夏幻 − 後編 3 −
三成と左近が暗い地下道から抜け出すと、地上では笑みを浮かべた兼続と幸村がふたりを出迎えた。暗中から抜け出たばかりのせいか、薄暗いはずの堂内でもふたりの笑顔がよく見える。
なぜだが、妙に懐かしい気分となった。
「三成。どうであった? ま、肝試しというには、少々生ぬるいであろうがな」
「ですが、あんな真っ暗闇の中を歩くなどなかなかありませんからね。驚かれたでしょう?」
「ああ、まあ、貴重な体験だったとでも云っておこう」
そう短く三成は感想を述べる。あの不可思議な体験については、胸に留めたまま。あの体験をどう説明をすればいいのか見当もつかないし、なんとなく口にするにも躊躇われた。
手短な返答ではあったが、兼続としては満足なようで「そうかそうか」と満面の笑顔で頻りに肯いている。
その時、廊下からよく透る低い声がした。
「兼続」
猫のように何の気配もさせずに堂内に現れたのは、壮年の男であった。頭を白い手巾で深めに覆い、その下から覗く鋭い眼光と真一文字に結ばれた口元が圧するような威厳を放っている。
男はジロリと不法侵入の一団を睨みすえると、ふうっと溜息を吐き出した。
「堂が騒がしいと思ったら、お前か……」
「おぉ! 住職、お邪魔しています!! 勝手にすみません。友人に『戒壇巡り』の行を体験させようと思いまして……ご迷惑でしたか?」
「ふむ。構わん。が、なにやら肝試しがどうとか云っておったな」
「ははは、きっと気の所為ですよ。あ、手土産に酒をお持ちしましたので、あとで庫裏に運んでおきます」
「ケースか?」
「無論ケースです」
「ふむ。まぁ、よかろう」
どうやらこの男がこの寺の住職であるらしい。
ハキハキとした兼続の言葉と対照的な重々しい口調が返る。その厳格な風貌に似合った低音。だが、「酒」という単語に対する反応が心持ち浮き立ったように思える。
三成の知る限り、兼続は相当な酒豪だ。とすると、この住職も相当の□□家とみて間違いはないだろう。
小声で幸村に「坊主ではないのか?」と問えば、「そのはずなんですがねえ」と幸村は微苦笑を浮かべて答えた。
ともかく、「酒」という魅力的な貢ぎ物のおかげか。はたまた、家族同然(と自称する)兼続を信頼してか、無断の進入を咎めるでもなく住職は興味深げに三成らを見やる。
――――――と
「時に客人」
住職の視線が三成に定まる。射るような眼差しをすっと細めると、満足げに幽かに口の端が上がる。
「なにやら受け取ったようであるな」
「え?」
「これも御仏の導き。忘れるでないぞ」
「あ…あの……」
「今日は魂があの世より還り来る日。これもまた、運命なるか……か」
「??」
「兼続」
「はい」
「手土産に肴がないな。なんぞ造れ。客人も泊まって行かれよ」
禅の問答のような住職の言。その意味を理解できずに言葉に詰まる三成。
だが、住職はそんな三成を気にする風もなく云いたいことを言い置くとさっさとその場を立ち去ってしまった。
その住職の後を追って兼続と幸村も今夜の酒肴のため庫裏へと連れ立っていく。
堂に残されたのは、三成と左近のふたり。広い堂内はふたりきりになった途端にガランと静まり返り、ただ虫の声だけがしずしずと夜気を震わせていた。
ほどなく、フッと三成の口許に笑みを刻むと、隣に佇む恋人の名を呼んだ。
「左近……」
「ん、なんです? 三成さん」
「幸せか? と問われた」
「それで?」
三成の不意の告白。短く謎めいた言葉に懐疑の念を挟むことなく、左近はその告白の先を促す。
「とても幸せだ、と答えた。お前がいて、兼続と幸村、秀吉様やおねね様。それに吉継に行長、清正と正則。みんながいて、とても幸せだと……」
「…………」
「そう云ったら、『俺も幸せだったと伝えて欲しい』と云われた」
「そうですか」
「こんな話。可笑しいだろう?」
チラリと琥珀の瞳が左近を見上げる。「信じないのなら信じなくともいい」と尖る唇。反対にその眼差しには、「信じてくれるだろうか」という不安が窺える。
そんな素直でない天の邪鬼な訴えに、左近は優しい表情を緩める。
「三成さんは『幸せか?』と聞かれて『そうだ』って答えたんでしょ。あなたが幸せだと感じてくれるのを知ることができて、寧ろ嬉しいくらいですよ」
「変なヤツだな。こういう場合、『誰に聞かれた』と尋ねるものだろうが」
「必要ないですよ。だってね……」
ズイッと左近が身を寄せる。悪戯っぽい微笑みを浮かべた唇が三成の耳に近づくと
――――――
『左近も幸せでしたよ。殿……』
耳に届くか届かないか。そんな小さな囁き。
三成は驚いて左近の顔を見返す。だが、見つめる黄玉の瞳に「じゃ、俺たちも行きましょうか」と、まるで何事もなかったかのような柔和な笑みが映る。
あれは聞き違いだったのか? それとも……
しかし、三成は疑念を口にできぬまま、ふたりは本堂を出て兼続たちの待つ庫裏へ向かう。
なぜか、一歩一歩進む度に、遠い昔の懐かしく暖かな、そして少し哀しく寂しい気持ちが薄れ昇華されていく。
三成は本堂を振り返る。
そこにいた幻影と会うことはもう二度とないだろう。
三成は横に並ぶ左近を見上げ、視線を前に戻す。
庫裏にたどり着いた頃には、もうあの小さな囁きの意味を問おうとは思わなくなっていた。
「兼続」
「なんだ?」
庫裏の台所。
深夜の酒肴のために、兼続は包丁を握り幸村は皿や箸などの準備を進めていく。左近はというと、門の外に止めた車に手土産の日本酒を取りに行っている。あまり料理が得意でない三成は、テキパキと包丁を振るう兼続の横で玉ネギの皮を剥いていた。
その三成の視線が一箇所に留まる。
「なにやら気になるものを目にしたのだが……」
三成の見つめる先には、予定を書くための掲示板が壁に貼られていた。
季節柄なのか、お盆に関連した様々な予定が掲示板に書き込まれている。その中に妙な一文があった。その一文に三成は首を傾げる。
「なぜ、お盆の季節には、あの地下は出入り禁止となるのだ?」
「うむ。それはお盆だからだ。ご先祖のお参りを邪魔してはならんだろう!」
爽快な笑顔で兼続はそう云った。
ご先祖様というのは、あれだよな? もう既に死んでしまっている人のことだよな??
兼続の発した言葉に三成は更に首を傾げる。
「ご先祖様……というのは?」
「ご先祖様はご先祖様だろう。なにせ、お盆だからな!」
「いやだから……」
「ははは、ここは寺だからいろんな方のご先祖がお参りに来られるのだ」
「つまり、その……幽霊がお参りに来るから地下は出入り禁止だと?」
「うん。ま、そうなるな!」
「か、兼続! 貴様は、よりによってそんな日に『肝試し』といって俺をあんな場所に案内したのかぁ!!」
「なにを云う。三成のような霊感0の人間に幽霊なんか見えないだろう。だいたい。三成は幽霊なぞ信じてはいなかったのではないか?」
「う……」
「それとも主旨替えでもしたか?」
クツクツと悪戯小僧のように笑う兼続に三成は「そんな訳あるか!」と口を尖らせる。
笑う兼続を不満そうに睨みつつも気になって仕方のない件を切り出す。
「では、今日は誰もあそこには出入りしていないのだな」
「そうだ。まあ、だいたいこの時間にお参りはしないであろう。普通」
誰も入っていないと兼続は云うが、自分と左近が地下の参拝所を訪れた時の様子とは随分と食い違う。あの時、あの場所では、何十本という蝋燭が炎を灯し、線香が薄い煙をくゆらせていたのだ。
嫌な予感が三成の柳眉を曇らせる。聞いたら確実に後悔するとわかってもいても、確かめずにはおられず、三成はおそるおそる口を開く。
「……じ…じゃ、あの蝋燭やら線香やらは? 一体、だ、誰が?」
「今日は誰も入っていないから、当然、誰も線香も蝋燭も灯しておらんな。というか、火事になるから真夜中に蝋燭なぞつけぬぞ。危ないからな」
「……………だ、誰もか……」
「代わりに電灯をつけておいたから、参拝所は暗くはなかっただろう」
確かに暗くはなかった。が、電灯の明かりではないことは絶対的に確かだ。
三成の眉が益々曇る。
「いや……参拝するところは、思い切り蝋燭やら線香やらが灯っていたが……」
「なに? いや、そんなはずは……」
「三成殿らの見間違いでは?」
「蝋燭と電灯とを見間違えるほど、耄碌はしていないぞ。というか、今、俺は凄絶に線香臭いのだが……」
「あ、ホントだ……」
グイとふたりの前に差し出した三成の腕からほのかに白檀が匂う。その腕に鼻面を近づけて匂いを思い切り吸い込み兼続は頷いた。
「うぬ。これは確かに線香の香り。三成の甘く花のように香しい体臭ではないな」
「貴様……鼻の穴をおっぴろげながら、なにを気持ち悪いことを云っている。一発殴ってみたいが、まあいい。それより……」
ジロリと兼続を一睨みして、三成はもう一度聞いた。
「じゃあ…じゃあ……あ、あれはいったい…だれがやったというのだ?」
「……………………」
「ぬう。ま、この場合は…………」
「…………ご先祖様ではないかと」
幸村がそう答えた次の瞬間、三成の意識は遥か遠くへと旅立っていった。
「よいしょっと。これ持って来ましたが何処に置くんですか? って、あんた! 何やっているんですかぁぁ!?」
「なに、三成が卒倒してしまったので人工呼吸を……」
のそりと日本酒のケースを抱えた左近が顔を出した時、倒れた三成を抱きかかえた兼続の艶やかな唇が、今まさに三成の唇に触れようとしているところであった。
「卒倒したら人工呼吸ってなんですか!? そんな介護方法ありません!! 余計なことをしなくて結構ですよ、この明太唇ッ!! 早く三成さんから離れないと皮向いて烏賊と和えますよッ!!!」
「なんとッ! わたしのアボガドオイル入りのリップクリームで潤ったプリプリツヤツヤでアンジェリーナー・ジョリーばりの魅惑のリップを明太子呼ばわりするとはッ! 三成ならばいざ知らず、変態でエロい……げはあ!!」
三成を抱きかかえたままその自慢の唇について熱弁をふるう兼続の口を派手な打撃音とガラスの砕ける音が強制的に中断した。
見れば左近が運んでいたケースの日本酒の瓶が一瓶欠け、周囲には砕けたガラスの破片と日本酒の香りが振りまかれる。
そんな中、左近のドス低い声が唸った。
「変態でエロい上、ちょっと流行遅れのちょい悪オヤジで悪かったですねえ」
「そこまで云っておらんぞ! というか、人の口上の途中で奇襲をかけるとは義に反す……のぉぉぉぉぉぉぉ!!」
再び打撲音と破砕音が響いた。
兼続を踏みつけ動きを封じる左近。更にケースから日本酒が一瓶欠ける。
「左近殿! それ以上、酒を無駄にするのはいかがなものかと……」
「ゆ、ゆきむらぁぁ〜! 友の危機を見過ごすつもりかあッ!?」
「そんなことより左近殿。その危険物を始末致しましたら、三成殿をあちらの客間にお連れください。わたしは先に行って布団を敷いてきます」
兼続の危機を爽やかな笑顔でスルーしつつ、幸村は兼続の手から気を失った三成を回収する。
どうやらしなくとも幸村には、兼続を助ける気は1ミクロンもない。
それでも、友情が破綻をしないのだから幸村のこんな態度も兼続にとっては織り込み済みなにだろうか。まるで、息のあったボケと突っ込みの漫才コンビ。いや、そこに三成がいるのだから、漫才トリオか?
そんなことを頭の片隅でチラリと考えつつ、左近はニヤリと口の端を上げると
「はいはい。了解しましたよっと!」
「ゆ、ゆきむ……ぐへッ!」
ボキッ! という鈍い音が兼続の首筋からすると、伸びて干されたスルメイカのように兼続がぐたりとする。
その身体をぽいっと無情にもゴミのように捨てて、左近は幸村と三成の後を追った。
台所に残されたのは、気絶して顔を烏賊のように白くする兼続のみ。
人の気配のないその場に、ふと幽かな気配が漂う。
『時代が変わっても相も変わらずだな……』
『平和でいいじゃないですか。みんな楽しそうですよ』
『それもそうだな』
呆れたような声に笑いが滲む。
そして誰も聞くことのないささやかな会話は夏の夜気に溶けてきて消えていった。
2008/12/16
長々と続いてしまいましたが、最後までお付き合い下さいましてありがとうございました