雲となり雨となる 1


季節は秋―――――

朝から降り続く驟雨は、一向に止む気配を見せない。夕刻近くになっても雨脚を強くしたり弱めたりしながら、重い雲間より大粒の水滴を佐和山の大地に振りまき続ける。
曇天の空から太陽が姿を消して幾日。恵みの雨もこうも長く降り続く場合、災厄の種となる。

「止みませぬな……」
「そうだな。先程、犬上川も芹川も随分と水位が上がっていると報告があった」
「そうなると、宇曽川もそろそろ拙いかもしれませんね」

佐和山城。その奥まった書斎から濡れそぼる庭を見遣り、筆頭家老が呟く。その呟きに呼応し、城主も柳眉を顰めて答える。

主従の懸念は、佐和山の領内を流れる三つの川。

この領内を流れる三川は、昔から長雨の度に氾濫を起こし田畑を流してきた。
三成が、佐和山城の城主となってからこの方、水害に備えて堤を築き土嚢の準備も怠りはない。とはいえ、古来よりの氾濫を繰り返す暴れ川に対しどこまで通用するかはわからない。

「どうにか止まぬものか」

三成は、憂鬱そうに降り続く冷たい雨を睨み付ける。

「さて、こればかりは天の気分次第ですな。それとも、止雨の法でも試してみますか?」
「そういった迷信は信じぬ」

左近の提言を三成は一蹴する。理性を重んじる三成らしい答えに左近は苦笑を漏らす。

「殿はそうでしょうが、実際に被害に遭う民百姓にとっては、まさに『藁にも縋る』ってやつですよ」
「事前に川の氾濫に備えてやるべきことはやった。今更、そのような呪法なんぞに頼る必要などない。左近も雨は天の気分次第と云うたではないか。そのような怪しげな術で天がこちらの言い分を聞いてくれるなら、治水だの灌漑だのの苦労なぞ必要があるかッ!」

三成は、一気にそう云い切ると不機嫌そうにプイッと横を向いてしまった。


     まったく殿らしいことで……


機嫌を損ねるのを承知で、左近は困ったように眉根を寄せ苦笑を深くする。

確かに、民政を執行する者としては、三成の云うことはもっともである。
三成の指示は的確だった。長雨の季節の前に出来うる限りの準備を行い、一切の手抜かりはない。そのことは、側近くにいた左近が一番よく知っている。
だが、「情」の部分を置き去りにしては、人は付いては来られない。特に、今の状況の様に身に切迫とした事情を抱える者ほど、「理」よりも「情」を欲しがるものだ。
今回、止雨の法について話をしたのも、民人に対する「情」を考えてのことだった。


     なんで、理屈を捏ねるときは、こうも口が回るんでしょうかねぇ


持論を云い放った時の苛烈な口調。時折、左近や極身近にいる者にのみ見せる素直な時の口調。その印象の落差は余りにも強い。
こういった三成の性格は、左近にとっては馴染み深くもあり、また好ましく思う。

だが――――――
心中でひとつ溜息を吐きながら、左近は口を開く。

「それでも、民の不安を除けるならそういった手もお考えなさい」
「…………」
「殿」
「……もう暫く雨が続く様なら……考えてみよう」

左近の諭す様な口調に三成も不承不承ではあるが「諾」と答えた。

左近が仕官する様になってから度々繰り返される主従としてのやり取り。
三成を諭す左近に対し、時には激しく反発し、時には素直に言葉に耳を傾ける。態度は時々によるが、大抵の進言は余程の理由がない限り耳を傾けてくれる。

―――― 信頼されている

その事実に、不機嫌そうに口を尖らせている主の横顔を眺める左近が楽しそうに笑う。

「そうそう。偶には、素直に左近の言を容れて下さいよ」
「素直でなくて悪かったな。ならば、俺が素直に聞ける様な諫言をしてみろ」
「おや? 今迄、左近が間違ったことを殿に申し上げたことがありますか?」
「……ぅ」

今迄、左近が誤った諫言をしたことがない。いつも的確な助言をくれる。
その言を素直に聞けないのは、三成自身の「横柄・傲慢」と称される性癖の所為であることも(不本意ながら)わかっている。
主従お互いが、その点について十分過ぎるほど理解をしているため、三成が不機嫌そうに上目遣いで左近を睨んでも、睨まれている当人は余裕の笑みを浮かべている。

わかっていても繰り返されるこのやり取りは、一種の言葉遊びの様なものだ。そして、この言葉遊びの後は、決まって最後に三成は不機嫌そうに左近を睨み付ける。


左近は、いつも通りに不機嫌そうに眉を寄せて睨み付ける主に笑みを返す。

「そんな風に不機嫌そうな顔をされなさるな。綺麗なお顔が台無しですよ。まぁ、不機嫌なお顔をされているのも殿らしくはありますがね」
「なんだ、素直になれと云うたり、不機嫌なのが俺らしいと云うたり……」
「だって、いつもそのように眉を顰めておられる。皺になったらどうするんです?」

笑いながら左近は己の眉間をコツコツと軽く叩いてみせる。

「まっ、おかげで左近は、たま〜に見せて頂ける素直な殿を堪能できますがねぇ。これも特権ですかね」
「なっ……!!?」

三成は左近の主に対しての余りに無遠慮な言葉に目を瞠る。

「あ…阿保かぁ! なにが堪能だ!! この痴れ者ッ!!!」
「ハハハ、そのように照れずとも」
「これは照れておるのではなくて怒っておるのだッ!」
「つれないですなぁ。それとも、素直になられる殿を堪能するのは、閨の中だけにしろってことですか?」
「はっ?」

左近の脂下がった顔を三成は唖然としてみる。が、左近は更に―――――

「あぁ、そういえば、ここのところ長雨対策で閨のお供もご無沙汰ですなぁ」
「へ……?」
「そうですか、そうですか。殿のお心、この左近しかと承りましたよ」
「はい?」

三成は己でも間が抜けていると思う返事しかできないが、話の展開が怪しげな方向に向かわんとしていることだけは理解は出来た。

「では、今宵にでも久々に左近が自慢の大筒で……」

左近は、ズイッと身を乗り出したかと思うと、あっという間に三成の細腰に手を回す。そしてあろう事か、三成の耳朶にそっと舌を這わせた。
瞬間、ゾクリと背筋を這う感覚に三成は眩暈を起こしかける。だが、三成の理性は、現在の時刻・場所という諸条件を持って必死に警鐘を鳴らす。

その結果―――――

「って、このド阿保ッ――――!! いい年して盛るなァ――ッ!!!」

三成の怒声が書斎に響く。四肢をばたつかせ、左近の舌が醸し出す感覚に頬を染めながらも渾身の力を込めて抵抗を示す。調子に乗って三成の耳から桜色の薄い頬へと口唇を這わせようとした左近の顎を三成は夢中で両の腕で思いっ切り押し上げる。
―――――と、

「ぐはッ!!!」

奇声を発し左近は三成の身体から手を離す。
三成が押し上げた両の手のせいで、不埒な舌を噛んだようだ。幸いなことに出血はない。

「……ほ、ほのぉ…いひなり、なにふぉにゃさる……」

舌を噛んだ衝撃のため巧く回らぬ口で三成に向き直る左近の目尻には、痛みのせいかうっすらと涙が浮かんでいる。
赤味の引かぬ顔を思いっ切り不機嫌そうに歪め、乱れた襟を整えながら三成は、左近を怒鳴りつける。どうやら不埒なのは舌だけではなかったらしい。

「ふんッ! その不埒な舌を噛み切って無様に死んだなどとならなくて良かったなッ!!」
「そうなっては、昼も夜も一番困るのは殿でしょうが……」
「ど……どう解釈すればそうなるッ!! というか、さっきから聞いておれば、結局は貴様が溜まっているだけであろうがッ――――――――!!!」
「ハハハ、よくおわかりで。左近は殿一筋故、他の妓で済ますことなど思いもつきませんのでね」
「どの口でそんな都合の良いことをほざくやら……。情報収集として妓楼に足を運んでおることなぞ、とっくに知っておるわ!」

左近の調子のいい言葉に、三成はプイッとそっぽを向く。

そんな三成に左近は声を落とし優しく語りかける。そろそろ、遊びの様なこのやり取りも終わり。後は、拗ねた殿を宥めて落ち着かせたら、一日の疲れを癒すべく湯殿にでもお連れしよう。
すでに側仕えの者に命じ、準備は整えてある。

左近は、そっぽを向く三成の方を優しく抱き寄せる。

「情報収集だけですよ。殿がご心配される様なことはありません」
「俺が何を心配しているというのだ」
「それは、殿の方がよくおわかりでしょう?」

三成の愛用の扇が優雅に開き炊き込めた香りがフワリと薫る。疑わしげな視線が開いた扇の後から睨みつけてくるが、しばしの沈黙の後―――――

「……本当だな」

睨み付けるような視線。だが、どことなく縋る眼差し。
その瞳の奥に隠された心に答え、左近はこの上もないほど優しく微笑む。

「当然でしょう」
「……その言葉に偽りがないのならば…よい」

頬を赤く染めた表情を扇で隠し、小さく呟く三成。

「左近は殿のものですから」
「……フン、当然だ」

そう云うと三成は、左近の手入れされた艶やかな黒髪を一房手に取ると、クイッと自分の方へと軽く引っ張る。
その意味するところはすぐに汲み取れた。―――――それは不器用な主の精一杯の甘え。

左近は、肩を抱く手に力を込めて痩身を自らの胸に更に引き寄せる。すっぽりとその広い胸に身を預ける三成の白い顎を左近の指がそっと捉えた。太く逞しい指。だが、その指が見た目以上に器用に動くことを三成は知っている。

「さこん……」

そう動く薄桃色の唇をその器用な指がゆっくりと撫ぜる。
触れるか触れないか。まるで羽の様に微妙な加減で唇に触れると三成の肩がピクリと震える。

「殿」
「ん……」

零れる吐息。だが、左近は、わざとそっと唇を辿り続ける。
その意地の悪い所業に三成が睨み付ければ、左近は口元を緩ませそっと囁いた。

「左近は殿のものでございますから……」

互いの顔は近い。あと少し―――――

「どうぞ、お好きに」

あと少しだけ顔を近づければいい ―――――あなたの望むように

「意地の悪いヤツだ」

そう云うと、三成はほんの少し背を伸ばす。唇が触れ合う。
更に求めるように三成は左近の方に腕を回し、身体ごと自らに引き寄せる。

「ん……」

三成の舌が左近の歯列をなぞる。が、そこから歯列を割って口腔に舌を滑り込ませることが出来ない。
唇を合わせるだけの口付け。どうしようかと迷う舌。
いつもなら、左近が攫うが如くに三成の舌を絡め取り、散々に口腔を蹂躙するものを今日に限っては左近からは何も仕掛けてこない。

クイッ―――――

もう一度、三成は左近の黒髪を引っ張る。
僅かに開かれる歯列。三成は、薄く開いたそこに自らの舌をそっと差し入れる。

「ッ!? ッ…んんッ!!」

突然、差し入れた舌を左近が絡める。驚き震える舌を更に己の口腔内に引き入れる。絡め取った三成の舌は、その執拗な攻めに抵抗が出来ぬまま、巧みな口技に翻弄される。左近は、捕らえた獲物を舌の裏側までチロチロと舐め上げ、時折強く吸い付く。

「ん……んはッ!」

互いの唾液が混ざり合い、銀の糸が襟元まで流れ、三成の纏う薄い萌葱色の着物に染みを作る。

「ハァハァ……た、たわけ…が…」

互いの唇が離れた途端、息が整わぬ内にまろび出る憎まれ口。
朱に染まった三成が、そっと左近の胸に身体を預ける。

「さぁ、殿。湯殿の支度が整っておりますよ」

そんな主に笑みを返し、左近は優しく三成の肩を叩くのだった。





2006/11/26