桜異聞録 16


花林を通り抜け、薄く漂う霞を踏み分けて佐保姫の御殿へと近づく。遠くから微かに機織りの音が聞こえる。春の霞を織るのも佐保姫の仕事のひとつであったことを兼続は思い出した。
やがて、宮城を思わせるような古風な門構えが一行の目も前に現れた。
顔が映るくらいに磨き抜かれた石の階段。
太い朱塗りの柱に緑の瓦。真っ白な塀が左右にどこまでも真っ直ぐに伸びている。扁額は掲げられていないものの、かつて都にあったという京の羅城門を想像させる。
その門前。階上に三成や左近にとって見覚えのある人影がいた。

「梅花! そなた、どこへ行っておったのじゃ」
「姉様!?」

梅花とよく似た白い容に艶めく栗色の髪。同じような薄紅の衣。だが、キッと睨み付けるように上がった眦とツンと澄ました桜色の唇が、纏う雰囲気をガラリと変えている。
その彼女の姿に、知らず三成の身体が緊張を示した。
背負った三成の緊張が左近にも伝わったのか、「大丈夫ですよ」と優しく左近が目線を寄越す。その眼差しにフッと三成から力が抜ける。
そうだ。あの時とは状況は違う。
今は、兼続も幸村も慶次もいる。何より、今、この身を預ける背は、どんな困難でも共に乗り越える頼もしい己の半身。何を恐れる必要がある。

一方、桜花もこの神域にそぐわぬ一行に目を丸くする。どうやら、妹が先導をしているらしいが、こんな人間の一行が神域に招かれることなどあろう筈がない。
しかも、その一行の中心に――――――

「先日は、随分と世話になったなぁ。桜花さん」
「おぬし……」

射すくめるような強烈な眼光。鬼と呼ばれる武人のその視線の鋭さに、今度は桜花の全身に緊張が漲る。
桜花は、階上から半眼で一行を見据えると、妹に厳しい詰問を投げ掛けた。

「梅花ッ! 何故に治部殿と一緒なのじゃ!? しかもぞろぞろと人間共を連れて来おって! そなた、姫様の御身辺を騒がす気かッ!!」
「姉様、落ち着いて下され。なにも治部殿は、姫様の御身辺を騒がすおつもりではございませぬ。ただ、治部殿はお忙しいお方。精気を失って寝込んで仕舞われては大変困るため、姫様に三輪のご神酒を分けて頂くために参っただけにございます」
「ん? なぜに、人間である治部殿が姫様の秘蔵のご神酒のことを知っておるのじゃ?」
「えっと……それは……」

キリリと三日月の眉尻を上げ、声を荒げる姉を慌てて宥めようと事情を説明するが、どうやら梅花は墓穴を掘ってしまったようだ。事情を話せば、自分が主の酒蔵から盗みを働いたことまで、洗いざらい白状せねばならなくなる。
思わず口籠もる梅花を援護するように、今度は別の声が仲裁に入る。

「お待ち下され! 治部殿に佐保姫様への害意はございませぬ。それは、この桜染めの検分役の嵐道と水丸が保証致しますじゃ」

だが――――――

「御検分殿? そなたら、なぜにこの一行に? 姫様への拝謁は時を待ってこちらからご連絡致すと申したはずじゃ」
「えっと、それは……余りにもご連絡が遅い故、こうして自ら……」
「なんと! 姫様が桜染めの勝負を捨ててしまわれるのかとあらぬ危惧を抱いて、招かれもせずに催促に参ったのか!? 不埒な……。しかも、人間と手を組んで、無断で領域を侵すなどと言語道断ッ! 疾く疾くこの地より立ち去れい。でなければ、全員、引っ捕らえて蟇や蛇に変じてくれようぞ!!」

結果は、火に油を注ぐこととなった。
益々、険を極める桜花。目元を釣り上げて、声を張り上げる。姉の剣幕に押され、梅花は潤んだ瞳でオロオロするばかり。嵐道と水丸に至っては、

「うん? 某はもとより蝦蟇ですが……」
「いいから、お主は黙っておれ、水丸」

場違いな程にのんびりとした水丸の口を嵐道は肘討ちでもって封じる。が、そんなことで、この場の険悪な雰囲気が和らぐ訳もない。

「あ……姉様! どうか、話を……」
「お黙り、梅花! そなたの咎は後ほど問うこととする故、余計な口出しをするでない!!」
「…………」

梅花も必死に口を開くが、桜花に一喝をされて黙り込むこととなる。姉の迫力に気圧され顔面は蒼白だ。
その肩を落とす梅花を庇うように、今度は兼続が前一歩踏み出す。

「桜花殿と申したか! そちらの事情は、嵐道殿から伺っておる。そちらに事情があるように我らにも我らの事情があり、急を要する。故に無断で領域を侵した。が、そのことについては心より謝罪しよう。されど、我らに害意がないことは、嵐道殿の証言により明々白々である。それ故、事の裁可は佐保姫様に直接、ご判断頂きたい。姫に取り次いで頂こうか」
「フン。人間風情が小賢しいことよ。姫様は、いま桜染めのご準備でお忙しい。そなたらの相手をしている暇はない」

堂々とした口調で兼続は桜花に訴えるが、元より桜花に兼続の話を対等に受け取る気など更々無い。小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、兼続の言葉を一蹴してしまう。
桜花は、門を塞ぐように一行を睥睨すると、澄まし顔でピシャリと一行に言い放つ。

「嵐道殿。桜染めは間もなく行われる。故に催促は無用じゃ。山城守殿。治部殿は半年も放っておけば勝手に回復しやる。髪の色も戻る。故に姫様のお手を煩わせる必要はない。まして、ご秘蔵の神酒を頂こうなどと、人の身にあるまじき高望みじゃ。分を弁えて大人しゅうしておられよ」
「姉様。それでは、治部殿がお困り……」
「何が困るものか。たかだか半年ではないか。大した時間ではないわ」
「神々の身から見れば、ほんの僅かな時間かもしれぬが、我らから見れば貴重な半年だ。まして、三成は天下を支える支柱とも云える者。その半年の間、天下の政事が滞るなど以ての外。泰平のため、民人のため、三成の回復は殊の外、重要なのです!」
「なにが天下じゃ。それは人が都合良く勝手に作り出した仕組みの話であろう。自然と時と共に生きる我ら神世の者には、何の関係もないわ」

梅花と兼続が、どうにか話をするべく必死に食い下がるが、桜花はにべもない。なかなかに難物だ。美しい顔立ちで次々と居丈高な言葉を繰り出し、相手の言動を完全に封じてしまう。
その桜花たちの応酬を観察しつつ、左近は心中でとある感想を述べる。


     これ……なんだか、どこぞで見たことがあるようなないような、情景なんだが……


たぶん、極々身近で、これと似たような光景を頻繁に見守っているような気がする。その時、自分は胃の賦の辺りがシクシクしたり、心の臓の辺りがハラハラしたりといった身体的な変調を覚えるのだ。
左近にそんな身体的な変調を覚えさせる人物も、気に食わない相手に対して弁舌に容赦はない。加えて、整った容姿が、相手の不快感を高めることも共通している。

左近の内心で目に見えない汗がつうっと伝う。
眼前で繰り広げられるこういったやり取りを見て、かの人が何も云わずに黙っていることなどあり得ない。第一、この件に関して、一番に深く繋がっているのだから、尚更である。
間違いがない。現に心身が警告を発している。
そして、その警告は見事に的を射るのであった。

「…………黙っておれば……」

耳朶を小さく振るわす不吉な呟きに、左近は「やっぱり……」と胸襟で苦い息を吐く。
感情を抑えるように俯く白皙の面は、顔を縁取る銀糸に遮られてよくは見えない。だが、肩に絡む白い腕が小刻みに震える様から想像するに――――――


     相当、きていらっしゃるようだなぁ


これから起こるであろう嵐の予感に、左近の冷や汗の数がそっと増すのであった。



「先程から黙って聞いておれば、勝手なことをぬかしおって……」

三成の口から発する怒りを押し殺すかのような低い声に、桜花たちの喧々囂々としたやり取りがハタと止まる。決して朗々と響くような大きな声でないが、周囲を圧するには十分だ。


     そう。この背に背負っている人も唯人ではないのだから


ここ数日、大人しかったのは体力が消耗しきって口を開くことさえままならぬ状況であったらだ。
だが、今は違う。神域の濃い大気のお陰で、幾分か回復をした。
天下一の「横柄者」が、舌戦を披露するくらいには……



「なんじゃ?」

三成の唸るような呟きに桜花が不快げに眉を顰める。
その表情に溜まり溜まった三成の勘気が爆発した。

「なんじゃではないわ! 奪われたのは、俺の精気だろうがッ! 貴様のお陰で、俺も左近も兼続たちも入らぬ苦労を強いられているのだぞ!! だいたいなんだッ! 人のものを勝手に奪っておいて支払いの代金もなしか! この盗人がッ!!」
「ぬ……盗人?」
「盗人ではないか! 神だか女神だか知らぬが、人の了解もなしに他人のものを持って行くことを盗むというのだ!! そんなことも知らぬのか、この阿呆がッ!! やたらと長生きをしている割には頭の中は空っぽかッ!? その程度の道理、その辺の童でも心得ておるわ! 無駄に長く生きても、阿呆では意味などなかろうに!!」
「あ…阿呆…? 空っぽ??」
「さあ、精気の代金に神酒とやらを出せ! それとも、貴様の主は大酒食らいのケチなのか!?」
「え……?」
「あぁ、もう、貴様では話にならぬ! いいから、大酒食らいの貴様の主を出さぬかッ!!」

堰を切ったように吹き荒れる言葉の矢が桜花に突き刺さる。
その余りの激しさに、桜花も返す言葉なく呆気にとられている。その裏で云われた言葉の意味を理解しようと、理性が必死に働いていることだろう。

本領発揮とばかりに三成は舌戦を披露するが、相手は神の眷属なのである。人間相手なら、己の腕で凶事を止める自信があるが、万が一にも妖しい呪術でも使われたら、それを止められるか、左近としても甚だ心許ない。
しかし、三成は相手が人間でも妖や神相手でも、正論と信じたことを曲げることのない。そんな真っ直ぐさを好もしく、また危なっかしく思いながら、左近は恒例通りに主を宥めるために口を開く。

「殿。少し落ち着いて……そんなに一気に捲し立てては……」
「落ち着いていられ……ぅ」
「云わんこっちゃない。本復していないんですから、怒鳴らないで下さいよ」
「怒鳴らずに……いられるか。なら、代わりに貴様が交渉しろ」
「あれ、交渉って云うんですか?」

眩暈を起こしたのか、フラリと背にもたれ掛かる主を背負い直しながら、左近は三成に忠言を試みるが、それはムッと尖らせた唇に言い返される。


     どう見ても、喧嘩をふっかけているようにしか見えないんですけど……


「少し調子を取り戻した途端にこれだ」と、苦笑を禁じ得ない。だが、それがひどく嬉しい。
例え、世の万民が「横柄者よと」忌み嫌おうが、自分は三成のこの性格を愛して止まないのだと、左近は改めて自覚した。



三成に放言を叩きつけられた桜花はというと、

「い……云うに事欠いて姫様を大酒食らいのケチなどと……」

白い頬にカアッと朱が上がり、細手がわなわなと震えている。如何ほどの月日を生きているのかはわからないが、人よりも長い時を生きていても、「盗人」だの「阿呆」だの「ケチ」などと罵られたのは、初めてだろう。
まして、自分よりも格下と思っている人間相手にである。

さらに――――――

「盗んだことは認めるんですね」
「ゆ、幸村!?」
「兼続殿。だってそうでしょう? 佐保姫の命なのか、桜花殿、貴女の判断なのかは知りませんが、実際に幾人もの人から精気を奪っているではありませんか」
「ははは、違いねぇや」
「け、慶次まで!?」
「それを人の世界では盗人と云うのですよ」

幸村が真っ直ぐに桜花を見据えてきっぱりと言い切る。

「本当に剛胆な人たちじゃ。神の眷属に向かって盗人とは……」
「山城守殿は、さすがに青くなっていらっしゃるなぁ」
「もうしばし、様子を見るか?」
「そうしよう」

そう小声で話し合う鳶と蟇。
検分役の二匹の化生は、そうそうに戦線離脱と決め込む。
一方――――――

「そ…そなたら…」
「殿。完全に怒らせちまったようですよ」
「当たり前だ。怒らせるつもりで云ったんだから」
「…………」

怒り心頭の桜花。もう怒りの余りに言葉も出ない。
ブルブルと肩を震わせ、紅唇をギリリと噛み締めている。目に見えぬはずの赤い鬼炎がメラメラと立ち昇って見える気がする。
「さてさて、鬼がでるか蛇がでるか」と、慶次などは油断なく背負った大矛に手をかける。

一触即発――――――

緊迫した空気が辺りを覆う。
互いに激しく睨み合う。
誰も動けずにいる。

だが、数瞬後――――――


「煩いぞッ! 桜花!!」


雷鳴にも似た怒声が、その緊迫を破いたのであった。





2007/11/16