匂ひ立つ《後編》
夜が明けた
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薄墨を流したような室内に早朝の明るい日差しが差し込む。
そろそろ朝の支度をしなければならない時刻だが、我が主君は隣で布団を頭から被ったままだ。
この程度の睦言など、いつもものことだろうに……
軽く口を吸った後、恥ずかしさの余りに布団に篭ってしまわれるとはね。散々、甘い睦言以上の事を致した間柄であるのに
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まったく、可愛いお人だ
ニヤニヤと相好が崩れるのを自覚する。時折、こんな主が見たくて、わざと恥ずかしがるような言葉をかけるのは内緒だがな。
さて、小姓が起こしに来る前に、そろそろ布団から出てもらわないと。
「殿。そろそろ起きて下さい」
「…………」
「とーのー。お勤めに差し障りますぞ」
のそりと布団から殿が顔を出す。未だに頬の辺りに微かな赤みが残っているのが、なんとも可愛らしい。
そんな邪な考えを見透かされたのか、殿に睨まれてしまった。
まっ、そんな赤い頬で睨まれても可愛いだけなんですけどね
「はいはい、そんなに睨まないでくださいよ」
「左近が、いやらしい顔でニヤニヤと笑っているからだ」
殿は布団から頭だけを出し半眼で睨んでくる。
「あぁ〜、ハイハイ、わかりました。左近はスケベですよ〜。いいから、さっさと起きて下さい」
「ひ……開き直りおって〜〜」
呆れたような怒ったような声と共に枕が飛んでくる。ひょいっと飛んでくる枕を軽く交わしたところに、今度は、殿の愛用の扇がすかさず飛んできた。
痛む額をそのままに、絹糸のような朱色の髪を櫛で梳く。
先程の無礼を許す代わりに何故か寝乱れた髪を整えろと云われた。殿曰く「左近は俺の髪を弄るのが好きなのだろう」とのことだ。
ま、大歓迎ではあるんですけどね
猫の毛のように柔らかく手触りのよい殿の髪を整えながら、早暁の睦言を思い出す。
「髪の痛みを気にしておられたようですが……、先日差し上げた髪油をお使いになっては?」
あの髪油は、痛んだ髪の手入れによいと以前馴染みだった妓楼の女に聞いたものだ。そんな由来を話すときっと拗ねるから云えないが、よい品であることには違いない。
だが、殿は弾けた様に肩をビクッっと震わすと
―――――
「あれは駄目だッ!」
「駄目とは? あの髪油がお気に召しませんでしたか?」
「……そうではない…が…………」
髪を整えるため殿の後ろに座しているため顔が見えない。が、どうにも様子が変だ。殿は、俯いたまま小さく言葉を続ける。
「その……左近が、くれたものだから……気に入らないとか、嫌だとかではなくて……」
「なら、いいではないですか。それとも何か問題でも?」
「えっと……あれは……の………がする…から」
声がだんだん小さくなるため、殿が何を云っているのか上手く聞き取れない。
「どうされたのですか?」
俺は殿の前に回り込む。
―――――と
な、何故にそんなに真っ赤になっておられるんですか?
殿は顔どころか耳朶まで真っ赤に染まったまま俯いておられる。これでは、明け方の再現である。
だが、こうなる原因に思い当たる節がない。
いや、髪油の件か?
頭に浮かんだ疑問をそのままに、黙ったままの主に問いかける。
「あの……殿。良く聞こえなかったのですか? いかがされました?」
「………………」
「とーのー」
「……あの髪油」
「はい」
「あれは……左近の匂いがするから……俺には使えん」
搾り出すようにそう呟く殿の言葉に俺は呆気に取られる。
それは、つまり
―――――
「匂いで左近を思い出すから、あの髪油は使えぬということですな」
予想以上に可愛らしいことをおっしゃるものだから、顔がにやけるのを抑えられませんぞ、殿。
「……そ、そういうことだ」
恥ずかしさと不機嫌さが混ざった視線で睨みつけられる。が、桜色に染まった頬ではやはり迫力がない。
「も、もうよい」
頬を染めたままスクッと立ち上がると殿は逃げるようにその場を後にしようとするが、俺は殿の手を引いてその場に繋ぎ止める。
「さ……さこんッ!?」
驚く殿の手をそのまま強引に引っ張ると、殿の身体を腕の中に収め細い身体をしっかりと抱き締める。
「こ、こらッ! さこんッ!?」
「やれやれ。それじゃ、殿のために別の髪油でも調達しましょうかね」
そう言って暴れる殿の髪に鼻先を埋めその匂いを楽しむと、殿は諦めたのかその身体を俺の胸に預けてくる。
「……フン…か、勝手にしろ」
「では、仰せのままに……」
俺はそう言うと再びその微香を吸い込むと、その匂い立つような唇へと小さく口付けた。
fin
2006/07/13
左近のサラサラヘアーの秘密は日頃の手入れの賜物。
でも、殿のサラサラは天然。でもって、髪油を貰ってもやっぱ忙しくてついつい使い忘れるので……
結局、左近が殿の髪の手入れをするのがよいと妄想……