雲となり雨となる 12


◇ 当SSの注意書き ◇

以下、死にネタを含みます。
苦手な方はリターン推奨です。
無問題というお嬢様方は、↓へどうぞ!




















「……あなたか」

血が流れ過ぎたせいか、過ぎ去った堪らなく懐かしい幸福な日々の幻が、ほんの束の間、意識を支配していたようだ。
気がつけば、血泥と硝煙と屍に埋もれた凄惨な場所にそぐわぬ鮮やかな錦の衣を纏った女が一人、目の前に立っていた。

半ばから刀身の折れた愛刀を頼りに身を起こす。途端、身体を支える片膝辺りに血溜まりが出来た。

「殿は…………落ち延びられたか?」

そんな己を省みることなく、掠れた声が案じたのは只一人の人。

人ならぬ身には歳月など関係ないのであろう。あの大水に流され出会ったあの時のままの姿形で秋の竜田姫は、血で汚れた左近の顔をジッと見つめていた。
荒い息を吐く耳の奥に、あの鼓膜を震わさない玲瓏な声が聞こえた。

―――― 恐らく

硬質な響きを持つその声は、短く左近が望む答えをくれた。
その答えに左近は、ホッと息を吐く。
過ぐる穏やかな日の幻の中で、主は「自分を守れ」と云っていた。自分はその言葉通りに彼を守ることが出来たようだ。


     いや、違うッ!


左近はギリッと歯を食いしばる。


     馬鹿か俺は……出来なかったからこうなったんじゃねぇかッ!! ――――


関が原の敗戦――――
裏切りを予想しながらもそれを止めることが出来なかった。
そう。裏切りがあると十分過ぎる程に予測していた。だが、実際にはどうだ。結果はこの有様ではないかッ!?



   「左近。俺は勝ちたいのだ」

そう云って肩を震わせた彼の人を思う。

「再起を図る」と云った主の行く道は、恐らく限りなく暗い。
寡兵の佐和山城では、あの大軍に抗することも出来はしないだろう。よしんば、三成が大阪城に辿り着けたとしても、大阪城の連中が三成を庇うという保証は何一つとしてない。寧ろ、身一つの主を保身のために徳川に売り渡す可能性の方が遙かに現実的だ。
頼りとなるべき上田城の真田は遠く。上杉は更に遠い――――

誰も三成を助けない。

軍師としてそんな結果を予想はしても、射るような瞳で「頼む」と云われれば、諫めるよりもその望みを叶えてしまいたくなる。


     本当に俺は殿に甘いな――――


冷徹な軍略家として側にいたはずなのに、いつの間にか、只一人の人の望みを叶えたくて仕方のない愚かな男に成り下がっていた。
自分の愚かしさが呪わしい。
主に勝利をもたらすことも出来ず、死ぬよりも辛いであろう道行きへと望まれるままに送り出す。きっと三成を滅ぼしたのは自分の愚かさだ。

そう自嘲気味に口元を歪めれば、肺腑から迫り上がった血の塊が呼気を奪う。激しく咳き込んで、気管を詰めた血を吐き出す。地に落ちた暖かな生命の源が冷えた地面に吸い込まれ赤黒い跡を残す。
一層と目の前が暗くなる。もう血が足らない。



―――― もう、そろそろじゃな。

視界は霞んでくるのに、不思議と竜田姫の姿だけがはっきりと見える。

「姫よ……。俺の死に様を見物に参ったのか?」

口元が皮肉げに歪む。主を滅ぼした愚かな軍師。愛しさに目が曇った馬鹿な男。そんな男の死に様などを見物に来るとは随分と酔狂な―――
そう云ってやりたかったが、長々と口を回すには少々血を失い過ぎた。

―――― そうじゃ。満足な生であったか? 島左近。望み通り、主のために血に濡れ野に屍を晒すこととなったぞ。

「武士としてならば……満足な死に方だろうが…ね」

天下分け目の大合戦で主を守って華々しく散る。古今の物語の登場人物のような散り際。自分が死んだ後、徳川が支配する世であっても人々は自分の死を語り伝えて、「武士の本懐よ」と誉めそやすだろう。真実など知らない上辺だけの物語だとしても、それは人々の賞賛の的となる。

しかし ―――

「でき得るなら……殿ともっと…共に……」

心から望むはただひとつ ――――


     ただ、あの人の望みを叶えたかっただけだ
     ただ、あの人と共に生きていたかっただけだ


―――― 生きることなら出来るぞ。妾の手を取り、人としての生死を超越すればよい。おんしひとりがイヤだというならば、主も共に人の世を捨てるというのはどうじゃ? 共に生くるが望みとあらば、二人して妾の手を取ればよい。

左近の心の内を見透かすように、竜田姫が象牙色の手を差し出すが、左近は差し出された手をそっと払う。大水の時のたゆたう空間でのあの時と同じように。

「あの……頑固な人は…………そんな誘いには…乗りませんよ。……だから、俺も……」

人の世の理想のために、頑なな志を決して捨てない人。
一筋の刃の様に只ひたすらにあるべき理想を追い求めていたあの人が、人の世を捨てて永遠を望むことなど決してないことを知っている。
そう確信できるくらい自分は彼と共に長い時を生きてきた。



   「生くるべくして生き、死ぬるべくして死ぬだけさ」

あの獅子の如き金髪の傾奇者はそう云って笑っていた。将にその通りだと死を前にした今、そう思う。

「俺も……黄泉路で……殿をお待ちすることと…します…よ」

自分は死ぬ。
そして三成も遠からぬ内にその身を散らすかも知れない。願わくは、左近の憶測が外れてその日が何十年も先であっと欲しいと思うが、いつの日か、三成も自分と同じ道を来る。
ならば、自分がやるべきこと。やりたいと望むことはただひとつ。

―――― 死した後も、共にありたいと願うか? つくづく、強欲なおのこよ。

クスクスと喉の奥で竜田姫が笑う。
その間にも、受けた鉄砲傷や刀傷からは血が流れ出ていく。最初に出来た血溜まりは、その範囲を広げ血臭を濃くする。





遠くに法螺貝の音と鎧の地金が擦れ合う音が聞こえた。

「徳川の残党狩り…か……」

見渡す限り屍の野。そこに僅かな生命の気配も許さぬとばかりに大軍が押し寄せる気配がする。すでに抵抗すら出来ぬ敗者の群れに対して「随分な念の入れようだ」と軽く失笑する。あの慎重で狡賢い狸らしい。

―――― このまま死ぬるにしても、あの者らの手にかかるにしても人としてのおんしの命はあと僅かじゃ。妾の手を取らぬなら、ここで果てる外あるまいな。

竜田姫は迫る気配を遠望する。
左近は口の端を少し上げ笑声もなく笑った。



後悔はある。
未練はある。
思いを残して死ぬことに満足をしているわけではない。

それでも――――



   「生くるべくして生き、死ぬるべくして死ぬだけさ」

自分は生くるべきして生きた。今は、死ぬるべくして死ぬだけだろう。
例えここで、姫の手を取って生き長らえたとしても、あの生き難い人が求め愛してくれた自分では無くなってしまう。心の底から愛した人と共に歩んだすべてを汚す様な真似はしたくはなかった。

鬼と呼ばれ勝つために知略のすべてを払った冷徹な軍略家ならば手を取ったかも知れない。だが、この場にいるのは、只のひとりのためにすべてを捧げると誓った男。


     殿。俺を鬼でなくしたのは…………あなたですよ。


だから、胸の裡を焦がすあなたへの思いと後悔と未練と共に果てることとしよう。

雲となり雨となる。

その言葉通りに儚く消えて行く。ずっと以前から、いつかそうなるとわかっていた。そう決めていた。
ただ、今その時が来ただけだ。

流されるままに生きた訳じゃない。

共に悩み
共に選び
共に歩み生きて来た

共に果てることは叶わないけれどもあの人が生き続ける限り思いは残る。



目が霞む。
息が苦しい。
一息吐く毎に指先から冷たさが押し寄せる。
それでも霞む瞳はしっかりと竜田姫の姿を捉え、血の気の失せた唇は笑む。

「そう…だな……」

漸く出た声は掠れていた。だけれども、滲む声色は不思議と穏やかだ。



―――― 引き際を心得たか、島左近。

静かに微笑む白い顔は、綻ぶ白百合。

―――― 見事じゃ。

冴えた月の美貌に俄に温もりが宿った。
短く。けれど、そこに込められた万感の賞賛に左近は刻一刻と重くなる瞼を見開く。

「こんな……俺を…見事と云って下さる…か」

顔を上げた左近の左頬の傷を柔らかく暖かな白い手がそっと撫でる。伝わる温もりは冷えた身体の寒さと痛みを和らげてくれた。

―――― おんしは、その心の裡に宿りし思いのままに生きたのであろう。人が愛と呼ぶものであろうと忠義と呼ぶものであろうと、そのために身命を賭し思いの内に生きた。幾数多の人がいても、その命を賭けるものに巡り会える者は稀。更にそのために死ねる者なぞほんの一握り。思いを遂げたおんしを見事と云わずして何という。

そう朱唇は笑む。
慈母のそれに似た優しい眼差しと惜しみない称賛。

―――― 妾は、おんしらを羨ましく思うぞ。魂を分かち合った者だけが得られる強き絆。永久の生を持つ者には、望んでも得られぬものじゃ。


   「生くるべくして生き、死ぬるべくして死ぬだけさ」

だからこそ得らるものがある。
それを得て逝ける自分は、なんと幸福なことか――――





遠くに聞こえていたざわついた気配が近づいてくる。
けれど、その前に自分の灯火の方が早く潰えそうだ。少なくとも、徳川の雑兵の手にかかることはないだろう。
死んだ後で自分の首がどうなるかは知らぬが、死者にはどうにもできはしまい。



―――― なんぞ、望みはあるか? 島左近。

そんな考えを見透かしたのか、竜田姫が鼓膜を震わさぬ声なき声で問うてくる。


     わざわざ聞かなくても俺の心情など察しておられるだろうに…………


そこは嫉妬深い女の嗜みなのであろうかと眉を下げて「参りました」と顔を繕えば、竜田姫は楽しそうに喉を鳴らす。

「……なら、俺も含めて……ここに眠る者…たちの屍を隠して…………欲し……い」

眼差しは累々と大地に横たわる物言わぬ者たちの上を彷徨う。左近と共に三成を逃がすために、喜び勇んで命を投げ出した者たち。

「ここに……いるのは、殿に愛された者たち…………だ。徳川の狸の前に……首を並べられるのは……御免ですよ」

左近は傍らで眠る少年に目線を移す。血と泥とで汚れた幼い顔は満足げに微笑んでいた。彼も得難きものを得て泉下へと降って行ったのであろうか。

―――― 承った。

「それと…強欲ついでに…………もうひと……つ」

「諾」と答えた竜田姫に左近は、最後に悪戯っぽい笑みを返す。

「殿の道行きを見守ってくれ……。せめて…山を彷徨うあの人の…道が少しでも…楽で……あるよう…に……………」

最後の方は既に掠れ果て声にはならない。ヒュウヒュウと小さくなる息遣いだけが零れ出る。なれど、己の生き様を見、死に様を看取ってくれたのだ。みなまで聞こえずとも伝わっているだろう。


いよいよ、目の前が暗くなる。
もう竜田姫の輝くような姿も目に映らない。
代わりに目の前に鮮やかに浮かんだのは、決して忘れることの出来ない遠き日の――――


   「左近……といったな。援軍は貴様の差し金か?」
   「だとしたらなんだい? その礼に城でもくれるのか」
   「……報いよう、いずれな」


あの時からすべては始まった。
禄以上に、城以上に―――― 十分過ぎるほど報いてもらった。

「島左近に過ぎたるものふたつあり。石田三成と二万石。よき主に巡り合えて……」


     誠、楽しき人生でありましたよ……殿…


グラリと巨躯が傾く。
その身体が冷たい地面に叩きつけられる前に細い腕が抱き留めた。
穏やかな微笑む頭を膝に乗せて、竜田姫はそっと左近を大地に横たえる。

―――― 誠に見事じゃ左近。

地に伏した巨躯の背を慈しむ様に優しい繊手が撫でる。
竜田姫の乾いた宝玉の瞳に涙はない。されど、紡ぐ言葉に染み出ているのは深い慟哭。去り行く者への哀惜の念。

―――― おんしの望みは我が望みじゃ。おんしの主が愛したその身体。何人たりとも触れさせはせぬぞ。

スッと音もなく竜田姫が立ち上がると風が姫を中心にフワリと渦巻く。
竜田姫が白い繊手を空(くう)に伸ばすとその掌の上に数枚の赤い紅葉がハラリと風に煽られ小さく揺れる。
と、風が一際強く渦を巻く。掌の紅葉が渦巻く風に煽られて空へと舞い踊った。スイッと錦の袖が横に棚引くと、舞い踊る紅葉がその後を追う。
竜田姫がクルリと優雅にその身を翻し袖が宙を舞う。その度に、後を追う紅葉の数は次第に数を増していく。
やがて、数えきれぬ程の赤い葉が赤い渦を形作った。ザアッと強く風が鳴り赤い渦が四散すると辺り一面に舞い落ちた紅葉が紅(くれない)の錦の様に地面を覆い隠す。

秋の姫神の姿は、鳴り止んだ風と共に消えていた。



徳川の兵が辿り着いた時には、戦場は一面に敷き詰められた紅葉の下に埋もれていた。「何故、斯様な場所に紅葉が?」と首を傾げつつも、その首を上げるため、落ち葉をひっくり返してみる。
されど、屍は一向に見当たらない。思い余って、固い地面をがむしゃらに突いて見るも、髪の毛一本見つけることも叶わなかった。
探索が徒労に終わり、口々に不満を述べつつ去っていく兵たちを笑うかの様に紅葉が一片舞った。





2007/01/21