雲となり雨となる 6


そこは――――


霞がかかった様な淡い光がたうたゆ空間。
白い光が充ち満ちているが、天も地もない。ただ水面を漂う様な浮遊感があるだけ――――
頭も身体も霞がかかった様にボウッと朧気だ。だが、思考の一部はしっかりと機能をしている。おかしな気分だ。

そこに女はいた。
その女は見事な紅葉柄の錦を纏っている。
その錦の上をうねる様に流れる翠の黒髪。白磁の顔(かんばせ)に弓月の眉。
そして射抜く様な強い光を宿す琥珀色の瞳がすぐ近くで自分を見つめる。

―――― 美しい

そう思った。

丹誠込めて作り上げられた人形の様な
冴え冴えと夜空に映える月の様な

そんな硬質な美しさ。人の温もりとは異とする異質の美。


ふと、琥珀の瞳が狭まる。三成と同じ色の――――

―――― 人の子にしては、よい氣じゃ。気に入った。

鈴振る様に響き、琴の音の様に円やかな声。

―――― おんし、妾のところに来ぬか? さすれば、人の世の煩わしさもなく、永久(とこしえ)に若く強いまま快楽(けらく)の中で生くることが出来るぞ。

朱唇が笑みを形作り、値踏みをする様に象牙色の手が自分の左頬の傷を撫でる。温もりは感じない。ただ、陶器が肌に触れる様なひんやりと心地よい感触が頬の傷を行き来するのを感じた。

「美女のお誘いを蹴るのは、気が引けるが……その煩わしさが良いんでね。永遠の命ってのには興味はないさ――――

そう云って笑みを返す。鈍った思考でも、自分らしい物言いが出来ることに安堵した。
そう云った自分に女は、ムッとした様に琥珀色の瞳を半眼にして軽く睨む。

「まっ、この世で一番面倒な人の側にいたいんでね。そう云ったお誘いには乗れないのさ」

そう言葉を結んだ自分に女は、先程のムッとした表情に取って代わって、面白いものでも見る様な視線を寄越す。

―――― 煩わしいのがよいとは、奇矯なおのこよ。

「だが……」と女は言葉を続けた。

―――― おんしが主は、いずれ宿命に翻弄され路傍の露と消えるが運命。おんしも遠からぬうちにその身を血で染めて屍を晒すこととなるぞ、島左近。

「予言ですか。しかも俺の名と主まで知っているとはね」

―――― おんしのことは、前から見知っておるぞ、島の左近。元々、島の一族は我が裳(もすそ)近くを根城として追った故。最も……

女は嬉しそうにクスクスと笑う。

―――― ここまでよいおのことは思わなんだが……

艶やか笑い声を上げる女を見やり、左近はその言葉を反芻し思考する。


     島一族の根城。故郷は大和の平群(へぐり)。
     そこにそびえるのは、生駒山に信貴山。裾野を流れるのは平群川。又の名を――――竜田川
     女が纏うのは紅葉の錦。秋――――。秋を司るのは……


そう云われて、なんとなく女の正体に気付く。まさか、冗談で口にした名が、実際に目の前に現れようとは、流石に思いもしなかったが――――

―――― さてはて、その顔では妾が何者か察しがついたようじゃな。

女は、目敏く左近の表情から考えを汲み取る。
取り立てて表情を変えたつもりはないが、人ならぬ身の通力か。左近には判断がつかないが、取り敢えず肩を竦めて女の言葉を肯定する。

―――― では今一度問うが……。おんし、主の宿命に従いて諸共に滅ぶるか? それとも、妾の手を取るか?

女は、象牙色の手を差し出す。琥珀色の瞳を細めて錦の袖で蠱惑的な笑みを隠すが、匂い立つ様な怪しい色香は隠しようもない。
並の人間なら男女問わずにその手を取らざるを得ない―――― それほど強く引き寄せられる。

しかし、左近は伸ばされた手をそっと払う。

「申し訳ないがさっきも云った通り、あの面倒な人を放っては置けないから、お断りしますよ。それに、俺は予言なんぞは信じない性質(たち)でね。よしんば、俺の殿が露と消える宿命ならば、全力でもって抗うまでですよ。そのためにいくら血を流そうとも屍を野に晒そうとも一向に構わんさ」

そう云ってフッと微笑む。
笑んだのは、目の前の女のためではなく心を占めるただ一人のため。



「……報いよう、いずれな」

最初は生意気な若造だと思った。
だが、大言を吐き口元を自信ありげに綻ばす、その顔がどうしても忘れられなかった。氷のように整った怜悧な顔形に似合わぬ、揺らぐ炎のような琥珀の瞳。その炎に炙られた心の端が火傷のようにジクジクと痛みを残す。まるで、自分を忘れるなと云わんばかりに――――――

「欲しいのは……同志なのだから」
一瞬だった――――
二度目に会った時には、もう自分の心の内のすべてを引っさらわれた。誰かに己のすべてを明け渡すのに、逢瀬の数や共にした時間の長さなどに意味がないことを知った。
二万石という禄ではない。
自分を「欲しい」といった時の燃える琥珀の瞳に浮かんではすぐさま消えた縋るような眼差し。それだけで十分だった。




―――― 主のために死ぬるを望むか?

心を占めた面影を見透かすよう女が問う。その声にからかうような雰囲気が滲み出る。自分の誘惑を軽く受け流す左近を面白く思っているのだろうか。それとも、人の云う「忠義」の心とやらに興味を惹かれているのかもしれない。
どちらにしても、左近には女の誘いに乗る気などまったくなかった。

されど――――

左近は、麻痺した思考で自分がここに至る状況を思い返す。直前の記憶は、迫りくる濁流と人馬の悲痛な叫び声。たぶん、自分は部下たちに「逃げろッ!」と叫んだような気がする。すると、自分も激流に流されてしまったはず。
ならば、ここは――――

     ひょっとして、あの世とこの世の境目ってところか?

万が一、そうであった場合、女の誘いを蹴れば亡者の世界へと赴かねばならぬのかもしれない。そう思うと頭で言葉を紡ぐよりも早く――――

「あぁ、でも……俺がこんなとこで死んだら…」

心が言葉を紡いだ。

「きっと、あの人は泣くんだろうな」

     「左近の阿呆。大水如きで命を落とすとは、なんて情けない奴ッ!」
     散々、俺を阿保呼ばわりして…………きっと誰もいないところで一人で泣くのだ
     綺麗な唇を血が滲むほど噛み締めて――――
     声も上げずに――――
     そして、誰かがいる前では「石田治部少輔三成」の仮面を被って平静を装う

「やっぱ、死にたくはないわ」

心からそう感じた。
死ぬのが怖いのではない。死ぬことによって、彼の側にいられないことが――――とても恐い。
自分より細いあの肩を思って左近は苦笑する。平素、剛胆を自負する自分の内に、こんなにも弱い部分があるとは思わなかった。
独白めいた左近の言葉に女は可笑しそうに小首を傾げる。

―――― フフフフ、人で云う武士(もののふ)とは、主がために死ぬるを誇りとすると聞いておるが、死にとうないと云いおるか。鬼左近の二つ名が泣くぞ。

「主のために死ぬは武士の本懐。愛した人のために生きるは人としての望み、かな。どっちにしろ、水に流されて溺れ死にじゃァ、忠義の尽くしようもない。武士(もののふ)の誇りが見たかったら戦場でこそが華でしょうよ」

―――― 生きるも死ぬもどちらも人の本懐かや? どちら共とは欲の深いことよ。その上、賢しくも妾に武士の誇りが見たければ戦場に参れとな。

「欲が深くて結構。これぐらいでなきゃ、煩わしい人の世であの人を守って生き抜くことなんざ……できない…さ」

頭が眩む。急激に思考の朧気な部分が広がりをみせる。
気がつくと、女の顔がひどく近くにあった。

―――― フム……残念じゃが、致し方あるまい。望まぬ者を永久(とこしえ)に縛ってしまうのも面白そうじゃがな………

女は笑う。その笑みに若干、苦々しさが残るのは、自分が彼女を振ったせいなのだろうか。もしそうならば、これ以上男冥利に尽きることはない。何せ、詩歌に詠われる名高き美女を振ったのだから。
そんな不遜な思いが過ぎるが、すぐにそんな思いも思考を鈍らせる夢現な糸に絡め取られてしまう。

鈍った思考を奮い立たせて、考えを纏めようとするが、バラバラにほぐれて四散する糸のように思考が纏まらない。


   どうにか、死の門を潜らなくて済む方法ないのか――――
   ここはどこで、元いた場所に戻るには――――
   目の前の女は自分をどうするつもりなのか――――
   自分が行方知れずと聞いて殿はどうしているのか――――


例え、人の力の及ばぬ領域の事柄だとしても、考えなければならない。考えることを放棄しては、軍師としては失格だ。
そう思うのだが、次から次へと押し寄せる虚ろな波が左近を苛む。

「……ッ うぅ……」

プツリと音を立てて、口の端に血の玉ができる。
唇が切れる程に噛み締めて霞む思考に耐える。と、血の暖かさと対照的な冷たさが一瞬だけ絡みつく糸から思考を解放する。
滲んだ血を女の冷たく細い指がなぞる。指はそのまま、顎の線をねっとりと撫で上げる。

―――― どうやら

朱唇が開く。

―――― 雲となり雨となるを望むがおんしが運命(さだめ)のようじゃなあ。

「……ッ!?」

そう云って女が笑った次の瞬間――――

馥郁たる匂いが鼻腔を擽る。何かが唇を塞ぐのを感じる。それは、三成の薄いそれとは違い、ひどく柔らかくふっくらとした感触を残す。
その感触が離れる間際に、唇に滲んだ血を舐め取られた。
驚き見開いた左近の目に、満足げな女の顔が吐息が触れる程に近くに見える。

―――― 雲の如く、雨の如く、いずれ消え行く人の命。今摘み取るのも容易かろうが、おんしがどの様に死ぬるか見物するのも一興。

そう左近に囁く女の声が遠くに聞こえる。自分を見つめる琥珀の瞳は、己の姿が瞳に映り込むくらいに近いのに……

―――― 目覚めたならば、おんしが望む者のところに疾く駆け戻れ。はよう、戻ってやらねば………


     戻ってやらねば……?


意味ありげな女の言葉が気になるが、再び思考を鈍らせる糸が蜘蛛の糸のように纏い付き、虚ろな波が次々と左近を攫いにやって来る。今度の波は今まで以上に強い。


     戻ってやらねば、殿はッ!?


「どうなるのだッ!?」という言葉を口に上らせようとするが――――

意識が保てない。
瞼が重くなる。

女の声がますます遠のく。

―――― そやつのために、死ぬることも生くることも出来なくなるぞ。

「……と………と…の……」

遠のく意識の中、左近は小さく三成の名を呼んだ。





2006/12/19