甘い果実 1


ここ数日、大阪城下の空気は熱気を孕み、風もそよがぬ日が続いていた。

季節は、晩夏。そろそろ蒼穹に秋の気配が、忍び寄ってもよさそうな時期ではあるが、そんな気配は微塵も感じられない。
庭に打ち水をして涼を得ようとしても大した効果もなく、うだるような暑さの中で進まぬ仕事の筆が、三成の苛立ちを更に募らせていた。

「ッ…!」

苛立ちが筆先を鈍らせたか、書き上がりかけた書類の文字を書き損じる。三成は小さく溜息をつくと、書き損じた紙をぐしゃぐしゃに丸めて放り投げた。
すでに仕事をする気にもなれず、そのままゴロリと畳に仰向けに寝転がる。ボンヤリと天井を見上げていると、蒸した夏の大気を震わすように響く蝉の声が益々思考を乱す。

「煩い」

三成は不機嫌に呟く。

     まったく、イライラする――――――

暑さが不快であることは勿論、暑さの所為で汗ばむ肌は更に不快だった。
その上、命冥加な虫共の鳴き声も耳障りなことこの上ない。

     お陰で、ここの所めっきり食欲も失せたわ

ここ数日、何を口にしたかを思い出そうとしたが、鈍った思考では思い出すこともままならなかった。三成は、考えることを放棄し目を瞑(つむ)った。





ほんのひと時 ―― 虫の鳴き声が止んだ。


「殿。少しは食さねば、いざという時に力が入りませぬぞ」


ふと、空っぽの頭に響いたのは、己を諌める忠臣の声。困ったようなその声に思わず目を開ける。


     そんなはず、あるわけはない ―――


わかっていても頭を上げて周囲を見回す。やはり、脳裏に過ぎった姿はない ――――――
再び、耳に聞こえるのは、頭から追い出したはずの蝉時雨。目に映るのは、夏の日差しとそよとも騒がぬ翠葉。

もう頭を動かすのさえ億劫だった。三成は再び畳に沈む。天井の木目にぼんやりと目を遣りながら止め処なく思考が揺らぐ。

そう云えば ――― 夏の頃になると食が進まなくなる三成を心配して、この忠臣の小言が増えるのが、毎年の慣わしのようになっていた。
だが、今年の夏は小言を言う忠臣は側にいない。城の普請のため領地の佐和山に赴いており、彼と最後に会ったのは、暑さか厳しくなる前 ―― 初夏の頃だった。

     イライラの原因は、暑さだけではないようだな

最終的に思い至ったここ数日の苛立ち原因に、「暑さ」と「虫の声」以外のものが加わるなど考えもしなかった。

―――― いや。考えないようにしていただけだ

三成は目を瞑り溜息を吐く。
本当は、ずっと心の片隅で望んでいた ―― 会いたいと。

しかし、そんなことを望んでも詮無き事。お互いやらねばならぬ事は山の様にあり、それを放り出せるはずもなかった。
だから、左近のいない寂しさも会いたいという気持ちもずっと考えないようにしていた。偶に交わした文のやり取りでさえ、内容は仕事のことが大半で、左近の方から身体を気遣う内容などが添えられても、自分の返書にはそんな可愛げなど一欠けらも書き記したことはなかった。

それでも、仕事に没頭できる間は良かった。だが、ふと手を休めた途端に忘れていた望みが、こんなにも強く心占めるとは思わなかった。


     会いたい
     声が聞きたい



     左近に……………触れたい



「左近の阿呆が……」

三成は、口から毀れ出た己の言葉に苦笑をする。
この場にいない愛しい者をそっと思うのに甘やかな言葉ひとつ言えない。それどころか出てくるのはこんな悪態だけ。つくづく、自分は「横柄者」のようだ。

―― と、

「左様にお寂しかったですか? 殿」

頭上から降ってくる笑いを含んだ声が、ぼんやりとした思考を目覚めさせた。