アカツキの詩


「左近……。秀吉様が生きておられた…………」

三成は、震える唇で傍らの軍師に視線を向けた。怜悧な目元に浮かんだ小さな雫は、音もなく白い頬を伝った。



慶長五年 関ヶ原―――――
東西両軍に別れての天下を掛けた決戦の場に突如として現れたのは、昨年身罷ったはずの太閤 豊臣秀吉 その人であった。
決戦の早朝。暁の光も届かぬ深い朝霧の中をかの人はやって来た。小柄な背に懐かしい笑顔を浮かべて―――――
「よう、三成! 元気じゃったか?」と懐かしい声が本陣に響いたそのとき、その場にいた全員が文字通りに言葉を失っていた。
「死を偽り、裏切り者を炙り出す」という秀吉の奇策は、老獪な徳川家康を動かしこの関ヶ原にその目的を達した。
そのことを申し訳なさそうに、だけれども、あの「人誑し」と称される人なつこい笑みで秀吉は語った。
あの枯れ木のようにやせ細っていた昨年の病身が嘘のような以前と変わらぬ壮健な姿。まるで、十年程、時を遡ったのではないかとさえ思えてくる。

「すまぬ」と苦笑う主君に「で、じつは生きておられたと?」と憮然とした声を投げ付けたが、この奇跡のような出来事を誰よりも喜んでいるのは、目の前の三成である。
左近は、この一年の激務で細くなった主の肩にそっと手を置くと口の端に笑みを浮かべた。

「よう、ございましたな。殿」
「あぁ……」

答えて三成はグイと目元を乱暴に拭った。
元気よく愛馬に跨り戦場へと駆け降っていく秀吉の後ろ姿を見送り流した涙を拭い去ると、三成は手中の鉄扇で戦場を指し示す。

「さぁ、左近! 秀吉様はすでに前線にでておられるぞ。我らも義を捨て理に走った愚か者共に思い報せてやらねばならん!!」

背負った使命と責任の重さに、白く強張っていた頬が微かに上気する。決意に厳しく引き締まっていた口許には、抑えきれない喜悦が滲む。

「おやおや。殿も意外と現金なものですねぇ……」
「な、なんだとッ!」
「太閤殿下が生きておいでと知った途端、随分とお元気になられたじゃないですか。さっきまで『俺は勝ちたいのだ』なんて肩を落とされていたのにねぇ」
「だ、誰がだッ!」

 太い眉をひょいと上げ、からかうように片笑む左近に三成は更に頬を赤くする。

「まあ、大戦前で緊張していたってことにして差し上げますよ。太閤殿下のお陰で流れはこちらに傾きつつありますし、お言い付け通りにいっちょ、敵さんを蹴散らしに参りましょうかね」
「フン、当たり前だッ! 行くぞ、左近!!」





「朽ちるがいいッ!!」

裂帛の気迫と共に鉄扇が半円を描くと、それに沿って赤い飛沫が飛ぶ。緋の扇が翻る度に戦場に死が舞い降りる。

「殿ッ! もうじき、宇喜田殿と小西殿の隊がこちらに参ります。ここの戦線の維持は問題ないでしょう」
「そうか。関ヶ原中央部は完全に抑えたな」

関ヶ原中央部。戦開始直後は、激戦を繰り広げたこの場所も、もう既に戦は終焉を迎えようとしていた。
東軍の大筒は沈黙し、家康に与した武将たちの旗印も見当たらない。起死回生を賭けて、決死の猛攻を仕掛けた稲姫の一軍もどうにか退けた。
残る雑兵を蹴散らしつつ、三成は左近に状況を確認する。

「秀吉様は?」
「前線に出ていた豊臣側の武将を説得された後、毛利軍と合力する予定であちらに向かわれました。秀吉様が説得をされた武将のほとんどは、降伏をするか撤退を始めています。残るは家康と徳川直属の武将たちだけです」
「家康は、この戦場に徳川直属の武将をほとんど連れてきてはおらぬ。勝ったな……」
「まだですよ。本田忠勝がいます。あのトンボ切っているおっさんがいる限り、家康には容易に近付けませんよ。油断されるな」

キッと左近の眉宇が寄る。
徳川の守護神 本田忠勝。左近の強い視線の先、東軍本陣前に彼の旗印が風に靡くのが、遠くに見える。
鬼神とも云われる彼の武勇を失念していた。鬼だの神だのと称されようとも人間の身。全軍で当たれば、討ち果たすこともできようが、その間に家康に逃げられては、勝利とは言い難い。
三成は自分の迂闊さに思わず赤面をする。

「……す、すまぬ。俺としたことが……」
「いえいえ。それにしても、まぁ……」

項垂れる三成に微苦笑を返し、左近は言葉を続ける。

「随分と張り切っておられますなぁ。そんなに太閤殿下が生きておられて嬉しいんですか?」
「当たり前だ」
「稲姫じゃないですけど、左近としては『ちょっとひどくないか』って心境なんですけどね」
「なんだと!? 秀吉様の深謀を侮辱するのかッ!」
「まったく、愛は盲目って云いますが……殿だって騙されておられたんですから、ちょっとくらい怒ってもいいんじゃないですか?」

柳眉を釣り上げて左近を睨みつける三成の顔を呆れたように覗き込む左近の問いに、三成はツイと視線を泳がせる。

「……うぅ、いや…その。…………じつは…少し。……いや…とても怒っておる。腹立たしいことこの上ない。だが……」

元々、矜持が高く不義や不正を許せるような性質ではない。秀吉がとった味方を欺くという手合いの策を一番嫌っているのは、ほかならぬ彼自身だ。
しかし、その矜持を上回るほどに―――――

「それ以上に嬉しいんですね。まったく……殿は太閤殿下に甘い」
「いいではないか…………左近だって、俺には甘いぞ」
「そうですな。そのように、頬を膨らませて拗ねている様を見ると、ついつい……」

ニヤリと白い歯を見せる左近に「誰がだ!」と鋭い一瞥を向けたとき、主従の前に伝令の兵が慌ただしく進み出てきた。
伝令は、膝をつくと深々と頭を垂れる。

「伝令! 北砦の立花軍と島津軍が離反。本陣に向かって進軍中との報告です」
「立花と島津が?」
「はッ!」
「どうやら、秀吉様の策が彼らの怒りに触れたようですね。らしいといえば彼ららしいですがね」

溜息混じりに肩を竦める左近に三成の目許が鋭く光る。だが、三成の反応を予想をしていたのか、慌てる風もなく鷹揚に微苦笑さえ浮かべている。寧ろ楽しげとすらいえる。
そんな左近をもう一度睨み付けると、小さく舌打ちをする。

「そのようだな。面倒な……」
「ええ、少々しんどいですが、彼らには兵を退いて貰わねばなりませんねぇ。さて、いかが致します」
「いかがするもなにもなかろうが……」

軽く揶揄するような口調の左近に三成はムッと唇を尖らせる。冷めた瞳が左近を睨め付けると、ヒラリと赤い髪が揺れた。

「左近ッ! 立花と島津を止めに行くぞ!!」

馬上の人となった三成は、素早く馬主を翻すと北へと馬を駆る。左近も主を追うべく己を愛馬を呼ぶのであった。