雲となり雨となる 最終話


「寒くもなく暑くもない。矢張り、何とも不可思議なところだな」

左近は、そう呟き手近な岩にドカリと腰を下ろす。
いつもの定位置。変わらぬ風景。薄墨で描いた様な無色な景色。
空には陽も雲もなく、以前、南蛮寺で見た玻璃の窓越しの様な淡い光が天を覆っている。風もそよがぬ大地には無謬の荒野が広がるばかり。
自分が今いるのは、無数の岩が転がる灰色の河原。
川の流れは青黒く無味乾燥の世界に相応しく、涼しげなせせらぎを奏でることなくどこかに流れ去って行く。



気がつけば、この景色の中に佇んでいた。
しかし、ひとりきり―――― というわけではない。

時折、顔も知らない人影が左近の目の前を通り過ぎる。
みな、一様に白い装束を纏っていた。
老いも若きも――――
男も女も――――
各云う、左近も血と泥に汚れた陣羽織ではなく同じような白装束を纏っている。「はて、自分の装束はどうしたものか?」と思うこともなかった。恐らく、「ここでは」この白装束が当たり前なのだろうと、素直に納得した。ここはそう云う世界なのだからと――――

この世界では陽は昇らなければ沈みもしない。その上、眠くもならないし腹も減らないものだから、日数の感覚などは失せてしまう。
延々と薄ら明るい光の中、幾人もの白装束が目の前を通り過ぎて行った
ある者は川を渡り対岸へと向かい、ある者は河岸をウロウロしながら川上へ、もしくは川下へと自ずと思う方へと歩いて行く。
また、左近に声をかけ、「ここはどこか?」と訪ねる者もいた。そう訪ねられる度に左近は「あなたが思っている通りの場所ですよ」と答えてやった。中には、共の道行きを申し込む者もあったが、左近はそれを丁寧に断り、今の場所に腰を落ち着けている。


ここには、寺の僧都の説教に聞いた駄賃を要求する渡し守もいなければ、強欲に着物を剥ぎ取る婆さんもいない。幼気な子供らを虐める怖い鬼もいなければ、迷える亡者を救う優しい救世主もいない。
ただ皆、静かにどこからかやって来ては、静かにどこかへと去って行く。
いずこがここの入り口で、いずこがここの出口であるのかもわからない。


だから、左近は宛もなく彷徨うよりもこの場所に腰を落ち着けることにした。その心持ちは、釣り人のそれにも似ている。
ただ、待つ―――― 左近が、この場所に留まる理由はそれだけであった。いずれ彼の人もここに来る。場所もわからぬ不可思議なこの世界で、再び見える保証もないが、左近には会えるという確信があった。

ふと、左近は袂を探る。手にしたそれを大事そうに袂から取り出す。









最初に左近がこの世界で意識を覚ました時、右も左も見知らぬ場所にひとりで突っ立っていた。
ただ広い荒野。
遠くに鈍い光に照り帰る河面が見えた。
だが、誰もいない。

次に気がついたのは、己の鼻腔を刺激する感覚。
およそ、肉体的なすべての感覚を削ぎ落とした様な乾燥したこの場所に似つかわしくない涼やかな香り。それは、早朝の近江の湖を思わせた。
香りの元を辿ると、己の袂だった。訝しく思いながらも袂を探る。
探り当てたのは、柄の錦の紅葉柄の小さな袋。その香る小さな袋に左近は既視感を覚える。

「これは…香袋……?」

左近は露骨に眉を顰めた。過去、これと同じ紅葉柄の香り袋のお陰であった出来事が鮮やかに脳裏に思い浮かんだのだった。
如何なる神力かは知らぬが、これを袂に忍ばせた張本人の口元を衣で隠してクスクス笑う様が目に浮かぶ。袖から覗く悪戯っぽく細められた確信犯的な琥珀の瞳に溜息が出た。

「いったい、何のつもりで?」と疑問を吹っかけてみたいが、当人はおらぬし、呼び出す方法も知らない。かといって、これを無闇にその辺に放り投げて捨ててしまうのは……矢張り、怖い。かつて、鬼左近と呼ばれた身としては、些か情けなくはあるが、怒気に身を任せた我が主と気の強い女の方が、戦場の厳つい武者より、左近にとっては恐ろしいものはない。いや、「怖い・恐ろしい」と云うよりは「扱いが難しい」と云った方がいいのかもしれない。

兎も角、袂に忍ばせられた香り袋を捨てる訳にもいかずに、それを再び袂に仕舞い込み、左近は灰色の地を歩んだ。目的地などないし、そもそもここが思った通りの世界なら、極楽にしても地獄にしても今は向かうつもりはない。
仕方なく、取り敢えず目に入った川の光を目指して歩く。
ゴツゴツとした剥き出しの硬い岩肌を踏みつけても尖った石に足元を取られても痛みもしない。行けども行けども変わらぬ荒涼と風景に、辟易し始めた頃、初めてこの静寂過ぎる世界で他の人を見た。



背筋をしゃんと伸ばした若者。凛とした足取りから武家の出であろうと推測する。無音のその世界で、若武者はスルスルと左近に真っ直ぐと歩み寄ってくる。

「いずこより参られた?」

先に声をかけたのは左近だった。いつも通りの飄々とした口調。なんの衒いもない人好きのする笑みに若武者も足を止めて穏やかに微笑む。

「さあ、存じません。いずれかの戦場におりまたように思いますが、彼方のことはとんと思い出せません」
「いか程、此方(こなた)におられる?」
「それも存じません。ここでは時間などありませぬ故……。ただ、随分と長く此方の岸辺におる様に思います。余り長い間、此方の岸辺におるのは、良くはないとわかってはいるのですが……」

つと、振り返り遠くを見やる。ただただ薄明るい空間の広がるその先に視線を投げかけ、何かを思い出そうとするかの如くに目を細めるが、やがて諦めたように苦笑を顔面に滲ませた。

「どうも……彼方(かなた)に思い残したことがある様で、此方に参ってもどこへ往けばよいか見当もつきません」
「それでは……」
「えぇ、ずっとずっと此方の岸辺を彷徨うております。彷徨い過ぎて、何に思いを残して来たのかすら忘れてしまいました。彼方の思い出も自分の名すらも……」
「………………」

左近は若武者の表情に胸を衝かれ言葉が出なかった。
名さえも忘れてしまったという彼に憐憫を覚えたのは確かだが、それよりも、もし主が彼と同じように彼方に思いを残すあまりに、此方の岸辺の永久の放浪者となったならば―――― そう思うと、背筋に冷たい刃を押しつけられた様な悪寒が走る。
左近と出会うことも出来ずに名さえも忘れ、転生も叶わない。
そして、やがて自分自身も同じように何もかもが朧気となり、三成と見えても他人の様に素知らぬ顔でお互い通り過ぎる。

眩暈がする――――
吐き気がする――――
胃の腑が捻じ切れるような感覚に襲われる。

すでに肉体的な感覚など無いのに、魂の軋みがその痛みを訴える。彼方に置いて来たはずの身体の感覚が呼び覚まされる。
恐ろしさで竦み上がり身体も思考も凍りつくことなど、今迄一度もなかった。まさか、血肉を失って初めてその感覚を体験することになろうとは、想像の範囲外だ。
辛うじて倒れる様なことはなかったが、言葉を失い呆然と立っていること以外は出来なかった。

だが、そんな左近の様子に気づくことなく、若武者は晴れ晴れとした笑顔を左近に向ける。

「されど、漸くどこへ往けばよいかわかりました」
「え?」
「此方の岸辺で、懐かしい故郷の香りが致しました。木曽川の朝靄に煙る水の香り。その香りが、往くべき道を教えてくれました」
「…………」
「その香りが導くままに道行き致しましたところ、あなた様とお会いしたという次第です」

若武者は何かが吹っ切れたように清々しい。
しかし、心急くのか、その瞳は既に左近を見てはいなかった。若武者は目の前の左近を通り越し遙か遠くを眺めやる。巣立ちを望む若鳥の様に羽をざわつかせて、今にも飛び出さんばかりといった風情だ。

「では、わたしはもう参ります。あなた様も余り永く此方にはおられぬように……」

ニコリと微笑み一礼して若武者は去って行く。そのまま、一度も振り向くことなく彼は灰色の景色の中に溶けて行った。



その後も何人か同じような人間に会った。
行くべき道を見失い彷徨う人々は、みな、涼やかな香りに導かれ、それぞれあるべき道へと導かれていく。






袂から取り出したその香り袋を手中に左近は只ひたすら待っていた。
時折、現れる人影に一喜一憂しながら。
待ち人が早く来ることを望まないくせに、目にした影が見知らぬ人物だと安堵とも落胆とも取れる溜息を小さく吐き出す。
そして今も丁度、目の前にひとり――――

「あの……、ここは一体どこなのでしょう?」

細い眉を困惑気味に寄せて若い娘は、岩の上に泰然と胡座をかく左近に訊ねる。年の頃は15、6歳。あと、3、4年もすれば花も恥じらう美女となったであろう。

「あぁ、こりゃまた、若い娘さんですなぁ。はぁ、勿体ない……」
「はい?」
「いやいや、こっちの話ですよ」

思わず呟いた独白を聞き咎められるが、左近は飄々と手を振って先を続ける。

「ここは多分、お嬢さんが思っている通りのところです。何も悩まずに往きたいところに往きなさい。それであっているはずだから……」
「……はぁ、そうですか。それはご親切に……」

娘は何か納得をしたような面持ちで左近にひょこっと頭を下げると、踵を返して往くべき道へと歩み出す。
――――

「あの……あなた様は?」
「あ? 俺ですか? 俺はいいんですよ。ちょっと人待ちでね。あんまり暇なんで、道案内の真似事をしているだけですから」
「そうですか……。では」

左近は軽く手を振り、娘を送り出す。娘は今迄見送った人々と同じように、灰色の風景の中に霞の様に消えて往く。



再び、誰もいない静寂の世界でひとり待ち人を待つ。だが――――



「随分と楽しそうであったな」

背後からそっと忍び寄る気配。
聞き忘れるはずもない声には、平素に怜悧・傲慢と評されていた時の冷たい響きが滲む。

「左近は親切者なので、困っている人を見ると放っておけないんですよ」

その冷たい声にクスクスっと喉の奥で笑いを噛み殺しながら左近は振り返りもせずに答える。

「なにが、親切だ。若い娘を見るときの脂の下がった顔は秀吉様そっくりだぞ。見ていてこれほど情けない思いをしたのは初めてだ」
「おやおや、久方振りの逢瀬で早速、悋気ですか? 左近はもてますねぇ」
「ッ! あ、阿呆ッ!!」

怒声が背後から降って来たかと思うと、不意に背中に暖かい温もりを感じる。背後から白い腕が回され、声の主が左近を後からギュッと抱き締める。

「……殿?」
「振り向くな……」

震える声が左近に命じた。

「今は、障りがある。だから、振り向くな……」

自分を抱き締める手に更に力が入る。
サラサラと揺れる朱色の髪が首筋を擽ると、いつも左近の鼻孔を楽しませていた微かな香りが匂う。
小さな小さな嗚咽が左近の鼓膜を震わす度に、肩の辺りが少しずつ濡れてくる。

温もりも匂いも痛みすら感じるはずのない世界で、いま、確かな存在を感じている。それは互いの魂に刻み込まれた記憶の証。
雲となり雨となって、魂に染み入った絆――――


「大丈夫……もう大丈夫ですよ。左近はここにおります」

左近は回された白く細い腕を撫でる。

「左近は殿のお側におりますから」

大丈夫――――

そう繰り返すうちに、小さく漏れる嗚咽も肩の震えも止まる。

「殿――――
「うん」
「そろそろ参りましょうか」
「どこへ?」
「決まっているでしょ。秀吉様のところへですよ」
「往けるのか?」

不安げな声。
見なくてもわかる。泣き腫らした目で、眉を下げているに決まっている。
守れなかった約束。果たせなかった責任。そのことが心に重い。

「往けますよ。たぶん、大谷殿もいらっしゃいますよ。大丈夫、怒られたりしませんって。殿は最後まで殿らしくあられたのでしょう? なら、それでいいじゃありませんか」

此方のことは此方のこと
彼方のことは彼方のこと

「さてと、じつはあの河を渡らなくちゃならないんですよ」
「うん、知っている」

彼方のことは、今を生きる者たちに託そう。
雲となり雨となって染み入った我らの思いを託して――――

「ですがね、左近としては殿のおみ足を水に濡らすことはできないんでね」

云うが早いか、左近は自分に絡んでいた三成の腕を思い切り引っ張ると、あっという間に痩身を横抱きにする。

「な、な、何をッ!?」
「暴れんで下さいよ。殿を落っことすのは本意じゃないんですから」
「…………し、仕方ない。落とすなよ」

赤く腫らした目元で不機嫌そうに睨みつけならも、白い手はしっかりと左近の袂を握り締める。



「左近。この香りは……竜田姫の?」

先程から漂う水面の清香に三成が問う。

「えぇ、姫の香袋です。どうやらあの姫神。随分と世話焼きがお好きなようで……」
「姫に気に入られたな。まさか、あの河に足を踏み入れた途端、彼方のあの時のように大水に遭うことはないだろうな」
「まさか、それはないでしょう」
「まぁ、よい。その件に関しては、道々問い質してやる」
「まったく、本当に殿は嫉妬深くあられる」

クスリとどこか嬉しそうな笑みを称えて左近は手中の三成を見つめると、「では」と川縁へと歩み出す。

「待てッ!」
「殿?」
「あちらに行く前に、お前に云うておきたいことがあるのだ」

何かを決意するように数度の深呼吸。
そして、左近と絡むし琥珀の視線は揺らぐことなくしっかと左近を捉える。

「彼方にいる時は、一度も云わなかったから……せめて、あちらに往く前に云うておきたいのだ」

白い細手が左近の篤い顎に添えられる。ツイッと三成が背を伸ばすと秀麗な顔が左近の目前に迫る。

「ありがとう、左近。そ…その、愛しておる…ぞ」

スッと閉じられる琥珀の瞳。桜色の唇が掠めるような己の唇に触れる。まるで、児戯のような幼い口付け。されど、確かに伝わるモノに左近も幸福な笑みを返す。

「殿……左近もです」
「……知っている」

顔を赤く染めて己の胸に顔を埋めてしまう愛しい人。










「では、参りましょう」
「うむ」

左近は、音もなくスルリとその歩みを河面に入れる。
やがて、対岸に渡った影は灰色の景色に中に静かに消えて往く。





誰もいなくなった岸辺。
音のない流れに乗って、紅葉が一片。ユルリと河面を流れ去っていった。





−完−

2007/02/02