雲となり雨となる 9


「……と、云う訳なんですが、信じて頂けますかね。左近も夢か現か……見当もつきませんので、いかんとも……」

そう左近が本当に困り果てたような顔で不可思議なお伽噺を語り終える。
どことも知れぬ不思議な空間での秋の竜田姫との出会い。口についた紅と懐の香り袋は彼女の悪戯であるという話の内容に、流石の三成も言葉がない。

左近は、言葉に窮する三成の顔を真正面から見つめる。
鋭い真摯な黒い瞳が戸惑う琥珀の瞳を捉えた。

「ただ……。殿を放ってどこぞの女のところにいたと思われるは、左近にとっては不本意です。殿は……この左近がそんなことをするとお思いか?」

左近の話は、まるで子供が読む御伽草子のように現実味のない話ではある。意地の悪い人が聞いたら、「一端の軍略家の癖にもっとましな嘘をつけぬのか」と皮肉るであろう。秋の女神と出会ったなどと夢の話をと――――

三成は左近の瞳を逸らさずに真っ直ぐ見つめ返す。

「……左近は」

つと、三成の口元に薄い笑みが浮かび表情が和らぐ。

「左近は、俺に嘘は云わぬ。左近がそう云うのならば……そうなのだろう」
「殿……」

左近の話だから信じられる。どんな絵空事のような話であろうと、本当にあったことなのかなどは関係ない。左近がそれを真実と云うのであれば、三成はそれを只信じるだけ。
子供のように真っ直ぐで純粋な信頼に左近の頬が緩む。思わず伸びた手は、三成の柔らかい輪郭をなぞり顎をそっと上向かせる。
吐息が交わる程近くに面を寄せるが――――

「でも…………」
「?」
「妖(あやかし)風情に誑かされおって…………」

主の不穏当な発言に思わず左近は目を瞠る。先程まで、和らいでいたはずの口元は、ツンと尖ってへの字に曲がっていた。左近を半眼で見上げて眉も不機嫌そうに寄せられている。

「別に竜田姫は、妖じゃ……」
「うっさいッ! どちらでも同じだッ!! 誑かされたことには変わりないではないかッ! それだけは、絶対に許せんッ!!」
「へ? 殿?」
「動くなッ!」

何かが身体にぶつかる。視界がグルリと反転したかと思うと青い空が見える。次の瞬間、派手な音を立てて、机や床机が倒れる音が響く。と同時に、背を強かに地面に打ちつけた。その衝撃でほんのつかの間、目の前が暗転する。
次に感じたのは、背から伝わる泥に染みた水の冷たさと口唇に触れる暖かな感触。
左近はその感触にそのまま目を閉じた。



湿った感触が歯列をなぞったと思ったら、今度は無理矢理こじ開けるように口腔に侵入をしてくる。触れ合った舌先に絡みつこうとするが、慣れないせいか巧くいかない。少し助けるように自ら相手に触れてやれば、今度はピタリと吸いついてくる。

「ん…ぅんん……」

苦しげな声が漏れる。
息を継ぐために角度を変える。

「……ん」

再び、お互いの唇が合わさる。絡み合いは、段々と熱を帯びくる。どちらからともなく差し出す舌先から零れる唾液が混ざり合い左近の顎を伝う。

「ん……っはぁ…」

漸く三成が唇を離した時、帯びた熱は頬を桜色に染め上げていた。肩で荒く息を吐く三成の髪を梳き、その頬に触れる。触れた肌は、とても熱かった。

「随分と積極的ですね。こんなに派手な音を立てて……小姓が来たらどうする……ってッ!?」

左近の言葉が終わらないうちに、三成の身体がガクリと倒れる。左近は。慌てて三成を抱き留めた。息は荒く瞳は気怠そうな色彩を帯び、頬は変わらず熱を放っている。濃厚な口付けの余韻かと思ったのだが……

「殿、失礼」

そっと額当てを外して直接熱を測る。

「熱があるじゃないですかッ!!」
「…ッ、へ、平気……だ」
「何を云っておられるッ! すぐに城に戻りますよッ!!」

有無を云わさずに三成を横抱きに抱えると、左近は陣所を出る。外で控えていた小姓に馬の用意を命じると、すぐさま三成を抱えたまま馬上の人となった。

「殿ッ!?」
「すまん、殿が熱を出された。ここの指揮は任せたぞ」
「心得ました」

駆け寄って来た家臣の一人に指揮を託し、左近は城への道を急ぐ。腕の中の三成は、熱で怠いのか左近の胸に頭を預けたまま身動き一つしない。ただ、その桜色の面に浮かぶのは、安堵の表情。そして、気怠い中でも左近を見つめる瞳は、決して閉じることはなかった。
城に着いた途端、三成は濡れた着物を着替えさせられて、無理矢理寝床へと寝かしつけられる。柔らかい敷布に身を任せると、とうとう三成は意識を完全に手放した。





身体が熱い。
濡れた手拭いが熱に浮かされる額に触れるのを感じる。その感触が気持ちいい。三成はその心地よい冷たさにホウッと息を吐くと、安寧の眠りから漸く浮上した。
虚ろに開いた目に映るのは、心配そうに自分を覗き込む家老の姿。

「……苦しいですか?」
「平気だ……と、云ったではないか…」

枕元に座す左近に三成は素っ気ない返事を寄越す。そんないつも通りの強気な主に苦笑をしつつ、左近は枕元の手桶を手に取る。

「水を替えてきますよ」
「待てッ! 行くなッ!!」

左近が立ち上がる気配を察した三成は、慌てて左近の裾を掴む。中腰で立ち上がりかけていた左近は、主に意表を衝かれ体勢を崩しかける。何とか踏み止まるが、大きく揺れた手桶から水が畳に零れた。

「殿?」
「い……いいから……ここにいろ」

顔を伏したまま、小さな声で三成は左近に命じる。それ以上、三成は何も云わない。
三成は左近の裾をしっかりと握り締め顔を伏せたまま。跳ね上がった布団が、震える肩からずり落ちる。
こういう時は、きっと三成から何か云いたいことがあるのだ。だけれども、この可愛らしく不器用な人は、自分の素直な心を言葉にするのが非道く苦手で―――― だから、左近はじっと三成が言葉を発するのを待つだけ。
左近は、ゆっくりと裾を握り込む三成の手を外し、己の掌でその手を包み込むと再び枕元の座した。



そのまま、しばし時がゆるりと流れる。



「左近が……流されたと聞いて……苦しかった」

顔を伏したまま紡がれる言葉は、ポツリポツリと独り言の呟きにも似て小さく、そして辿々しい。

「探しに行きたかった……けど…やらねばならぬ……ことが……たくさん…あって………俺は…」

小さな声は段々と嗚咽に紛れ途絶えてしまう。白い敷布にポタポタと水滴が吸い込まれていく。
左近は握った手を優しく引いて、主の痩身を己の胸に抱き締める。

「殿…………」

顎を攫い上向かせた三成の両の瞳には透明な滴が溢れ、白い頬を濡らしていた。下がった愁眉の下、涙で潤んだ琥珀の瞳が、不安げに揺れている。
その瞳が言葉よりも雄弁に「嫌わないで欲しい」と訴えてくる。

左近が行方不明と聞いても、左近よりも民人を−自分の役目−を優先させた自分を嫌わないで欲しい――――――


     そんなことで、俺が殿を嫌うはずもないのにね…………


きっと、そんなことくらい三成は知っている。知っていても不安になる。何故ならそれが「情」だから。
「情」に冷たく見えてもそれは見かけだけ。その内にある心はこんなにも熱い。

「本日の殿は、お忙しいですな。心配されたり怒ったり泣いたり……」
「なッ!?」
「でも……もう、大丈夫ですから……」

安心させるように背を撫でて耳元で優しく囁きかける。

「もうよいですから、御休みなされ。左近は、ここにおりますから」

そう云って微笑む左近の唇は、そのまま三成を濡らす透明な液体をそっと吸い取ると、擽ったそうに身を捩る三成の唇を捉えた。





2007/01/06