夏幻 − 後編 2 −


己の五感を絶ち。身の内から聞こえる声に耳を澄ます。
厳粛な修練の場に合わせて己の心を厳に律しようとするが、握られた手の温かさにどうしても三成の心の中は甘い幸福感で一杯になる。
左近と一緒ならば、永久にこの闇の中を彷徨うこととなっても幸せに感じるのかもしれない。
そんなことを考えながら、三成は左近の手を握り替えした。その時――――――

「ひゃッ!」
「三成さん!?」
「今、足元に何か……」

突然、足元を何かが横切った。
目に見せぬ何かに驚いて三成は思わず左近の手を離してしまった。

「わッ! 左近、手!! どこだ!!?」
「え? 三成さん、どこです?」

次の瞬間、つい数秒前までその体温を感じるほど近くにいたはずの左近の気配が、ふつりと消えた。三成を呼ぶ左近の声も、あっという間に闇に掻き消される。

三成は真っ暗闇の中、ひとり放り出された。

「さこん……ど、どこだ?」

辺りをキョロキョロと見回してみても、ただそこには闇が広がっているばかり。自分以外の気配はない。
その事実に、三成は恐怖に全身が竦む。
左近の手を離したのは、ほんの一瞬だけだったはず。なのに、何故左近は側にいない。

呼吸が速くなる。
さっきとは違う意味で鼓動がドクドクと脈打つ。

左近が側にいた時に満たされていた幸福感が嘘のように霧散し、今にも一面の闇に呑まれ、自分の存在が消えて行ってしまうのではないかという錯覚に陥りそうになる。
その時、三成は左近に聞いた話を思い出した。

「人間って生き物は、こういう暗闇にひとりで長時間いると幻覚を見たり幻聴を聞いたりした挙げ句に気が狂ってしまうそうですよ」

「まさかな……」と口中で呟く。未開の洞穴を彷徨っている訳ではない。ここは、ものの数分もすれば、再び外に出られる一本道。
落ち着いて道を辿ればすぐにでも左近と落ち合うか、外へと出られるはず。
そう自分に言い聞かせて、三成は再び足を進めた。



だが――――――
視界を閉ざされているため、足取りは遅々として進まず。一向に左近の気配も闇が切れる様子もない。
とうに時間の感覚も失われた三成にとって、この地下道に足を踏み入れてからのどれくらい時間が経過したのかもわからない。
余り長く迷っているようならば、外で待っている兼続と幸村が異変に気付いて助けに来てくれるものとわかってはいるが、やはり暗闇でひとりきりという不安を拭いきることはで
きない。

「左近! おい、左近! どこにいるのだ!?」

そう怒鳴ってみても返答はない。口の中は怒鳴ったためか不安のためか、カラカラに乾いていた。
それでも、喉がひりつきそうになるのを堪えて三成は精一杯声を上げた。

「左近! 返事をしてくれ!! どこだ!? 左近!!」

怒鳴る度にその声色に不安が滲み出る。
だが、返事はない。
頂点に達した不安が三成の足を急かすが、自分が本当に前へと進んでいるのかさえ疑わしくなる。
やがて、そんな三成の目の前にチラチラと小さな光の点滅が見え始めた。

「ほた…る?」

思わずそう零すが、こんな寺の地下通路に蛍などいるはずもない。ならばこれは……

     左近が云っていた、闇の中の幻影……か? ならば、気が狂ってしまうまで後どれくらいだろう。

久方振りに目にした闇以外のもの。それが脳が作り出した幻影であってもその光を追わずにはいられなかった。
三成は、漂う光の粒子を見つめながらぼんやりとそんなことを考えていた。と――――――

「もし、気が狂ったとしても左近は俺を見捨てずにいてくれるかな」

   ――――――そんなこと、問わずとも答えなどわかっているだろうに。

ふっと吐き出した言葉に、三成はクスリと笑った。小さな笑いが零れると、心中を支配していた恐怖も和らぐ。
その時、フッと誰かの気配を感じ三成は闇を見渡した。

「そこに誰か……いるのか?」

いるとすれば左近か、兼続と幸村以外にあり得ない。なのに、三成はとっさに感じた気配に向かって「誰か?」と聞いた。
本能というのだろうか。ただ、闇の中で研ぎ澄まされた感覚が、感じる気配の違和感を告げる。
まるで、今漂う淡い幻光のように実態のない幽かな気配。
この世の者とは一線を画す朧な気配。

だが、なぜだろうか。
怖くはない。

「誰かいるなら返事をしろ」

ほんの一瞬、迷ったが三成はもう一度、その不可思議は気配に呼び掛けてみた。
どちらかといえば、理屈で説明のつかない現象に対して懐疑的な自分が進んで説明のつかないものの存在を確信していた。



『お前は、今……幸せか?』
「……え?」
『あいつらは、幸せなのか?』

三成が見据える虚空の闇。その向こうから朧気な声が応えた。
知っているようで知らない声。それに問われた内容に、三成は一瞬小首を傾げるが、その意にすぐに気付く。

「……今、とても幸せだ」

三成はかそけき影に微笑む。

「左近がいて、兼続がいて、幸村がいて……。秀吉様だっておねね様だっている。吉継も行長も。清正や正則の阿呆どもだっているのだぞ」
『……そうか。みんな、幸せなのだな』
「あぁ、とても……幸せ…だ」

そう。とても幸せだ。
愛し愛されて穏やかに過ぎる日々。みなが笑って暮らしている。かつて望んだ世に、今、皆が共に生きている。

『そう…か……』

闇の向こうから声が返る。三成の答えにわだかまっていたものが溶け出したかのような安堵の声。闇に閉ざされて目に見えぬでも、この向こうの影が微笑んでいるのだとわか
る。
何故だろうか。胸の辺りが少し熱くなる。

『なら……伝えてくれ……』

気配が遠のく。
もう、チラチラと瞬く蛍火も見えない。


俺も……とても幸せであった…と


そう、声なき声が耳朶に届いた時、辺りは再び真の闇に閉ざされた。





「三成さん!」
「さこん……」

何処をどう歩いたのか記憶にはないが、いつの間にか明かりの灯った場所へと辿り着いていた。
そこに顔色を青くした左近がいる。
闇に慣れた目に久方振りの光が少し眩しく三成は目を細める。

「どうしたんです? 目、真っ赤ですよ。って、泣いているんですか!? どこかぶつけたんですか? 痛くは?」
「いや……なんでもない」
「一本道だっていうのに、急にいなくなるから心配しましたよ。ホントに大丈夫ですか?」
「あぁ……、心配をかけてすまない」
「大丈夫なら……いいんですけどね」

いつの間に涙が溢れたのだろうか、目尻に溜まった涙が紅潮した頬を伝う。
その水滴を左近がそっと拭う。左近の大きな掌が頬を拭う毎に、ふつふつと安堵が三成の心を満たした。
ほうっと一息吐く。

「左近、ここは?」
「直江さんの説明、聞いていなかったんですか? ここが、お参りをする場所みたいですよ。丁度、お寺の戒壇の真下だそうです」

地下に設けられた一室。そこには、石で彫られた多数の仏像が揺れる何十という蝋燭の明かりに照らされていた。
すんと鼻を啜ると馥郁とした香が薫る。辺りを見回してみれば、供えられたばかりなのか、真新しい線香が数本ゆらゆらと香煙をくゆらせていた。

「明るいのだな」
「仏様のお顔を拝むのに真っ暗だったら困るじゃないですか。ひとまずお参りしていきますか」
「ああ。随分とたくさんの仏像があるが、これは?」
「兼続さんの話だと、八十八の霊場巡りだったかな。えっと、確かお遍路さんとかがそうですね。それを一度で済ますためにたくさん仏像があるみたいですよ」
「なんだか横着な話だな……」
「ま、みんな、普段は何かと忙しいですからねえ。一々八十八カ所もお寺をお参りしている暇はないですよ」

呆れたように三成が柳眉を下げると、左近もクスクスを笑いを噛み殺す。
だが、次に三成が口にした言葉に、端と笑いを顰める。

「それでも、みんな、幸せになりたいのだろうな」
「三成さん?」
「きっとどんなに頑張っても、なにをしても、どうにもならないことってたくさんあるんだ。でも、みんな幸せになりたいから、こんな風に祈らずにはいられない」

何十という蝋燭の幻想的な光に三成の琥珀の瞳が潤んだように煌めく。
泣いている訳ではない。でも、泣く一歩手前の顔。左近とはぐれて、ひとりで真っ暗な通路を抜けてきた時も彼は泣いていた。
真の闇の中で、彼は何かを見、何かを感じたのだろう。
左近は三成の肩をそっと抱き寄せる。

「……三成さんも祈りたいことがあるんですか?」
「うん」
「どんなことです?」
「……そんなに難しいことじゃない」

そう云って、三成は静かに仏に手を合わせた。



三成が祈りを終え目を開いた時、スッと左近の手が伸びその細手を握る。
驚いて面を上げると、片笑む左近と目があった。

「さ、また真っ暗な通路を通らないといけないそうですから、手、離さないで下さいね」
「う、うん。わかった」

頬がぽうっと熱を放つ。
手を繋ぐくらいもう何度も繰り返しているというのに、手の温もりを感じる度に心の裡が暖かくなる。
三成はそっと目を瞑り、この温もりが続くことをもう一度祈った。








2008/10/22



おや? 次で完結するはずが結局もう少し伸びました。
今回ネタにした「戒壇めぐり」のお寺は、四国八十八ヶ所の巡礼ができるお寺です。都内にありますよ。
「戒壇めぐり」は、お寺によっていろいろあるようですね。