雲となり雨となる 5
まるで宙にでも浮いている様だ。意識が定まらない。
ここは
――――
どこだ?
――――
瞼が重い。目を開けることが出来ない。目を開けることがただただ億劫だった。暗い闇での微睡みが心地よい。
再び意識が暗い安寧に沈み込みそうになった時
――――
ッ!? 眩しい
――――
瞼の裏に光が差し込む。強烈な光だ。閉じる瞼を通して視界が赤く広がる。
その眩しさに促される様に、左近は、漸く目を開けた。
「………ッ!」
目を開いた瞬間、眼球に焼く様な痛みを覚えきつく目を閉じる。眦から涙が零れた。
暫くして痛みが引くのを待ち、そっと目を開く。
暗闇に慣れた瞳には、霞んだ様な朧気な何かが映るのみ。時間を置いてゆっくりと瞬きを繰り返す。やがて、少しずつ辺りの景色が形を持ち始めた。
山の稜線から昇る朝陽が正面に見える。その上には、嵐の過ぎた澄んだ蒼穹に日に照り返り棚引く紅雲。
成る程。眩しいわけだ……
全身に浴びる朝陽が覚醒を促す。
左近は、頭を一振りすると、清々しい景観とは裏腹に重い溜息を吐く。不覚にも水に流された上、夜が明けるまで気を失っていたことが腹立たしい。
兎に角、身体が動かせるかを確認せねばならない。
身を起こし、手足を丹念に調べてみる。多少の打撲や擦過傷はあるものの、問題はなさそうだ。あれだけの激流に流されたにも関わらず、大きな怪我はないことに安堵の吐息を漏らす。
「あぁ、こいつのお陰か……」
左近は、後を見上げる。その視線の先には楓の巨木が目に入った。
あの激流の中、巧い具合にこの巨木の幹に身体が引っ掛かった様だ。この巨木の幹が優しい腕(かいな)となって、流れに揉まれることも流木に身体を打ちつけることもなかった。
左近は、鮮やかな紅い葉を仰ぎ見て目を細める。
周囲の木々は、粗方、激流に押し倒され地に倒れ伏している。が、目の前の楓の巨木は、激しい嵐であったにも関わらず紅葉した葉を風にそよがせたまま微塵も揺らいだ様子がない。
「……立派なもんだ。さてと……ここはどこかな」
周囲を見回す。泥水や流木が辺りを覆っている。その他にも、家屋の柱や家財道具らしきものも見当たるが、人影はない。
どうやら、ここにいるのは左近 一人のようだ。
左近は、遠く山の稜線に目を転じる。特徴的な山々の線から大体の位置を推し量ると、眉を寄せ小さく舌打ちをする。
「あぁ、随分と流されち待ったな」
普通に歩いても城まで半日程度かかる距離だ。まして、この惨状。道は泥と残骸でけわしくなっているだろう。
憮然とした表情でどうしようかと思案をするが、人っ子一人いないのでは助け手など呼べようはずもない。幸い怪我はないのだ。両の足で人のいるところまで歩く他ないだろう。
「さて……殿のところに戻らねば……」
心は急くが、どうしようもない。
左近は、少し肩を落とし「やれやれ」と再び溜息を吐く。
一歩、二歩……。数歩、歩みを進めて止まる。肩越しに悠然と天に枝葉を伸ばす恩人を振り返り、
「お前。助かったぜ。礼を云う」
そう礼を口にした時
――――
―――― 妾の誘いを断ったのじゃ。せいぜい現世(現世)で望む様に生くるがよい。喩え、それが苦行の道でも、おまえには楽しかろう。
「ッ!!」
鼓膜を震わすことなく響いた女の声。
驚いて辺りを見回すが、やはり人影はない。
「気の所為……か?」
眉を顰(ひそ)めて頭を振る。
幻聴……か?
濁流に飲まれた際に頭でも打ったのかと思った。だが、直接脳裏に届くあの声に
――――聞き覚えがあった。
しかし、記憶の糸を辿るが、声の主が誰なのか覚えがない。
今まで褥を共にした数々の女や妓たちを思い浮かべる。
――――が、あの声はどうにも人とは違う異質な感じが拭えない。
狐にでも化かされたか?
とも考えたが、妖(あやかし)に関わった記憶なぞついぞない
――――。
第一、激流に流され気を失っていたのだ。
その間の記憶なんぞ…………
首を傾げる左近の目の前を、真っ赤な紅葉が一片(ひとひら)
――――
―――― 人の子にしては、よい氣じゃ。気に入った。
そうだ。鼓膜を震わすことなく直接頭に響くあの声。
あの声はそう云っていた。
そして、朧気な記憶が明確な形を取り始めた
――――
2006/12/16