雲となり雨となる 8


     左近は息をつく。


     生きている―――――


手が震える。目の前の幾分青褪めた頬に手を添えると、暖かな温もりが掌から伝わる。


     生きている―――――


竜田姫の恐ろしい言葉。胸を突き刺したその鋭い刃は、目の前の存在が溶かしてくれる。左近は、再び深い安堵の吐息を漏らした。

お互いに言葉はない――――
三成は頬に添えた左近の手に己の手を重ねる。そして、左近の存在を確かめるように、その手をキュッと握り締め微笑む。

瞬間、左近の頭が空白になる。

「……左近?」
「すみません。今しばし……」

気がついた時には、左近は細い肩を己の胸に掻き抱いていた。鼻先を朱色の髪に埋める。肩から背へ背から肩へ。手で細い線をなぞり、手中の存在が確かなものであることを何度も確認する。
三成は、左近の手中で大人しくされるがまま、瞳を閉じその胸に頭を預ける。

互いの存在を確認しあう甘い時間――――
陣幕が小さく揺れ、顔を赤くした小姓がそっと出て行ったことに二人とも気づくこともなかった。





――――

「…………?」

つと、顔を上げ自分を見つめる三成の眉間に皺が寄る。不快なことがある時のいつもの表情。困惑する左近を余所に、三成はクンクンとまるで仔犬のように鼻を鳴らして左近の懐を嗅ぐ。

「殿?」
「香の匂いがする」
「え?」

己を見つめる三成の柳眉が益々不快そうに歪められる。ムッと尖らせた桜色の唇から思いもかけない言葉が飛び出す。

「それに…………唇に紅がついておるぞ」
「は? 紅なぞつい……て……」

と、左近は口唇に触れたある感触を思い出す。
あれが夢でなく、誠のことであったならば……………


     ま、まさかッ!!


サァッという血潮が引く音を耳の奥に聞いた。


     やってくれましたね。竜田姫―――― ッ!!


昨晩の自分の言葉が蘇る。


   「……殿も姫神も扱いには気をつけないと……」
   「只ね。どちらも嫉妬深いと云うことですよ」


     まさに……だな


身を以て自分の揶揄が正しかったことを証明してしまった。
自分に口付けた時の、あの彼女の満足そうな顔はそういうことだったのかと得心する。が、だからといって現在の眼前の事態が好転するわけではない。

三成はスルリと左近の腕から抜け出す。
怜悧な目元を半眼にして左近を睨みつけると、愛用の扇で左近の顎を下からトントンと小突き上げる。

「…………ほう、その顔。思い切り心当たりがありそうだな? ん? どうした、なんぞ云ってみろ」
「ぇ…ええっと……」

語る口調は静かだが、自分を睨みつける視線は氷の矢。その冷たい矢に射抜かれて、珍しく不遜な家老の歯切れが悪い。心なしか冷や汗も浮かんでいるようだ。


     これじゃ、まるで浮気が見つかった間抜けのようじゃないか……


左近は、胸中で深く嘆息する。

最も左近としては、したくてした逢瀬でも口付けでもない。いわば不可抗力。天災といってもいい。
自分に非はないと断言できても、今まで流してきた過去の浮き名の中、似たような修羅場に遭遇したことは数知れず。となると、その対処方法も心得たものだ。これまでは得意の軍略で女どもを宥めて事なきを得てきてはいたが、今、目の前にいるのは只人ではない。まして、嘘や誤魔化しなどで、この限りなく純粋で真っ直ぐな人を偽りたくはなかった。

「左近……」
「殿」

しかし――――
「あの不可思議な出来事を話して、果たして理知的なこの人が納得をしてくれるのか」
そう思案に沈み黙する左近に三成は眉間の皺を深くする。返事に窮して困惑をしているのと映ったのであろう。実際そうなのだが、この場合、二人の思考の内容に大きな隔たりがある。

「左近ッ! 貴様ッ、何か云うことはないのかッ!!」

業を煮やした三成が、左近の胸倉を乱暴に掴み上げる。左近が無事と知れるまで、胸を苦しめていた黒い感情は、今は鮮やかな灼熱の赤に取って代わられている。それの意味することを三成は理解してはいない。
だが、今はその胸にわだかまる感情に素直に従っている。いや、従わざるを得ない程に強く三成の理性を激しく揺さぶっている。
三成は着物の襟が乱れる程に強く左近の胸倉を揺さぶる。あまりの強い調子に流石の左近も只驚くばかり。と、左近の懐から何かが転がり落ちた。

「何か落ちたな? ……香袋?」

三成は、ポイッと捨てるように左近の胸倉を突き放して、素早く屈み込む。白い手が拾い上げたのは、錦の香り袋。柄は艶やかな紅葉柄。

「フン、なかなか品のよい香り袋だな。それで、この香り袋の持ち主のところにでも行っておったのか?」

怜悧な美貌に浮かぶ冷たい瞳と冷たい声。気に食わない相手に眼差し鋭く皮肉を応酬する時の凍れる眼。視線で人を殺せるのかと思う程にきつく左近を睨みつけるが、それも一瞬のことだった。
不意に――――

「俺は……俺は…本当に……本当…に…………」

肩が震える。
声が詰まる。

左近を睨みつける瞳の潤みが増したと思ったら、切れ長の目尻に涙が浮かぶ。涙は次々と頬を流れ落ちる。
自分の頬を伝う涙が信じられないのか、三成は驚いたように目を見開く。その見開かれた目から涙は途切れることがない。ポロポロと白い頬から細い顎へと涙の川は流れ地面へと吸い込まれていく。
涙を止めようとしてか、三成はきつく目を閉じ溢れる涙を必死に拭うが効果はない。おまけに口からは、抑え切れずに嗚咽が漏れる。


     まるで、子供やおなごのようではないかッ! こんなことで、取り乱して泣くなどとッ!!


そう三成の矜持は自分を叱咤する。


情けない――――
恥ずかしい――――


理性はそう云いながら胸の底から突き上げる何かを必死に抑えようとする。

左近が行き方知れずとなった時には、黒く渦巻き世界を白と黒との色の世界に染め上げた。
彼が見つかった時には、暖かな温もりと淡い色彩を世界に取り戻してくれた。
その彼の唇に残された赤い徴を見た時には、豪華の如き怒りが世界を赤く彩った。
そして今は、様々な感情が入り交じった極彩色の奔流が理性を押し流す。

止めたくても止め方がわからない。どうしても理性からの指令は尽く無視される。三成は自分がひどく混乱していることを自覚した。
辛うじて、泣き顔を見られないように面を伏せて手で覆い隠すが、その指の間からも滴がポタポタと地面に水滴を落とし続けた。



「殿」

左近は項垂れた三成の肩を優しく撫でる。三成はピクッと肩を小さく揺するが、面は伏せたまま零れる嗚咽が左近の耳殻を打つ。


     あぁ、泣かせてしまった――――


胸の片隅がチクリと痛むが、その痛み以上にある思いが左近の胸を占める。
理性的で滅多に感情を表に表すことのないこの人が、こんなにも心配をしたり嫉妬をしたり怒ったり泣いたりしている。それがすべて自分のためであるという事実。それは、何という望外な喜びだろう。

左近は顔を覆い隠す三成の手を取る。力が抜けたように抵抗はない。泣き顔を見られるのが殊の外恥ずかしいのか、赤くなった目元を更に赤くして目を逸らす。
潤んだ瞳。八の字に下がった眉尻。紅潮した頬。常でないその様は――――


     なんとも可愛らしい


左近は、怒鳴られるのをわかっている上で、緩む頬を抑え切れずにいる。案の定――――

「何をニヤニヤ笑っておるッ! 俺がこんなに……」
「斯様に左近のことを案じて下さったのに ですか?」
「ッ! だ、誰が貴様なんぞッ! 俺がどんな思いであったのか、わからんような薄情なヤツなぞ知らんわッ!!」

左近の手をはねつけ、三成は赤くなった目元をキッと釣り上げ左近を睨むが、左近ははねつけられた手を再び握る。
先程までは気がつかなかったが、よく見れば三成の着物は、一晩中雨に濡れたため生乾きのようにしっとりと湿っている。あんなに頬は暖かかったのに、今握る指先は氷のように冷たい。

「殿……。濡れた着物のままでおられましたな。身体が冷えておられる。早く着替えないと風邪を召されますぞ……」

その左近の気遣いが、三成には誤魔化しと映ったのか、益々柳眉を逆立てて怒鳴り散らす。

「だからなんだッ! 左近は俺に云うべきことがあるだろうッ!!」
「殿。兎に角、まず城に戻って着替えましょう。ね?」
「イヤだッ! 今すぐ、ここで説明しろッ!!」
「殿……」

頬に涙の筋を残したまま、左近に憤りをぶつける。


     「泣いた子が笑う」じゃなくて、「泣いた子が怒る」か……


左近は三成の肩を抱き寄せる。せめて、これ以上、三成から温もりが奪われないようにと――――

「いいですけどね……。実は…その…左近も半信半疑でしてね。どこからお話しすればよいやら……」

そう云って、頭を掻きながら唸るように困った顔をしてみると、「いいから早くしろッ!」と抱いた手の下から扇で小突かれる。

話は少し長くなりそうだ。
左近は地図の乗った机に三成を座らせ、自分のその横に浅く腰をかける。
そして、この世で一番面倒な人の要求に応えるべく、左近はあの不可思議な話を物語る。




2007/01/01