雲となり雨となる 3
「芹川、宇曽川の水位は?」
「夕刻より勢いを増しているとのことです」
「いざという時のため、現場指揮が出来る者が必要か……渡辺新之丞、杉江勘兵衛。両名は、芹川と宇曽川に赴き増水の警戒に当たれ」
『はッ!』
「それと、低地の住民すべてに避難するように触れを出せ」
城の広間では、領内の地図が広げられ、命令と報告が広間を行き交う。
地図の上には堤が敗れた場所、これから破れるかもしれぬ場所が朱墨で書き記されていく。三成は、次々と的確な指示を飛ばす。そして、家臣たちは命じられた内容を素早くこなしていく。
時間は矢の如くに過ぎ去って行く。
そろそろ、時刻は深更に差し掛かろうかとしていた。
「芹川の渡辺様より、堤防は保ちそうとのことです」
「宇曽川の杉江様からも決壊の心配はなさそうとの連絡が……」
「一昨年と昨年の大がかりな治水が役に立ちましたな」
「そうだな……。しかし、決壊した犬上川の堤防は、確か……」
「殿が入城される随分以前に少々土塁を増築した程度のようです。昨年、小規模な決壊を致しましたが……」
「……そうだ。修復はしたが、治水工事は行ってはおらぬ。チッ、俺としたことが…」
「致し方ございませぬ。一気にすべての工事は行えません」
「わかっておるが……」
三成は苛立たしげに采配代わりの扇をパチンと閉じる。
灯明に照らし出される白面の眉間に刻まれた皺が深い。
「左近から報せは?」
すでに左近からの一報は届いていた。
犬上川の決壊の規模は大きいものの、以前から準備をしてあった土嚢などの対策が功を奏しているという話だった。
女子供の避難も左近の指揮の下、速やかに行われ人的な被害は少ないとのことだ。もともと低地で度々氾濫を繰り返していた地域なだけに集落は高地に集まっており、避難も比較的容易だった。
「いえ、続報はまだ。使いをやって様子を見て参りますか?」
「頼む」
恐らく今は、水害から収穫間際の稲穂を守るために破れた堤防の修復に当たっているのだろう。
土木工事の指示は、兵の調練にも似ている。
左近ならば、問題はあるまい。
きっともう少しで、城に戻ってくる。
雨にずぶ濡れた姿で、「大変でしたよ」と笑うに違いない。ならば、「水も滴る良い男っぷりだな」とでもからかってやろう。
そんな甘い幻想が胸に広がる。
い、いかん。何を考えているのだ、俺は
―――――
「こんな時に考えることではない」と、三成は慌てて頭を振り甘い幻想を掻き消す。余韻が消え去るまでの間、必死に綻びそうな唇を噛み締めた。
新之丞と勘兵衛からの報告では、芹川・宇曽川共に増水を乗り越えられそうであった。
犬上川も左近が直接指揮を執っている。
家中に若干の余裕が生まれた。それ程までに、家中での左近の信頼は高かった。何よりも、敬愛する主が、己の半身とも云い切る程の絶対的な信頼を寄せているのだ。左近もその期待に添うだけの働きをしつつ、それを嵩にきることもなく家中の人間に平等に接している。自然と「左近殿ならば大丈夫」という安心感がある。
ホッと息を吐く主に小姓が「お茶でもお持ちしましょうか」と問えば、主も「うむ」と短く返答をする。
場の雰囲気が和みつつあった。だが
―――――
「た、大変ですッ!」
全身を水と泥で汚した兵卒が、広間に駆け込んでくる。城主を前に辛うじて礼をとるが、肩で荒く息を吐く様は、尋常ではなかった。
「……い、犬上川で突如、大水が……」
「大水がどうしたとッ!?」
「お、大水が発生し、指揮を執っておられた島様が……」
報告を最後まで聞く間もない。三成は床机を蹴倒して席を立っていた。
「と、殿ッ!?」
「お待ち下さい。まだ、危のうござるっ!」
「犬上川の水は引いておりませぬ。その上、いまだ雨は止みません。また、大水が発生しないとも限りませぬぞッ!!」
「危険は承知だ」
「殿ッ!!」
「左近がおらぬなら、現場は混乱していよう。場を納め指揮を執らねばならぬ」
「な、ならば、他の者にお命じ下され」
「決壊の規模は大きいと聞く。他の者では無理だ」
「ですが……」
「芹川も宇曽川も決壊の心配はないとの報告が届いている。犬上川に行く」
「しかし……」
「くどいッ!」
三成は、止めようとする家臣たちを一喝すると足早に渡り廊下を歩む。
一度決めたことを容易に翻す主ではないことは、皆重々承知している。三成に翻意を促すことができる数少ない人物、最も近しい人は、今は行き方知れず。
結局、誰も三成を止めることができなかった。
2006/12/05