雲となり雨となる 4


ビュウッと風が唸り、大きな雨粒が激しく地面に叩きつけられる。
泥濘と化した道に駿馬を駆り、犬上川へと急ぐ。ロクな雨具を着けぬ身を夜の嵐は容赦ない冷雨で迎える。跳ねる泥と雨が羽織る陣羽織に染み込む。たちまちの内に染み込んだ泥と雨は、身体に纏い付き三成の体温を奪っていく。

手綱を握る手が震えた。
それが凍える氷雨のためなのか、胸の内をジワジワと締め付ける得体の知れない黒い感情のためなのか、もう既に考えることも出来なかった。





「ッ!!」

犬上川―――― 決壊をした堤防の元に着いた時、その風景に三成は息を飲んだ。


高台から望む景色は闇に沈んでいた。ただ、渦巻き暴れ狂う川の音だけが闇の中をゴウゴウと轟き渡る。

川の音―――――
嵐の音―――――

このふたつのゴウゴウという轟音が鬩ぎ合い、まるで音の渦に飲み込まれそうになる。上から下から右から左から。四方を取り巻く轟音が、今にも実体を伴って自分を押し潰そうとしているのではないかという錯覚に陥る。
時折、光る稲光が照らす水面は、竜の鱗にも似た白い泡が踊り弾ける。暴れる竜は、鋭い爪で蹴破った堤防からその身を大地へとうねり出さんと荒れ狂い続けていた。

その闇の中を、数本の松明が動いているのが見て取れる。
その僅かな明かりを頼りに目を凝らすが、松明を保つ人の朧気な形すら闇は飲み込んでしまう。

扇を持つ手が震えた。


     左近ッ!!―――――





「……被害の状況は?」
「決壊した堤防から大水が流れ込みましたので……その…その場にいた者は恐らく全員……」


     流されたということか……


一瞬、視界がグラリと揺れた。だが、三成は知らずにきつく唇を噛み締め、その場に踏み止まる。

「大水が被った一帯は完全に水に埋まっておりますし……破れた箇所から水が次々と押し寄せておるのもですから……あそこに近づくことさえ、今はもう………」
「破れた堤防を修復することは出来ぬか……」
「はい……」
「…………」

射るような視線で決壊した堤防を睨み付けるが、そんな三成の視線を嘲笑うかの如く、破れた箇所から黒く濁った水が諾々と流れ込む。
以前、この高台から左近と共に眼下を眺めた時、秋の陽光に照らされ黄金色に輝いていた稲穂は、すべて濁水の下に沈んでいく。そして、その浸食は止むことなく、濁った領土を広げつつあった。
多くの命と共に左近を飲み込んで―――――

このまま抗えず、手を拱いて見ている他はないのか―――――


     左近 ―――――


三成は何かを考えるように瞼を閉じる。
やがて―――― 伏せていた目を静かに開ける。
すっと腕を上げ、扇がある一点を指し示す。

「この高台とあの小山の畝との間に土塁を築け。他の水田への被害を押さえよ」

短い三成の命に、側近くの者の内の一人が言い難そうに口を開く。

「……殿」
「なんだ」
「恐れながら……行方不明者の捜索は、その……どのように…」
「これ以上被害を拡大させぬためにも、土塁を優先させる」
「……そ、それでは」
「流された者の捜索に割ける人数はおらぬ。ならば、全員で土塁を築く。俺の計算が正しければ、夜明け前に塁は完成する」

いつもの冷静な声。表情も取り立てて変わらない。

「どのみち、この暗さだ。少人数で闇雲に探し回っても無駄だ。それより、夜が明けてからの方が良いだろう」

見る者によっては冷徹な物言いと映るほど、落ち着いた表情。だが―――――


「し…しかし、それでは……」
「…………………言うな」
「殿……」

家臣たちは、扇を握る手が微かに震えているのを知っている。口に出さずともその震える白い手が主の胸中を物語る。
ならば、自分たちにできることはただ一つ ―――――

家臣たちは、三成の命を実行すべく、そっとその場を立ち去って行った。





高台には三成 一人。
遮るもののないここでは、冷たい雨が強かに三成を打ちつける。
時折、突風がその痩身を押し倒そうと吹き抜けるが、地を踏み締め揺るぐことなく凛と立ち続ける。


   やはり、石田治部少輔は冷たいヤツよ
   その身に通うのは血ではなく氷ではないのか


いつぞや、大阪城中ですれ違いざまに囁かれた皮肉。誰に云われたのかすら覚えていないのに――――― 今更ながらにその言葉の棘が胸を刺す。その棘が、先程から胸中に救う黒い感情を刺激する。
それは、目の前で暴れ回る黒い激流にも似て、心の裡を食い破らんばかりに三成を苛む。唇が切れる程に、手が白く血が通わなくなるくらいに強く扇を握りしめる程に、それを理性で抑えつけなければ、今にも身体が崩れ落ちてしまう。

その黒い感情が囁く―――――



   ――― なぜ、左近を探さぬ?
   今は無理だ。城主としての務めがあるではないか。
   ――― 務めが何だッ! おまえにとって島左近はその程度なのか?
   だが、塁を築き、田畑を守り、民人を守らねばならぬ。
   ――― そんな赤の他人なぞ、どうでもいいではないかッ!?
   黙れッ! こんな闇夜でどうやって探せと? 人手は限られているのだぞッ!!
   ――― 民人? 務め? 奇麗事はいらぬッ!

囁く声が一際大きくなる。

   ――― 早く、左近を探せッ! 遠くに流れたやも……。傷を負っているやも……。早く探しに行かねば…………

絶叫 ―――――――――

   ――― 手遅れになるかもしれぬのだぞッ!!!


  ギリッ……


きつく噛み締めた唇から血が滲む。三成は、痛みで段々大きくなる黒い感情の囁き声を無理矢理消し去る。


「……左近。すまぬ」


戦慄く唇から零れ出た小さな言葉は、自分の耳にすら届くことなく風に攫われていく。





感情の名は ―――――恐怖といった





2006/12/10