青葉の頃に―――――
「左近殿は、本当にお館様を尊敬しておられるのですね」
唐突な幸村の言葉に左近は瞠目する。
二三度ばかりシパシパと瞬きをすると左近は首を捻る。
「え? まぁ、尊敬しているっていえば尊敬はしていますがね……。とぼけた御仁でしたが、軍略の師としては最高のお人でしたよ」
「それより」
―――― と左近は続ける。
「『尊敬』というなら、俺なんかより幸村さんの方がその念が強いんじゃありませんか?」
そう左近が答えると、幸村は
「そうでしょうか? 左近殿の口癖をお聞きするに、本当にお館様を慕っておられると感じるのですが…………」
「口癖?」
「えぇ、口癖です」
その時、俺は心の中で「幸村のド阿呆」と叫んでいた。
「軍略を練られる時、『信玄公ならば
――――』と呟いておられます」
「えぇッ!? 参ったなぁ。俺はそんなことを口走っていたんですか……。殿、どうなんです?」
「…………まぁ、考え込むと時折でるな」
「そりゃ、また……。次からは気を付けないと」
左近が軍略のことを考え込むと、その言葉を口にする。案の定、今宵の白熱した論議の際にも、二度ほど、小さくポツリとその言葉を漏らしていた。
本当に息を吐くような呟きだったので、誰にも気付かれまいと思っていたのに…………
なんだか、俺だけが知る左近を幸村に取られたような気がして、少しばかり不愉快になる。勿論、そんなことはただの我が侭なことはわかっている。
「お館様といえば、左近殿が初めて武田の館にお見えになれた日のことを覚えております」
だが、幸村はそんな俺を横に置いて嬉しそうだ。
「あぁ、俺も覚えているよ。確か上杉との国境の小競り合いで、小さな戦があった時だったよな」
「はい。あの時、上杉方の兵と勘違いをして左近殿に斬りかかったわたしを、左近殿はあの大刀で軽くいなされて……」
「そうそう。いきなり突っかかってくるもんだからさ。こちとら大慌てですよ。何とかかわせたが……。だが、いい突きだった。かわせたのは俺が幸運だっただけですよ」
「左近殿の力量あればこそです。ですが、その後が驚きです。『お前さん。真田の次男坊か?』って云われたのには、本当に心の臓が飛び出るかと思いました」
「武田幕下の真田の次男が、赤い鎧の槍使いだと小耳に挟んでいたのでね。しかも、将来有望な若武者と聞いちゃ、忘れる訳にはいかなかった。まさか、いきなり手合わせをすることになるとは、俺も思いもよらなかったですがね」
そんな話、今まで一度も聞いたことがないぞ!!
俺も左近にそんなことを尋ねたことは一度もない。だから、知らないなんて当たり前なんだ。当たり前のはずなのに
――――
「まぁ、お陰様で、信玄公と無事にお会いすることが出来ましたよ。あれは天の采配ってヤツですかね」
「まさに……ですね。左近殿が来られたこと、お館様も随分と喜んでおられました。なにせ、あの小競り合いの撤退時の左近殿の采配が余りにも見事だったので、『あんな有能は男がワシを慕って来てくれるとはね。もてる男はツライのぉ』っと」
信玄公の口調を真似て語っているらしい。幸村は快笑を上げる。左近も兼続も口の端を上げて楽しそうだ。
そう云えば、兼続も信玄公を知っているのだったな。俺は知らないから似ているのか似ていないのかなんてわからない。
「ただ、『ワシ、本当にあいつに教えることあるのかなぁ』と真剣に悩まれておりましたのが、その……とても可笑しかったです」
アハハと幸村は腹を抱えて笑っている。
左近も「そりゃ、光栄だ」と笑声を立てる。
「なんのなんの。流石は信玄公。天下の名将といったところでしたよ。この左近の軍略があるのは、一重に信玄公のお陰ですよ」
ひとしきり、笑い終えると声を改めて左近が幸村に向き直った。いつも不遜な程自信に溢れている男が、珍しく謙虚な物言いをする。こんな左近、余り見たことがない。
「ですが、わたしはお館様と左近殿が今宵のように膝をつき合わして軍略について語り合っておられるところを見たことがないのですが……」
「あぁ、信玄公の教え方はね。まさに門前の小僧ってヤツですよ。学びたかったら勝手に学べってね。自分で書を解き実際に戦場に立てってのが、信玄公流なんですよ。お陰で、武田にいた頃は大小問わずあちこちの戦に連れ回されましたねぇ」
「まったく人使いが荒かった」と左近がぼやく。
それを聞いて兼続が目を輝かせる。
「その中には、上杉との戦も?」
「えぇ、小競り合いから川中島の大合戦まで。特に川中島では、謙信公の軍略も実地で体験させて頂きましたよ。あれはきつかった」
「ふふ、『神の軍略』。しかと味わわれたか?」
「えぇ、存分に堪能させて頂きましたよ」
「覚えておいでか? わたしも何度か島殿とは刃を交えさせて頂いておりますが……」
「特に川中島の合戦の時は、謙信公の側近くにおられたお姿を覚えておりますよ」
幸村に続き兼続までもが、俺の知らない左近を語り始める。
もう駄目だ。
急速にイライラが募る。辛うじて、眉間に深い皺が寄るのを抑える。
そんな俺の様子に気付くことなく三人は俺の知らない左近の話。俺にはわからない、共有できない話で盛り上がっていく。