匂ひ立つ《前編》


払暁―――――、鼻先を掠める香りで目が覚めた。


左近が髪を整えるのに使う髪油の匂い。椿の油に香を混ぜた品で左近の髪からはいつもこの匂いがする。
「顔に似合わず瀟洒なものを使うのだな」とからかえば、「確かに左近よりも殿の方が似合いそうですな」と切り替えされてしまった。次の日、左近が使っているのと同じ髪油の小瓶を渡されたが、それは使わずに手元に置いてある。


     そうだ……。俺は左近の髪から香るからこの匂いが好きなのだ


だから、折角貰った髪油も使えずにいる。
そんなことを考えながらぼんやりと目を開けた。



薄明かりの中、左近が半身を起こしてこちらを覗き込んでいた。

「あぁ、起こしてしまいましたね」
「さこん?」
「夜明けまで、まだしばしあります。もう一眠りなさい」

優しい手が俺の髪を撫ぜる。
左近の髪と違って、忙しいからと手入れなどしない俺の髪はパサパサに痛んで触っていて楽しいものでもなかろうに―――――
俺がそう云うと左近がクツクツと笑う。

「そんなことはありませんよ。左近は殿の髪が好きですから」

そう云って左近は俺の髪で遊ぶ。

「それに殿がおっしゃるほど、痛んではおりませんよ」
「そうか? でも、左近の髪ほど綺麗じゃない」

俺がそう云ったら左近め、目を丸くして吃驚している。そういう風に驚いた顔は滅多に見れないからもっと良く見たくて、俺は左近の髪を引っ張って自分の方に引き寄せた。
左近は抵抗もせず、俺の好きなようにさせてくれる。


左近の顔が近づくと、巌のような逞しい肩から黒髪が一房、サラリと流れ落ちた。次の瞬間、フワリと俺の好きな匂いに包まれる。

「ほら、左近の髪の方がやっぱり綺麗だ」

手に取った左近の黒髪を梳きながら、俺の上にある左近の顔を見上げる。

「殿には参りましたね。左近に向かって『綺麗』はないでしょうに……」
「綺麗なものを綺麗と云って何が悪い。第一、俺に向かって散々『綺麗』と云うのはどの口だ」
「まっ、それはそうなんですけどね……」

左近は、普段言われなれない「綺麗」という単語に微苦笑を浮かべる。
俺も可笑しくなって喉の奥で忍び笑う。





ひとしきり、笑い合うと再び左近が俺の髪を梳く。

「なら、殿の髪ももっと綺麗に致しましょうよ」
「別にこのままでもよいが………」

少し言葉が詰まる。一瞬の逡巡。そして、いつもではあり得ない考えが言葉となる。

「左近がそう云うなら……今後は、その……手入れに気を使ってもよい…ぞ」

あぁ、口にしたらなんだか恥ずかしくなってきた……
いつもならば、「おなごではないのだから、別に髪など気にする必要はない」と云い放っていたのであろうが、なぜだろう―――――

俺の意外な言葉に、左近も目を見張る。が、すぐに楽しそうに俺の髪を梳き続ける。

「素直に左近の云うことを聞いて頂けるとはね……左様に殿は左近が髪を弄るのをお好みか?」
「なッ!?」

まさか、そんな風に云われるとは思わなかった。
いや、嫌いではない。嫌いではないが……正面切ってそんなことを云われたら………

思わず顔を伏せる。顔がかぁっと熱くなるの感じる。きっと耳まで赤くなっているのであろう。
明け方の薄暗い室内では、耳まで赤くなっているなど見えはしないであろうがと思っていたら、

「おやおや、耳まで赤くされて。いかがなされた、殿?」
「……ッ!? あ、赤くなどなっておらぬわッ!!」

驚いて顔を上げて左近を見上げる。矢張り、夜明け前の室内は薄暗く色彩が消えたような薄墨色。顔形の判別はつくものの色まで解るはずがない。が―――――

「殿、耳だけじゃなくお顔も真っ赤ですよ。そんなに髪を触られるのがお好きだとは、知りませんでしたな」
「あ、阿呆かッ! こんなに暗くて顔の色など解るものかッ!」

「それがね」と笑いを含んだ声で左近が云う。相変わらず、左近の大きな手は俺の髪を櫛梳る。

「解るんですよ。ほら、だって……」
「…………」

髪に触れていた手が、髪から滑り落ち紅潮した頬に触れた。

「こんなにも熱い」

そっと顔を近づけ耳元で囁かれ、そして―――――



掠めるように口づけをされた。



     あぁ、もうダメだッ!



一気に血が頭に昇る。
恥ずかしさの余り、俺は再び顔を伏せた上、今度は頭から布団を被る。


その後、夜が明けるまでの間、俺は布団から顔を出すことができなかった。






2006/07/11