夏幻 − 後編 1 −


兼続に背を押され階段を下った先は、真の闇だった。
俗に言う「鼻を摘まれてもわからない」とはこのことだろう。視界一杯が、墨で塗り潰したかのようににひとつの色に覆われる。
電気という文明を生まれながらにして間近にする現代人にとって、こんな一筋の光もない闇を体験することは稀だ。
まるで別の世界。別の空間。これから、この闇の中を進まなければならないのだと思うと、思わずフルリと身が震えた。
スッと気配がすると、暖かいものが三成の背に触れる。

「一寸先は闇、といいますが……まさにそうですね」

闇の中から左近の声がした。

「……ああ、本当に真っ暗だな」
「怖いですか?」
「そんなわけないだろう。ただ真っ暗な地下道を歩くだけではないか。別に怖がる必要もない」

本当は、目の前に広がる一面の闇に少なからず畏怖の念を感じたのだが、素直でない口はそうとは云わない。
揶揄するような声に強がってみせると、闇の向こうの左近の気配が小さく揺れる。たぶん、笑っているのだろう。

「そうですね。兼続さんの話では、一本道だから迷うことはないそうですから。怖いことはないでしょうね」
「そういうことだ」

そう云って、三成がふんと小鼻を鳴らすと、左近の気配が更に小刻みに震える。更に押し殺したクスクスという微かな笑い声も聞こえる。
普段は気付きもしない空気の細かな震えや小さな物音がはっきりとわかる。闇に視界を閉ざされたせいで、それ以外の感覚が明敏となったのかもしれない。

目に見えないものが見える。

兼続の云っていた修行とやらも、そういった感覚を求めてのことなのだろう。
すると、三成が左近の気配を感じるように、左近も三成の気配を感じ取っているのだろうか。ふと、三成の脳裏にそんな考えが過ぎると、途端に気恥ずかしくなった。
まるで、左近にジッと見つめられているような気になってくる。そう思っただけで、三成の頬の辺りが熱を持ち、ドキドキと心臓までもが高鳴り始める。
闇に閉ざされた空間にふたりきり。すぐ近くに感じる左近の体温。ひょっとしたら、今にも左近の大きな手が自分の肩を捕まえようとしているのかもしれない。それとも、腰に手
を回されてギュッと抱き締められるのかも。

     って、神聖な修行の場で、なにを考えているのだ、俺はッ!?

三成は、ふわふわとした甘ったるい思考を必死で振り払うと、闇の道へと足を一歩進めた。余り長い間、左近とふたりきりでこんな場所にいると、おかしな気になりそうだ。

「さあ、何時までもこんなところいるつもりだ。とっとと行くぞ」
「はいはい。ああ、もう先に行かないでくださいよ」

左近から少し離れて先に道を辿り始めると、背後の左近の気配が慌てて追い掛ける。その気配に三成の心が少し浮き立つ。
思わず見付けた自分の思考の一端に、三成は小さく呟いた。

「……ぜったい、さこんのせいだ。こんなこと考えるのは……」






剥き出しの腕に触れる石壁のざらついた感触。鼻に漂う微かな白檀の香。
視覚以外のすべての感覚を総動員し、三成と左近は闇の中を進む。
目に見えぬ道は、幅が狭く人ひとりがやっと通れる幅しかない。その上、うねうねと曲がる道筋は、時折、急な方向転換を迫る。
左手を壁に這わせつつ、摺り足気味に少しずつ前に進む。足元から感じる限り、どうやら道は緩やかな下りを辿っているらしい。
ふたりは、黙したまま更なる地下へと進むのであった。

どれくらい時間が経ったのだろうか。5分か、10分か……
闇は時間の感覚すら狂わせるらしい。そう長い時間が経過した訳ではないだろうが、ほんの僅かな沈黙が長く感じられる。
微かな息遣いが、言葉の代わりにふたりの間を行き来する。そのふとした折に耳に掛かる左近の吐息が三成の耳に届く度に、さっきの甘い妄想を再び呼び起こされる。
頭を振ってその幻想を掻き消そうとするが、なかなかその甘い誘惑は消えてくれない。掻き消そうと躍起になれば成る程、暗闇が甘い記憶を刺激して想像をよりリアルさせる。
懊悩に再び鼓動が早鐘を打つ。今度は、頬だけでなく全身がほんのりと熱を持ち始める。頭の中をあられもない妄想で埋め尽くされそうになる。

   お、俺は阿呆かぁ!! 早くこんなの消えてくれ!!

必死に理性は叫ぶが、妄想は止まらない。
闇の向こうからすうっと伸びた太い腕が自分を絡め取る。熱い息が耳に吹き込まれ、「三成さん」と低い声で囁かれる。熱を孕んだ声は酷く優しくセクシーで、囁かれただけで
ゾクゾクと背筋に蕩けるような痺れが走る。
そして、太い指先が唇と優しく撫でると、次に柔らかく暖かなものが唇を塞ぐ。慣れた手は、器用にシャツのボタンを外しベルトを緩める。

   そして、その次は……

はあ、と息を呑む。
止まらない妄想が盛り上がってきた。その絶妙のタイミングに、

「そういえば、三成さん。こんな話知っています?」

現実の左近に声をかけられた。

「うわぁッ! な、な、な、なんだ、突然!?」
「え? なにをそんなに驚いているんですか?」
「べ、別に驚いてなどいないぞ!」
「って、十分に驚いているじゃないですか」
「いいから、なんだ!」

三成の細い肩がビクンと跳ね上がり、驚きで声が上擦る。妙な後ろめたさにムキになって声を荒げるが、その内心はさっきとは違う意味で、心臓がバクバクと激しく脈打つ。
怒鳴られた左近は、きっと面食らっているだろう。

「いえね。大した話じゃないんですがね」

案の定、少々苦笑を織り交ぜた声が返ってきた。

「人間って生き物は、こういう暗闇にひとりで長時間いると幻覚を見たり幻聴を聞いたりした挙げ句に気が狂ってしまうそうですよ」
「なぜだ?」
「一定の外的な刺激。つまり目や耳や鼻、舌、皮膚といった五感からの情報を制限されると、脳が暴走してしまうんだとか……」
「だからってなんで脳が暴走するんだ?」
「さあ、受け売りの話なんでそこまでは……」

興味深い話に三成が小首を傾げて左近の顔の辺りを睨み付ければ、闇をすかして左近の目線を感じる。

「でも、きっと視覚が閉ざされることで普段は気が付かない、心とか精神の内側っていうんでしょうかね。そこにある恐怖心だとか不安だとかが表面にでてくるんじゃないですか」

些か、先ほどの脳裏を支配していた甘い幻想のことを思い出す。あれも心の内側にある自分の本性のひとつなのだろうかと愚考する。馬鹿馬鹿しい思う一方、左近も自分と同じような妄執を持っているのではとおかしな期待をしてしまう。
だが、そんなことを真正直に問う訳にはいかない。

「左近にも、その……不安に思うようなことがあるのか?」
「ええ、ありますよ」

三成の問いに答えると、左近はスッと手を伸ばし三成の手に触れる。

「三成さんが迷子になったり転んだりしないかと不安で仕方ないんです。ですから、ちゃんと手を握っていてくださいね」
「なッ! お、俺は子供か!?」

「まさか、見抜かれたのか!」と顔を真っ赤にするが、握られた手を振り払うことはできなかった。








2008/09/22



完結させるはずが伸びました。
次で完結します。