雲となり雨となる 7


     今のは、一体なんだ?


左近は、ぼんやりと自分の両の掌を見つめていた。
燦々と降り注ぐ朝の光が、長い陰を地面に投げかけた。嵐の過ぎ去った空を楽しむような小鳥の囀りも聞こえる。

ここは紛れもなく自分が住まう世界。
なら、先程のは――――


     夢――――? 白昼夢か?


夢か現か……。しかし、ただの夢と呼ぶには、それは余りにも生々しい。

ふと、口の端をなぞってみる。触れる乾いた感触。少し強く擦ってみる。指先についたそれを確かめてみると――――

それは、乾いた血の粉だった。





「夢では……なかったのか?」

呟く己の声が、知らずに微かに震える。
夢のようで夢でないあの空間。あそこで出会った人外の者―――― 秋の竜田姫の言葉。
別れ際に彼女はなんと云っていた?

―――― 目覚めたならば、おんしが望む者のところに疾く駆け戻れ。はよう、戻ってやらねば………


     戻ってやらねば……?


―――― そやつのために、死ぬることも生くることも出来なくなるぞ。


「……ッ! 殿」

身体を流れる血が、一気に引くのを感じた。茫洋とした思考が急回転をする。


   自分が犬上川の大水に流されたと知ったら、殿はまず何をする?
   ―――― まず、混乱した現場を収めるために城を飛び出すに決まっているッ!
   それから?
   ―――― 堤防の修復。それが無理なら土塁を築く。大水に流された者たちの捜索は…………
   夜が明けてからだろう。
   ―――― なら、殿は城ではなく犬上川の川辺にッ!?


―――― そやつのために、死ぬることも生くることも出来なくなるぞ。

自問自答する脳裏に、再び竜田姫の言葉が響く。

「まさかッ! 殿の身に……ッ!?」

混乱した現場。
荒れ狂った川。
破れた堤防を治めるのは容易ではない。それに、大水は一度切りとは限らない。

ひょっとして、荒れた川に足を滑らせたのか?
自分と同じに大水に攫われたのか?
三成には敵も多い。混乱した人込みに乗じて――――

「殿ッ!」

脳の一部が、「この切羽詰まった声は誰だ?」と問うが、それが弾けたように口から出た己が声であることに左近が気づくことはなかった。










雨の上がった犬上川の川縁――――

時刻は昼過ぎ。中天を過ぎた明るい陽が川縁を照らす。
嵐が過ぎた空は晴れ渡り青い空はどこまでも高く澄んでいるが、変わらず川は濁流と化し激しい流れが川岸を叩いている。だが、雨が上がった今、これ以上の増水はないはず。

三成は、水の被らぬ高台に決壊した堤防の修復と大水に流された者たちの捜索の拠点として急拵えの陣所を設置させた。
陣所の内外では、人と物資が慌ただしく行き交う。が、その中央。床机が設えられた指揮所と思しき箇所はシンと静まり返っていた。
三成は黙して、ただ机の上の赤い印の入った地図をぼんやりと眺めている。地図に書き記された赤い点。それは、大水で流されたと思われる者や馬の遺骸が見つかった箇所――――

夜明けと同時に開始された行方不明者の捜索は、芳しい結果をもたらさなかった。
悲惨な報告がもたらされる度に、白い顔を更に白くする主を見兼ねて渡辺新之丞が代わって行方不明者の捜索を行っている。

三成は、何することなく陣所に留まっていた。
指揮を執ろうにも頭が巧く働かない。城に戻るよう進言をされるが、その言葉は胸の中の虚を通り過ぎるだけ――――
やらなければならないことは山積であり、その段取りを早急に行わなければならないこともわかっている。

なのに、身も心も凍りついたように動かない。


     ただ、左近がおらぬだけなのに――――


世界の全てが色を失ったように虚ろだった。
その白と黒の世界のただ中で、三成は一人佇んでいた。





急に陣所の外が騒がしくなる。
驚きと歓声。
陣幕が跳ね上がり、小姓が駆け込んで来た。

「殿ッ! 島様がッ!!」

息を弾ませて彼はなんと云った? 凍りついた脳は理解できぬまま、三成は小首を傾げるだけだった。
小姓は「島様がッ!」と繰り返し、三成の手を引くが三成は動けない。


     左近がなんと…………?


呆然とその場に突っ立ている三成を「お早くっ!」と小姓は急かすが、両の足は木の根が張ったように動かない。
そうこうしているうちに、バサリと陣幕が揺れる。

「殿ッ!!」
「さ……左近?」

大きく見開かれた琥珀の瞳に映るのは、自分の半身。
大水に流されたため、左近の白い陣羽織も顔も髪も水と泥とで汚れ切っている。だが、怪我はなさそうだ。
余程急いでいたのか、いつも小憎らしい程に落ち着いている男が肩で息をしている。自分を見つめる瞳が細められ、その存在を確認するかのように上から下まで丹念に三成を見つめる。
太い腕が伸ばされ、そっと頬に添えられた。その手の感触が、白と黒とで織りなされた世界に徐々に淡い色彩を呼び戻すような感覚を覚える。胸に渦巻いた黒い感情は消え去り、替わってほんのりと暖かな感情が芽生え始める。

「殿……」
「左近……」
「……只今、戻りました」
「……うむ…よく、戻った」


   怪我はないのか?
   痛むところはないか?


身を案じ、労いをかける言葉が脳内に次々と浮かぶ。けれど、口に出来たのはたったそれだけ。そう云うだけで精一杯だった。





2006/12/26