桜異聞録 17
「煩いぞッ! 桜花ッ!!」
空気がビリビリと振動をする。
一瞬、朱塗りの門自体が震えたのかと錯覚する程の大音声。残響が鼓膜に木霊する。
女の声だった気がする。が、果たして女性にあれだけの蛮声を上げることができるのか、平均より多くの女性を知っている左近や慶次にすら判断がつかない。
三成に至っては、音波の直撃が堪えたのか、クタリと左近の背に身を預けて、耳を押さえて呻いている。他の者も似たり寄ったりの態で、脳内に反響する轟音をやり過ごす。
と
――――――
ズン
地面が揺れた……ような気がした。
ズズン
また……揺れた?
いや、実際に地震のように地面が揺れているわけではない。だが、そう錯覚させる圧倒的な「ナニ」かが、こちらに近づいている。そのことだけは、みな、本能的に悟った。
近づく「ナニ」かの気配。そのヒシヒシと皮膚を刺激する強大な気配に、あの桜花の血の気がざあっと引いていく。気配に竦み上がる肩越しにその「ナニ」かが見えた。
それは、朱塗りの門を潜り抜け、桜花の真横に立つ。
一応、見た目としては人間の女性の姿形を保っている。しかし
――――――
かつては、複雑に結い上がっていただろう黒髪は艶を失い千々に乱れ切っていた。
かつては、光沢を放っていたのであろう絹の衣は擦り切れ、所々に赤や桃、茶、などの様々な色が形状しがたい複雑怪奇な模様を描いていた。
かつては、その肌を美しく装っていた白粉や唇や頬の紅はものの見事にはげ落ち、簾のように前に落ちかかる乱れた髪の隙間から覗く眼光鋭い目元には、クッキリと隈が浮き上がっていた。
そしてなによりその女性は、平均よりも些か、いやだいぶ体格がよかった。縦ではなく横の方に…………
「酒樽?」
「某狸殿?」
「お館様?」
「つうか、下町の肝っ玉母ちゃん?」
各々、受けた印象を胸中で密かに呟く。勿論、そんな失礼に極まりない感想を口にできるはずもない。何故なら、その女性が唯の人であるはずがないからである。
あの傲慢な少女を顔面蒼白に追い込む者は、恐らくこの世で唯ひとり。
そして、その者に抱いていた男たちの淡い幻想は、今や木っ端微塵に砕け散ろうとしていた。
「ひ…姫様……?」
人形じみた強張った表情を浮かべ、桜花が己の音ァに恐る恐る声をかける。
桜花の口から「姫様」という単語がまろび出た時、男たちは揃って深い深い嘆きの息を吐いた。
「やはり……アレが佐保姫…ねぇ……」
「詩歌に謳われる春の姫君……なのか……」
「…………本当にアレがです…か?」
「……嘘だろぉ。おいぃ…………」
揃って肩を落とし落胆する家老と親友たちを三成は冷ややかな眼差しで見遣ると、
「…………………あ、阿呆どもが」
情けなさ半分、呆れ半分にそっと呟くのだった。
そんな、闖入者たちのやり取りなどに目もくれず、佐保姫は汚れた袖口から桜色の小袋を取り出すと、ズイッと桜花の眼前に袋を突き出す。
「ほれ、染め粉が出来上がった。とっとと、吉野を染めに行かぬか」
「へ? は、はい……」
桜花が、突き付けられた袋を受け取るのを確認すると、そのままクルリと踵を返してしまう。どうやら、門前で呆然とこちらを眺める一同のことなど頭の片隅にも入っていないらしい。
足早に朱門を潜り抜けようとする佐保姫を、青ざめた唇を開いて桜花が呼び止める。
「ぁ……あのぉ……姫様。あの者らは如何致しまするので?」
「うん? 誰の事じゃ。なんだか知らぬが、後じゃ。妾は一眠りする。起きる頃を見計らって、湯殿と膳の支度をしておけ。銚子も忘れるな。よいな」
「え? でもぉ……」
「妾が後じゃと云うたら後じゃ。それより…………」
佐保姫は苛立たしげに柳眉を思いっ切り寄せると、ズズイと桜花に詰め寄る。濃い隈取りで彩られた目元を半眼にしてジロリと鋭い一瞥を己の忠実な女童に投げ付けると、
「桜の染め上げに失敗したらどうなるかわかっておろうなぁ。ん?」
殊更、声を潜めて命じたのであった。
佐保姫の脅迫紛いな命令を実行するべく、少女は長い裳をたくし上げて一目散に桃林の向こうへと駆けて行く。
その真っ青な半泣きの横顔と、ぞろ長い衣装と格闘しつつ必死になって走る姿に、一抹の哀れみと滑稽さを覚えて、三成は湧き上がったはずの怒りが消散するのを感じた。
そして、当の佐保姫はというと、一同と一言も会話をすることなく門の向こうへとさっさと消えて行ってしまった。
残されたのは、桃花源に闖入をしてきた一行のみ。
ヒュウと吹き抜ける春風に幸村が呟いた。
「…………春の女神? どちらかというと、真夏の女神という気が……」
「というか……なんなんだ? あの異様な迫力は……」
「………………」
「どうした、慶次?」
「……いや、すまねぇ。やっぱ妙な夢ってのは持つもんじゃねぇな。粋じゃねえ」
隆とした肩をガックリと落として傾奇者が苦笑うと、誘われて男たちの間に微妙な笑みが広がる。
そんな彼等を小首を傾げつつ眺め遣る梅花に左近が最後の策を試みる。
「梅花。念のために聞くけどな。……あれ本当に佐保姫なのか?」
「ええ、そうですが……」
「………………………………」
「あのぉ?」
「いえ、すまん。ちょっと目眩が……」
どこか遠い眼差しでふぅっと溜息を吐く左近。その背の上から三成がかくりと項垂れた頭を思いっ切り叩いた。
「左近。貴様、何を呆けている。佐保姫が『アレ』であったのが、口もきけぬ程に驚きか? 幸村も慶次も……おい、兼続ッ! 貴様もかぁッ!!」
「でもねぇ、殿……。いやぁ……なんと申しますか……ねぇ」
「うむ……」
小気味よい音を立ててひっぱ叩かれた頭を撫でつつ、左近が口の端を下げる。己の忠臣のその珍妙な表情に、三成の吐く息が更に深くなる。
いくら、遊興にさほど興味のない三成だとて、万葉などの様々な古典や詩歌に謳われる佐保姫の姿くらいは知っている。
曰く
――――――
春の花の如くに優しげでたおやかなるうら若い乙女
春の霞の如くに儚げで朧な美しさを称える女神
だが、そのようなものは、春から連想をして勝手に人々が作り上げた虚像でしかない。
実際に眼にした佐保姫の姿がアレであったからといって、なぜにそこまで落ち込んだり呆けたりするのか、三成にはまったく理解ができなかった。
肩を落とす男たちの落胆振りに困ったように細い眉を下げて梅花が、おずおずと口を開いた。
「あのような乱れたお姿で驚かれたでしょうが、姫様、ちょっと徹夜続きで……。ご機嫌も悪かったようでございますし」
「ちッ……阿呆か、貴様ら。夕花、こいつらに水でもぶっかけてやれ。さすれば、多少頭も冷えよう」
「え? で……ですが……」
三成とて、己のために様々な苦労を重ねてくれたことには、心底感謝をしている。が、それはそれ、これはこれである。三成は毅然と夕花に非常な命を下す。
しかし、いくら主命とはいえ、まさか本当にその命を実行するわけにもいかない。苦笑を称えてどうしようかと思案する夕花の顔を目の端にしながら、左近がニヤリと悪戯っぽく口角を上げる。
「何を仰っているんですか。左近が水を被ったら殿だって濡れちゃいますよ」
「なら、俺を降ろせばよかろう」
「殿を降ろしたら水をかけられるかも知れないというのに、わざわざ降ろすはず無いでしょう」
「左近……。貴様、主を盾にする気か? 阿呆面下げて呆けるだけでは飽きたらぬのか! この不忠者がッ!!」
三成は半眼で左近を睨みつけると、その不忠者の頬をギリッと捻る。冗談のように交わされる主従の会話に困り顔だった美少女ふたりの表情も和らぐ。見守る友人たちからも小さな笑い声が零れる。
和みかけたの空気。そんなやり取りをぼうっと見ていた者がひとり……
「んん? 水ですかな? なら、某が……」
『なッ!? うぉッ! この蝦蟇がぁぁぁッ!!』
カパッと開いた真っ赤な大口。そこから発射されたぬめぬめとした水鉄砲が、三成の命を忠実に実行した。
桃花源に夕闇が迫る。
濃紺と橙が織り混ざった天蓋に花盛りの枝々が彩りを添える。その幻想的な風景を三成はひとりで小さな四阿から眺めていた。そこに、梅花と夕花が現れた。
「殿様。神酒ではないが、これを……朝摘みの桜の花を浸した清水じゃ。多少、回復の足しになろう」
「すまぬ。世話を掛けるな」
「いいや、こちらこそすまぬ。桜染めの勝負は、春の女神として姫様の面目に関わること故、姉様も焦っておられたのじゃ。姫様も染め粉のことで頭が一杯になられておられたので、姉様の集めた材料のことに気が回らなんだ」
梅花の言葉に、三成は先程の佐保姫の姿を思い出す。
確かに、あの尋常為らざる様を見れば、さもありなん。
「姫様も一眠りしてすっきりされたら、きっと殿様の話を聞いて下さりまする」
「わかった。お前がそう云うのなら、信じよう。それにしても、桜染めの勝負など……。神々も存外暇なものだな」
「人の世が忙しすぎるのじゃ。殿様もこちらにおられる時くらいゆっくりなさって下され」
ふうっと溜息を吐く三成の苦々しく尖る口元に梅花が笑って応じる。
「殿。お寒くはございませんか? 肩に掛ける羽織を借りて参りました。どうぞ」
「気が利くな、夕花。流石は左近の推挙した娘だ。して、その左近は?」
「いま、直江様方と湯浴みを……。水丸殿の蝦蟇の油入りの水を被ったのです。しばらくは、戻って来れないのではと思います」
「まったく、あの阿呆共にはいい薬だ」
もっとも、彼の忠実な家臣は、主を庇って一番手ひどく油入りの水を被ってしまったのだ。もう十分に薬となったことだろうと、三成はこっそりと苦笑を漏らす。
梅花が差し出した清水は、仄かに桜が薫る。
左近たちが戻るまでの間、桃花源の一郭でゆるりと時が流れる。
「あの……殿は……驚きにおなりになりませぬのですね」
ふと、夕花が問う。問い始めこそ、少しの逡巡があったものの疑問を投げ切った後は、真っ直ぐに三成を見つめて答えを待つ。その臆するところのない真っ直ぐさに親近感を感じる。
三成は、ほんの少し口角を上げて夕花に応じた。
「ん? あぁ、佐保姫の姿にか?」
「はい。正直、わたくしも驚いてしまって……。万葉に謳われた姫の姿とは、余りにもかけ離れておいででしたので…。あっ、梅花殿には失礼を……」
「よい。人が姫のお姿を見ることはない故、知らぬのも無理からぬ事じゃ」
「夕花。詩歌に謳われる姿など、人が勝手に想像をしたものではないか。そんなことは佐保姫の知ったことではない」
生真面目にそう答える三成の姿に、夕花は左近がかつて語った言葉を思い出す。
あぁ、そういえばこの方も……
この主も怜悧な容姿から、狐だの冷淡だのと多くの者から揶揄され誤解をされるのだった。
「まぁ、しかし……」
その冷淡といわれる主がクスリと紅唇を綻ばせる。
「天下に名高いあやつらのあの間抜け面は、一見の価値であったな」
クスクスと子供のように笑む姿に、夕花は主の言葉の正しさを知った。
2008/03/07