桜異聞録 15


花迷宮の中を梅花の先導で歩み行く。
岡から花迷宮を見下ろしていた時にも、辺りに花々の香が漂っていたが、その中を進むと益々花の香りが匂い立つ。
左近は大きく息を吸い込む。大気が濃い。
花の香が染み込んでいるのと同じように、大気に力が宿っているように感じる。その証拠に、先程まで疲労の色が濃かった夕花の顔の血色が、段々と良くなっていく。


     これが、梅花や嵐道殿の云っていた『神気』というものか


左近は夕花の顔色を窺いながら、先日の嵐道の話を回想する。
そう云えば、こういった空気に覚えがある。三輪山の山中や春日の森の中。大和の神名備と呼ばれる土地土地に宿る霊気。ここまで身体に染み入る程には強く感じることはないが、確かに人の世にも神の息吹の残り香が存在する。

この神の息吹濃い大気の中ならば、精気を奪われ消耗し切った主にも何らかの変化があるかも知れない。
数滴のご神酒を得て以来、三成は半覚醒の状態が続く。少しに間、目を覚ましては粥や水を口にしたり、少々の会話を交わすが、回復のためか殆どの時間を眠って過ごす。梅花が「半病人も同じ」と云っていたが、左近から見れば半病人の方がまだましな状態だ。
三成が倒れてからこの方、まとも会話を交わすどころか、あの澄んだ琥珀色の瞳を見ることすら稀だ。

左近は背負った三成に「殿」と囁くように呼び掛ける。
淡い期待を持って、そっと…………

「…………ぅん」
「殿?」

小さな呻き声が、左近の呼び掛けに答えるように桜色の唇から転がり出る。白い瞼がピクリと震えると、ぼうっとした琥珀色の瞳が現れた。
くんと鼻梁が動く。

「さこ…ん。花の…香り?」

目覚めたばかりの鈍った思考のまま、三成がゆるゆると辺りを見回す。
視界一杯にどこまでも広がる薄い紅の海。
そして、振り返ってこちらを見つめる見知った者たちと見知らぬ者たち。

「三成。目を覚ましたのか」
「三成殿!?」

ひどく安堵したかのように笑みを昇らせる兼続と幸村の姿に三成は小首を傾げる。


     兼続? 幸村? 何故にここにおるのだ……。だいたい、ここは……


いったい、どこなのだ。

柔らかく注ぐ光と穏やかな風に揺れる桜色の花弁。微香に流れ込む甘い花の香り。
少なくとも、ここはずっと臥せっていた己の寝室でも屋敷の庭でもない。

「ここは……どこ…だ?」

わからない。
ここ数日の記憶は、夢の如くに朧気にしか覚えていない。

左近ではない左近と傲然と微笑む栗色の髪の少女。纏う気配に危機感を覚えて、彼等を遠ざけようとした。
次に目が覚めた時には、全身にのし掛かる倦怠感で、指先ひとつ動かせなかった。疑問と混乱の中、己を襲った妖と救おうとした妖の話を左近から聞いたのだった。
そこまでは、何とか記憶を留めているが、その後の記憶は余りにも曖昧だ。
時折、粥やら水やらを口にしたのは、なんとはなしに覚えている。だが、いつ誰とどんな会話を交わしたとか、何をしたのかとなると、殆ど覚えがない。いや、深い霧の向こうに浮かび上がるような記憶の断片はある。


殿。お辛いかも知れませんが、ちょっと我慢して下さいね
左近殿。馬の用意ができましたよ
清興様。お命じの通りに被衣と女物のご衣装を整えましてございます
島殿。細作の話では、道中に目立った問題はないとのことだ。では、道は手はず通りに……
それは、良かった。では……殿


それから……、馬に揺られたような……
ふと目覚めると、青い空が目に入り、低く優しい声が空から降って……


あぁ、殿。お目を覚まされましたか。少し休憩でもしますか?


そうだ。全身が怠くて、歩くことなどままらぬ身。馬になど到底乗れぬ。
となると……
 

     俺はどうやって、馬に乗ったのだ


何故だが、一息毎に段々と意識がはっきりとしていく。視界が澄んでいく。
動けぬ身ならば、誰かに……
と、考えが至った時、頬に擽る長い黒髪の存在に気が付いた。続いて、瀟洒な髪油の匂いと胸に感じる暖かな体温、自分の腕が絡む巌の肩。そして、すぐ間近な古傷のある精悍な横顔と自分を見つめる優しい黒い瞳。

「……? さこん……なにをしておる?」
「なにをって……殿は動けぬ身ですから、左近がを背負うておりますが……」
「……………え?」


さこん……なにをしておる……のだ?
殿は動けぬ身ですからね。左近が抱いて参ります
そうか……頼りにしている……さこん


そうだ。自分はそう云って左近にこの身を預けていたのだ。


     ずっと、左近の腕の中に、左近の背に――――――


その瞬間、三成の頭に湧き上がったのは、とてつもない「羞恥心」だった。

「お、降ろせ! さこん、降ろさぬかッ!!?」
「え? ちょ……、殿、大人しくして……暴れんでくださいよッ!」

急にジタバタと手足を動かして暴れ出した三成に、左近は慌てた。痩躯とはいえ、三成は小さな子供ではない。多少のことでびくつく程柔な身体ではないが、下手に暴れられたら主を地面に放り出すこととなりかねない。

「殿! 暴れちゃ駄目で……って、いたた。髪ひっぱらんでくださいよ」
「いいから降ろせ! は、恥ずかしいだろうがッ!!」
「何を今更……うおッ!?」
「え? う、うわ!!?」

だが、羞恥心が理性を凌駕したのか、それとも横柄者の性なのか、左近の言を聞き入れて大人しくする気配は微塵もない。とうとう、暴れる三成に気を取られ、左近の足元が疎かになった瞬間、木の根元に足を捕らわれて――――――
主従揃って、固い地面に尻を打ち付けることとなるのであった。





桃の枝の下。一行は足を止めて、小休止を取っていた。

「この地は、神気が濃い。身体も楽であろう、殿様」
「あぁ……。随分と……楽になった」

そう云って三成の顔色を窺った栗色の髪の少女−梅花−に、三成はぎこちない笑みを返す。
確かに、全身にのし掛かるような倦怠感は薄れた。呼吸をする度に取り込む大気が全身を巡り、活力を与えてくれているように思える。お陰で、多少、息は上がるものの木の幹に背を預けて会話を交わすこともできる。
その横で、彼の大事な一番家老が、痛む尻をさすりながら迂闊な主に向かって口を尖らせた。

「だからって、自力で歩ける程には回復しちゃあいないんですからね。大人しく左近の云うことを聞いてくださいよ」
「…………わかった」
「目が覚めた途端に、大暴れか。三成らしいな」
「まったくです」
「兼続。幸村。笑うな……」

ムッと柳眉を寄せて抗議をしてみても、親友たちは忍び笑いを止めようとはしない。
やがて、その忍び笑いが収まった頃――――――

「兼続、幸村、慶次……左近、それに…夕花」

ポツリと消え入りそうな小さな声が、零れる。

「心配をかけた……すまぬ」

顔を上げられぬのか、俯いたままでポツンポツンと紡がれる言葉。
白くなった髪に覆われて表情は見えないが、血の昇った耳と首筋が、三成の心情を語る。

「まったく、難儀な御仁だね」

そう慶次は肩を竦めて小さく笑った。




「ここに二三日おれば、歩く程度には回復すると思う。なれど、それもこの神域での話じゃ。神気の薄い人の世では、また寝込むことになろう。髪の色の回復などは、もっと先となりそうじゃな」

小休止の後、一行は再び梅花の道案内で御殿を目指す。
三成の顔色から、梅花が回復の度合いを推察するも、結果は芳しいものではない。
「そうか」と呟いて、三成は己の白くなった髪を弄った。淡い光を受けて、髪は銀の光を放つ。


     これでは、登城は無理であろうな


周囲の好奇に目に晒されるのは、別に構わない。だが、秀吉やねねにこんな姿を見せて余計な心配をさせたくはない。第一、自分はもう十二分に過ぎる程、掛け替えのない大事な人たちに心配をかけさせてしまったのだ。


殿ッ!
三成ッ!!


神酒の効力にて、漸く目を覚ました三成の瞳に飛び込んできた、左近と兼続のあの顔。思い出すと胸が痛む。
あんなに青褪め必死に「殿」と自分を呼ぶ左近を見たことがない。
あんなに悲痛な顔で自分の名を呼ぶ兼続を見たことがない。
友に同志に、あんな顔をさせてしまった自分が情けないくて恥ずかしい。


一瞬―――――
ほんの一瞬の油断だった。
左近でない左近が自分に襲いかかってきたその瞬間、反応が遅れた。


     愚かだ


そう思う。
左近ではない左近の姿形に惑わされた。その結果がこれだ。
皆に迷惑をかけてしまった。左近たちに心痛をかけさせ、自分のためにこんな苦労をさせてしまった。それだけではない、大阪城では自分の不在のため、いかほどの政務が滞ってしまったことか……
あれが左近である道理がないことは痛いほどにわかっている。わかっていたのに―――――瞬間、身体が動かなかった。


     なんてざまだ、無様にも程がある!


揺れる左近の背の負われて、三成がギリッと唇を噛む。

「殿?」
「俺は……」

後悔と情けなさに歪む顔を見られたくなくて、三成は左近の肩に額を押し当て顔を隠すと、絞り出すように小さく呻く。

「俺は情けない……」
「…………」
「あれはただの形であったのに……お前でないとわかっていながら……俺は…………」
「殿」
「それでも……ただの影であっても…俺は…………ほんの一瞬、手が……身体が動かなかったのだ……。その所為で……」

左近の肩に絡む白い腕に力が入る。

「斯様な様……に……。わかっていながら身体が動かぬなど、まったく……道理に合わぬ。俺は、どうかしていたのだ。情け……ない」

縋るような体温。震える手が、左近の袂をキュッと握り混む。
その所作に、左近はフッと頬が緩む。

「殿。それが『情』とか『感情』ってヤツじゃないですかね」
「……感…情?」
「ええ」

理や道理では、どうにもならないものがあることを素直に認められない。いや、元からそういった考えを持っていない。
思い込んだらどこまでも一途で真っ直ぐ。
その裏にある感情に気付きもせずに、こうして無自覚に左近の心に絡み付く。

「殿の道理を退ける程に、偽物の姿に驚いて惑ってしまったんでしょう。殿はそれくらい、左近のことを思ってくださっているんです」
「……え?」
「だって、そうでしょ? 余程に大事な人じゃなかったら、殿のように道理が立つお人が、一瞬でも惑ってしまわれるなどありませんよ」
「…………」
「殿のね、頭ではなくお心が驚いてしまわれたんですよ。殿にとって左近はそれ程、大事なのだと……」
「あ、阿呆が……そ、そんなことよく……恥ずかしげもなく……」

左近の言葉に三成の頬が徐々に朱に染まっていく。
しかし、確かにそうだ。
左近の姿をしたあれに襲われたあの時、冷静な頭とは裏腹に、心の臓をギュッと鷲掴まれたように酷く痛んだ。


     あれは……「心」が痛んだというのか……


心の痛みに瞬間、身体が反応をしたのだと、三成は漸く気が付いた。
「そういうこともあるのだ」と――――――

不意に考え込むように口を閉ざした三成に、左近は言葉を続ける。

「それにね。左近だって、殿と同じ目にあったら冷静にはなれませんよ」
「左近……」
「隙にひとつやふたつくらい、左近にもできますよ」

ほんの少し疑わしげな琥珀色が、左近の横顔を見つめる。コトリと小首を傾げる。

「そんな……ものか?」
「そうですよ。まぁ…………」

納得したかのような三成の口調に応じて、左近はニヤリと口の端を上げて片笑む。

「だからといって、左近ならば、そう簡単に付け込まれはしませんけどね」

三成をからかうような剽げた物言い。それにピクリと三成の形の良い眉が反応を示す。
クツクツと喉で笑う左近の横顔をジロリと半眼で睨み付け、口唇がムッと尖る。

「…………さこん」
「なんです?」
「それは、俺の武芸の腕が未熟だとでも云いたいのか?」
「さあて……ねぇ」

可笑しそうに目を細める左近に、少し機嫌を損ねた時のいつもの眼差しを投げて寄越すと、三成は悔しそうに「今に見ておれ」とプイッとそっぽを向いた。





「どうやら、やっと元の調子に戻ったみたいだな。どうにも大人しい三成だと調子が狂う」
「同感だ」
「あとは神酒ですね。上手く行くといいのですが……」
「梅花殿。佐保姫のところまであとどのくらいだ?」

そうだなと肯いて兼続は梅花に問う。

「もう時期、御殿が見える。ほら、あの桃林の向こうじゃ」

梅花の白い指が霞の向こうを指し示す。その先、桃林の向こう。霞に幽玄と浮かぶ建物の影が見え始めた。





2007/09/28