雲となり雨となる 13
名を呼ばれた気がして振り返る。
「気のせいか……」
当たり前だった。ここは伊吹山の山中。秋深い山を彷徨って幾日か。
――――今はただひとり。
途中で供をしていた者たちとも別れた。
偽善といわれるであろうが、もうこれ以上、自分の巻き添えで誰かを死なせたくはなかった。
今更だな
――――
本当に今更な話だ。
ひとり、ふたりの命を救ったところで、自分が引き起こした戦によって何百何千何万の人間が死んだことに変わりはない。挙げ句に、負け戦の末、戦場に引っ張り出した家臣や兵たちを死ぬしかない悲惨な場に置いて自分は逃げている。そこに最も愛しい者まで置いて
――――
不意にガクリと冷たい地面に膝をつく。手に持っていた杖代わりの棒切れがコロコロと獣道を転がって行くのを目の端で捉えるが、それがジワリと歪む。
「ぅぅ……」
呼吸が苦しい。
視界が霞む。
頭がクラクラとする。
気分が悪い。
「ッ……ぅく…」
喉が焼ける様に痛んだと思ったら饐えた臭気が辺りに漂う。自分が嘔吐をしたのだと気がついたのは、生理的な涙が頬を伝った時だった。
食べ物どころか水さえロクに口にしてない。なのに、戦場に残して来た者たちを思う度に、こうして何度も吐き続ける。
体力を消耗するだけの無駄な行為を繰り返す己の不甲斐なさに苛立ちが募る。
胃の賦を空っぽにしたからと云って、この険しい逃避行が楽になる訳ではない。まして、自分のために死んで行った者たちが生き返る訳でもない。
彼らも、女々しく慚愧に駆られ嘔吐をする己の姿をさぞかし情けなく思うことだろう。
だから、こんなところで膝をつくな。一歩でも前へ進めッ!
そう自分を叱りつけるが、身体は正直だ。
何日も飲まず食わずで険しい山道を歩き続けられる程に三成は頑強ではない。気力で体力を支えられる限界は当に超えていた。
三成は、辛うじて身を傍らの木の幹に預け息を吐く。
吐いた胃液のために痛む喉を水で潤いしたいが、生憎と水どころかそれを入れる竹筒すらない。
今は何も持っていない。
城も
――――
兵も
――――
自分の半身でさえ
――――
失ってしまった。
あぁ、否。これがあった。
手元に残るたったひとつのもの。
三成は懐に仕舞った短刀にそっと手を触れる。秀吉から拝領し、今、身につける唯一の形見「切刃貞宗」。名刀と名高い刃は、萎えた腕でも細くなった喉を掻き切ることくらい出来るだろう。
これを使えば楽にはなれる。
甘く昏い誘惑。それは、疲れ果てた精神を優しく犯す。
もう十分にやったではないか。泉下の秀吉様も左近も俺を責めはすまい。
それどころかきっと
――――
秀吉様は良くやったと褒めて下さる。左近も仕方ない人ですねと笑って抱き締めてくれる。
都合ばかりいい自分勝手な幻想。だが、非道く魅力的だ。秀吉の笑顔。左近の温かい手。薄っぺらい迷妄だとわかっていても、辛い現実に麻痺した心の何処かが満たされる。
震える手が、懐の刀身を握り込んだ。
「三成ッ! また、そのように眉間に皺を寄せて考え事か? そんな風に考え込むとロクなことを思いつかぬ」
「そうですよ。そんな顔で考えていては、よい考えもどこかへ飛んで行ってしまいます!」
「こういう時はな、三成。偶には声に出して、思いついたことを云ってみろ。存外、すっきりするものだぞ」
脳裏にそう自分に語り掛けた友たちのよく通る声が蘇る。今頃、関ヶ原の敗戦を知ってどんなにか自分の身を案じていることだろう。
まだ死ねない。死ぬわけにはいかない
――――
まだ、戦っている友を残して自分勝手に死ぬ訳にはいかない。今の自分の命は自分のものではない。死んで行った者たち。今、戦っている者たち。自分の命は彼らのものだ。
「阿呆か、俺は…………」
口が苦笑の形を作る。
漸く出たのは、掠れ非道くひび割れた声だったが、不意の誘惑を断ち切るには十分だった。
一瞬でも、死への誘いへと傾きかけた自分が情けなかった。
三成は小さく溜息を吐くと幹を支えに立ち上がろうとする。ところが、震える膝は三成の身体を支えるには至らない。もう随分と身体も軽くなっているというのに
――――。
「……立ち上がることも…できぬか……」
三成はズルズルと木の幹に凭れかかる。今はもう身を立て直すことも億劫だ。自ら死を選ぶことを拒んだが、動くこともままならぬず野垂れ死ねば、自死するのと同じ。
「友のためにも……俺は、進まねばならぬのに……」
嗄れた声を振り絞り友人の忠告通りに声を出してみるが、どうすれば弱った足で前へ進めばよいかわからない。
兼続の嘘つきめッ! なんの策も思い浮かばぬではないか……
そう胸中で八つ当たり気味に毒づいてみる。この場に兼続がいたら、「それは、済まぬ」と済ました顔で肩を竦めただろう。
思えば、今まで自分はことある毎に左近や兼続、幸村らに八つ当たりばかりしていた気がする。彼らは、「それで三成の気が済むなら」といつも笑って甘えさせてくれた。
それが、今とても懐かしい。
ふと、木々の間から除く空に目をやる。
陽は既に沈みかかり、濃紺色の空には白い月だけがポカリと浮かんでいる。
空には月だけ。従う星の輝きはなく只欠けた月だけひとり。
南蛮の宣教師に聞いたことがあるな。月が輝くのは沈んだ太陽の光を受けるからだと
――――
ならば、あの欠けた月は自分だ。たったひとりで昏い空を彷徨っている。
けれども、今の自分には輝きをくれるはずの太陽はもういない。共に紺碧の空を行く星々もない。
「左近……」
思わず口にした名に心臓がキュッと鷲掴みにされた様な痛みが走る。
別れてから一度も口にしなかった名。
昼夜を問わずに歩き続けた。身体を酷使することで思考を停止させていた。歩みを止めれば心が動く。だから、無理にでも歩き続けていたのに
――――
足はもう動かない。思いが溢れるのを止められない。
「左近……兼続…幸村…………吉継…行長……」
決壊した堤防を防ぐ術はない。流れ出した濁流が三成の心を浸食して行く。
「おねね様…………秀吉…様……」
会いたい人。もう会えない人。自分を愛し慈しんでくれた名が人々の渇いた口から溢れる。
「左近…さ…さこん……」
最も愛した男の名を呪文の様に繰り返し唱える。その声に嗚咽が混じる。
身体は渇き切っているはずなのに、どこから出てくるのか涙が溢れて止まらない。
「俺はどうすればいい? どこへ行けばいい? どこへ逃げればいいのだッ!?」
三成は、白い月に向かってありったけの声で叫ぶ。
「教えてくれ、左近ッ!!」
答えなどない。判り切って吐いてもどうしても叫ばずにはいられなかった。
だが、孤狼の如く月に向かって吼えてみても、虚空に放たれた声は、月に届くどころか嗚咽と渇きのせいでヒュウと掠れ果てどこにも届かない。
素知らぬ顔で煌々と輝く眞白の月は冷たく、無言の闇はただただ静寂を三成に返す。
ただ無言。
ただ無音。
虫の声さえ聞こえない。
風の音さえ聞こえない。
他に生きる気配のない闇の中、ただひとり
――――
本当は、自分は既にこの山中のどこかで野垂れ死んでいて、それに気づかずに愚かにも抜けることの出来ない永遠の迷路を彷徨っているのではないかという気になってくる。もしそうだとしたら、それはきっと罰なのだろう。
――――――――否、そうではない。
「罰? 何に対してのだ? 戦に負けたことへのか? それとも、狸と対峙したことへのか? 馬鹿馬鹿しい……。正義が家康にあり天がヤツを選んだとでも? あやつは裏切りがあったから偶々勝っただけだ。兼続や幸村の云う通りだな。黙っているとロクなことをしか思いつかん」
自嘲気味に口元を歪めてフンッと鼻を鳴らす。
云い放った強気な独白を聞く者があれば、「やはり、横柄者よ。まだ、懲りぬか」と笑うか呆れるか、はたまた怒り出すか。いずれにせよ、自分の命がこうしてここにある限り、天運が尽きた訳ではない。やるべきことがあるのだから、今の自分に出来ることをするだけだ。
三成は四肢を伸ばし、背を木の幹に預ける。強ばった身体から力を抜くと少しだけ楽になる。
「疲れて動けぬなら、今は動かぬだけだ。少し、休めばよい」
そう云って目を閉じるが、眠気はない。
ただ、疲れた身体を横たえるだけ。それでも、僅かばかりでも体力を回復できるはずだ。
「行長や秀家は上手く落ち延びたであろうか? 立花は? あぁ、でも立花の兵は精強だ。ァ千代を守って関が原を脱出するであろうな。島津はどうであろう? 関ヶ原では動かなかったが次の戦では動いてもらわねば……」
冴えた思考は、黙すると不安を駆り立てる。どうせ眠れぬのであれば、少しでも口を動かした方が、まだましだ。
三成は、月を相手に掠れた声で喋り続ける。まるで、ひとり芝居の様で滑稽だ。無意味で空しい行為。それでも心は安らぎを覚える。死への誘惑を振り払い、生きる縁(よすが)となる。
「それにしても、人の心とは面白いものだな、左近……。泣いたら少しすっきりしたぞ。それに今の俺はお喋りだ。泣いたり阿保みたいにお喋りしたり、こんな俺を見たら清正や正則のヤツ、目を剥いて吃驚するぞ、きっと……」
フフっと小さく笑う。
あぁ、自分はまだ笑えるのだな。
そう思ってまた安心する。
「そういえば、兼続たちには八つ当たりで怒った顔ばかり見せていたが……お前には、泣いたり拗ねたり……。随分と甘えておったな。我が儘で扱い難い主であっただろう?」
飄々として見えても、あれはあれで、自信家で神経質な男であった。自分と同じく自尊心が高くて傲慢な部分があることも知っていた。きっと、知らないところで三成の我が儘や甘えに腹を立てて、愛想を尽かしたこともあったはずだ。
それでも、いつも辛抱強く、諭し導き守ってくれた。
「左近、すまぬな」
胸宇にチクリと目に見えぬ針を刺した様な小さな痛み。
最後に自分は左近にどんな顔を見せたのであろうか。薄情な自分はそんなことも覚えていない。
敗戦の衝撃と再起をしなければならないという使命感。この二つが脳髄を掻き回す横で、怜悧と呼ばれる理知的な思考が、いかな犠牲を出してでも落ち延びるという算盤を弾いていた。
いったい、自分はどんな顔で落ちると云ったのであろう。
泣いた顔だったか。
怒ったような顔だったか。
それとも、子供の様に不安で堪らないと云った顔か、出なければ、冷徹で酷薄な能吏の顔。
いずれの顔も少しでも左近の心を安んじるものではなかっただろう。
ただ、最期に見た左近の顔は、穏やかに笑っていた。
「左近……お前は、満足だったのか? 俺の側にいて、お前は幸せだったのか?」
最期に、お前に笑みひとつ向けることも出来なかった。
「死ぬな」とも「愛している」とも云えない。
そんな、俺と共にて
――――
再び、胸がつまる。
渇いたはずの涙がまた零れそうになる。
殿。今日の殿は、まったくお忙しいですな
――――
鼓膜を震わさない優しい声にハッと瞠目する。
フワリと背中に感じるのは身体に馴染んだ温もり。ここにいるはずはない。イヤ、この世にすら既にいないであろう愛しい体温。
「ッ!?」
夢か?
幻か?
それとも、自分は気でも触れたのか?
それでも、確かに耳に馴染んだ声が……
今日は、泣かれたと思ったら落ち込んだり。まったくお珍しい限りで……
聞こえる
――――
左近は、楽しゅうございましたよ。あなたと過ごした一日一日が、とても楽しかった。ですから、すまぬなどと仰るな。
夜気に溶けることなく、安心させる様に優しく囁く耳に染み入る声。その吐息の熱ささえも馴染んだそのもの
――――
今はお休みなされ。大丈夫、左近は……ここにおりますから……
背から回された逞しい腕が冷え切った身体を包み込む。冷えた心中からジワジワと広がる暖かさ。
弱い心が生んだ只の幻なのかも知れない。
だが、目に見えずとも感じるその声も温もりも自分が知る左近そのものだった。
目を開いた時、視界に映ったのは澄んだ秋山の空気に晴れ渡った青空。陽は高く照り、慈悲深い陽光を山々に降り注いでいる。
無用心にもあの後、そのまま眠ってしまった様だ。
心地いい午睡の中、霞がかかった思考は思う。
夢も見ずに眠ったのはいつ以来であろう?
佐和山。
大垣。
関が原。
決戦が近づくにつれ、夜毎の眠りは浅くなり不吉な夢ばかり見ていた。
左近が優しく触れる時だけ、疲れた身体は泥の様に眠ることが出来た。
だが、その温もりはもう
――――
いや
――――
三成はふと、肩に触れる。
そこに昨晩の温もりが残っているような気がした。
夢であろうと幻であろうと、あの仄かな温もりは確かに左近のものだった。それが、寂しさを紛らわせるために心が造り上げた一時の夢であったとしても構わない。
自分の心が織り上げた幻であるならば、それは左近が自分の心の裡に残した彼の魂の一部だ。
だから、あれは左近だ。気が触れたと云われても構わない。あれは左近だ。
なぜかそう確信する。
見上げる空がほんの少し滲んだ。
「……阿保か、俺は。あれだけ泣いたというのに……」
滲んだ視界に、ハラリと枝から離れた紅葉が風に散るのが見えた。
一晩休んだせいか、澱の様な四肢の疲れは随分と和らいでいた。この分なら、動けそうだ。
三成は、半覚醒の思考を奮い起こして一晩の寝床となった木の幹から身を起こす。
――――と
「え?」
周囲は一面の紅だった
――――
それは、まるで赤い褥。
肩を腕を足を何重にも散り重なった紅葉が覆っていた。地に舞い落ちた赤い臥所は、夜の冷気から三成を守り、久方振りの眠りを与えてくれたのだ。
「紅葉……か」
三成は、周囲を見回す。
一帯は華やかな枝振りの紅葉の木々。互いに競い合い様にハラハラと色鮮やかな一葉一葉を風にそよがせ散らしていた。
昨晩は気がつかなかったが……
漸うと立ち上がり、少し歩き出す。
これは見事な……
一時、自分が流浪の逃亡者であることを忘れて、目に鮮やかな光景に見とれる。
紅い天蓋の先に早秋の空が垣間見える。細い獣道を辿り天蓋の先へと進むと、見晴らしのよい山間の高台であった。
高所から眼下を望んだ時
――――
一面に広がる赤と紅の波。絶妙に織り交ぜられ、色を重ねるとりどりの赤。すべてが赤く染め上げられているはずなのに、何十という色彩が山々を埋め尽くしている。
雲となり雨となりてやたつた姫 秋の紅葉の色を染むらん
口の端に乗せるは古い歌。その詞に、自分を抱き締めて囁いた左近の言葉を思い出す。
「竜田姫は
――――左近の運命は、『雲となり雨となるを望む』と申しておりました」
雲のように
――――
雨のように
――――
時に流れ消えて行く。
自分と共にいれば、いつかそうなると知っていた。知っていて共にいてくれた。自分のために左近は雲となり雨となった。
だが、ただ儚くなったのではない。
雲となり雨となりてやたつた姫 秋の紅葉の色を染むらん
竜田姫が雲となり雨となって秋の紅葉の色を染める様に、左近はこの身に、この心に、この魂に、その魂を、思いを、心を刻んでくれた。
自分もいつかは、雲となり雨となるのであろう。それが、間近に迫っているのか遠い先のことなのかはわからない。されど、どんな末路となろうと自分が命を賭けた思いは、心は、魂は、友の、自分を見守ってくれた人の、そして名も知れぬ誰かの心に刻まれて行く。
雲となり雨となる
――――
「左近……。俺も…雲となり雨となるを望むぞ。俺は、最後まで諦めぬ。俺の心が、思いが、きっと誰かの心となり思いとなる。そう、お前が教えてくれたのだから……」
左近は自分のためだけに雲となり雨となってくれた。自分は、左近のために雲となり雨となることは叶わない。けれど、あるべき世を築き上げ、人の世の理想のために雲となり雨となることはできる。
それが、彼が愛し守り通してくれた自分の姿であるのだから
――――
三成はそっと己の肩を撫でる。まるで、そこに彼がいるかのように……
「さぁ、左近。行くか……」
遠くに紅葉の合間の小さな沢が見える。
風に乗って細々としたせせらぎが聞こえる。
まずは、水分を出し過ぎて渇き切った身体を潤そう。
雲となり雨となる
――――
諦めずに
――――
歩みを止めずに
――――
俺は一人ではないのだから…………
2007/1/25