿がお怒りになりますよ。左近殿」
「違いねぇ。ま、今は眠り姫だから、怒鳴られるこたぁないがね」
「寧ろ、俺としては殿の怒ったお声を聞きたいくらいですよ」
「まったくだ。確かに、不機嫌そうな三成の怒鳴り声が聞けねえのは、物寂しいなぁ」
そう戯けた風に肩を竦める左近に、慶次はカラカラと笑声を上げる。兼続も幸村も「その通りだ」と小さく笑む。
その時、ふと、夕花が何かを感じたように辺りを窺う。目を閉じて、耳を澄ます。貝殻のような白い耳朶が、ピクリとはねた。
「どうなされましたか、夕花殿」
「いえ……機織りの音……でしょうか?」
「そんなもの、聞こえぬが……。機織りといえば、確か佐保姫は春の霞を機織るのであったな」
夕花の視線を追うようにグルリと兼続も周囲を見渡すが、目に見えるのは暮れる春の山と風にサワサワと擦れる梢の音。遠くから聞こえるのは、雲雀の鳴き声。
だが、耳を澄ます夕花の顔に確信が見える。
「夕花。それはどこから聞こえる」
「はい、あちらです」
左近の問いに答え、夕花は先を切って一行を導くのであった。
辿り着いた先には、雑木林の切れ間。茶室ふたつ分程の狭い空間に山肌が迫る。が、その赤茶けた土肌の殆どが、ズシリとした大きな一枚岩に覆われていた。
目の前には、聳える山肌と視界を圧倒するような大岩。周囲は雑木林。辿ってきた細い獣道は他には通じていなかった。
佐保姫の御殿を探して、何度かこの辺りを通った筈なのだが、こんなに目立つ大岩を見た記憶がない。
「行き止まりですか」
確かめるように幸村が大岩を撫でる。手に伝わるのは、岩肌のザラザラとした硬い感触。ざっと見たところ、岩を動かす仕掛けらしきものも見当たらない。
が、夕花の大きな瞳は、ジッと大岩を見つめる。つと、その先を見通すように眼を細めた。
「いえ、岩の向こうに道がございますわ」
そう云うと、夕花はそのまま大岩へと真っ直ぐに向かって行く。あと数寸で岩とぶつかるのかと思った瞬間。
パリン
――――――
磁器が割れるようなか細い音が空気を振るわせると、一瞬、目が眩む程の強い光が辺りを包み込む。一行が、恐る恐る目を開いた時には、既に大岩にポカリと暗い穴が穿たれ、その中で夕花が振り返って笑みを浮かべていた。
「これが見鬼の才か……。見事だな」
「そいじゃ、伝説の美姫に会いに行こうかね」
感心したように呟く兼続の肩を軽く叩いて、慶次が道行きを促す。「そうだな」と応じ、兼続が一歩足を踏み出すと、慶次と幸村が続く。
それらを見送り左近は己の背で眠る主にそっと声をかける。
「殿。もう少しのご辛抱ですよ」
暗い洞を抜けた先は、すべてが薄紅色に染まっていた。
小高い丘から見下ろす先は、淡い紅で埋まり、遠くには桃色の霞が棚引いている。玻璃を通した様な柔らかい光が天に満ち、息をすれば、様々な花の微香が混じり合い、何とも云えぬ香気が胸に染み入る。
「まるで桃花源だな。桃に梅に……あれは桜か」
兼続の口から、有名な仙郷の名が転び出る。
確かに、伝説に準えてもおかしくはない光景が眼下に広がっていた。
「本当に辺り一面花の渦ですね」
「しかし、これじゃどこに向かえばいいのか……。花に酔っぱらいそうだ」
驚き目を見開く幸村に対して、左近は太い眉を寄せて苦み走った表情を浮かべる。
ここまで辿り着いたはいいが、これでは、山歩きの次に花の中を歩き回らねばならない。自分はいいが、少女の夕花には、これ以上は辛いだろう。
慶次もその巨体を更に伸ばして遠くを望むが、見渡す限り目に映るのは、桜色、薄桜、紅梅色に薄紅色。
「ああ。どこを見回しても、花花花……。花ばかりで屋敷らしき影もねぇな。なあ、嵐道殿。あんたら、こっからいつもどうしてるんだい?」
「平時ならば、案内の者がおるのですが、我らは闖入者ですからのぉ。さて、見鬼殿のお目には何か映りますかな?」
「花ばかりで、何も見えませぬ」
問われた嵐道も弱り果てて、夕花に助けを求める。が、当の夕花の眼力を持っても花以外の何も目に映らない。
視界のすべてが花々で埋め尽くされている。
見霽かす先々にあるのは、桜色、薄桜、紅梅色に薄紅色。撫子色、薄紅梅、桃花色。
桜桜桜一面の桜の花
桃桃桃一面の桃の花
梅梅梅一面の梅の花
梅の花……………
その名を持つは
――――――
「島殿。あの鈴は? 梅花が佐保姫の女童ならここの案内を頼んでみてはいかがか?」
太い掌に乗せられた黄金の小鈴。
兼続に云われて、左近は懐に仕舞っていた小さな呼び鈴の存在を思い出した。
「わたくしは、まだ大した神力も使えぬ若輩の身。なれど、なんぞわたくしで出来うることがあればそれで呼んでたも……」
そう云って、左近にこの黄金の小鈴を手渡した佐保姫の女童。
この花迷宮の案内を頼むに彼女以上の者は他にいない。
「そうですね。それじゃ、ちょっと呼んでみましょうか」
懐に手を入れ五色の組紐を引っ張り出すと、小鈴はチリンと澄んだ音を立てた。
数度、黄金の呼び鈴の音が花の香気満ちる空気を震わす。
やがて、淡い霞が渦を巻き、やがて栗色の髪の少女の形を取る。ゆるゆると少女が目を開く。
と
――――――
「あなやッ! 何故、殿様たちがここにおられるのじゃ?」
呼び出されたその先は、佐保姫の神域の内。
そこにいるはずのない人物に梅花が、驚きに目を丸くする。
「話は後ですよ。すいませんが、ここの案内を頼まれちゃくれませんか。ここには俺たちが自力で来たんです。なに、梅花の所為じゃありませんから怒られませんよ」
「それはよいが……。よりによって今、参ることもあるまいに……」
穏やかな左近の声に梅花は細眉を寄せる。
「佐保姫になにか?」
「うぅ〜ん」
どう状況を説明すればよいか見当も付かぬのか、梅花は少々口籠もるが、ここまで辿り着いた左近たちを追い返す真似もできない。だいたい、梅花自身が、自分のことより梅花を気遣ってくれた三成に対して好意を抱いているのだ。
迷った挙げ句、梅花は決意を決めてくるりと身を翻した。
「口で説明するよりも早かろう。付いて参って下され」
2007/09/19