春酔の夜


城下の石田三成の屋敷――――――
その一郭に先日、高禄で持って召し抱えられた島左近の一室がある。

陽は橙色の残光を投げかけながら、今にも山の端に沈み行かんとする。その反対方向からは、満月には足りない十三夜月がその姿を現していた。
庭に面した障子を広げ、夕闇の風がどこかで咲く桜の花弁を運ぶ。風に舞った花びらが、手中の杯に静かに舞い落ちる。朱杯に満たされた酒に小さな細波が現れ消えた……
そんな風流な情景も、今のこの男の心には響かない。杯に満たされた酒の中を泳ぐ桜の花弁を見ながら、心を占めているのは別の影。


     今日も遅いのか……


連日、残務のためろくに休息も取らずに城詰めをする年若い主を思い、深い溜息を吐く。日に日に疲労の色を濃くする主を気遣い、何度も休息を取るよう進めたのだが、一向に聞き入れる様子はない。


     まったくどうしたものか……


ユラユラと揺れる朱杯を飲み干すでもなく、ボンヤリと濃紺の空を見上げる。―――――と、

「随分と優雅なものだな」

開け放した明障子の向こう。今まで脳裏を占めていた当人が、薄闇に包まれた庭よりその姿を現した。昇り始めた月明かりに照らされた三成の右手には酒瓶がぶら下がり、左手には満開の花を蓄えた桜の一枝が揺れている。

「殿の方こそ珍しく風流なものをお持ちですな。よくお似合いですよ」

今迄思いを占めていた人物の突然の帰還に内心驚きもしたが、それよりもその手に持つ酒と桜は、この主にしては妙な取り合わせだと相好が崩れる思いがした。
普段、好んで酒など召さない三成がそれを持って訪れたということは、左近のために用意したことを指す。

「酒は兎も角……殿と桜ね。月明かりに栄えますな」
「戯言を云うな。酒の肴にと思って桜を一枝頂戴してきたが……優雅に月見酒と洒落込んでいたのであれば、邪魔なようだな」
「なんのなんの。月と桜と旨い酒に何の文句があります。第一、殿がわざわざお運び頂いたのを邪魔だと左近が思うとお考えか?」
「フン…なら良いのだがな」

能面のような無表情で冷淡に云い放つその言葉は、聞く人が聞けば皮肉としか聞こえない。だが、短い付き合いながらのそれが皮肉ではなく、単なる照れ隠しの一種であることを左近は理解をしていた。


     ようするに……言葉も表情も足らないんだよな。このお人は……


表面上の付き合いや「横柄者」という先入観で三成を見る者たちでは、気付きようもない程の微細な表情の変化や感情の流れ。その表情の変化に気付くのは、三成という人間と正面から向かい合おうとするほんの極一部だけ。
嘘でも「表情」を取り繕うことが出来れば、今よりも確実に敵は減るのであろうが、生来の頑固さと潔癖の強さが、それを邪魔する。所謂、本音と建て前の使い分けが出来ないのである。


     ま、そこが一種の魅力といえば魅力……なのか?


確かにこの美しい主の本質を理解出来るという「優越感」には、非常な魅力を感じる。そう考える自分を認識すると、思わず苦笑が漏れるのであった。



「なんだ? ニヤニヤと気色の悪い」
「なに、珍しく早いお帰りだな……と。余程、左近にお会いになりたかったのですか?」
「そんな訳あるか! というか、貴様のせいで酷い目にあったわッ!!」

柳眉を逆立て憤然とした顔で云い放つ三成を左近は面白いものを見るように顎に手を当て笑みを深める。

「ほう、俺のせいで酷い目に?」
「笑うでないわ! 貴様、おねね様に余計なことを云ったこと覚えてないか?」
「さて……」
「なら、思い出させてやる」
「それなら……そのような庭先などではなく、どうぞお上がり下さい。酒の肴にじっくりと聞かせて頂きましょうか」
「当たり前だ。第一、ここは俺の屋敷ではないか。どこに上がろうと俺の勝手だ!」

ドカドカと足音を立てながら庭先から縁側に上がる。挙げ句、障子を足蹴にしてバタンと開いたかと思うと、左近の側にドカリと座り込む。その乱雑な動作に手にしていた桜の花びらがハラリハラリと舞い散る。

「もう少し静かに上がれませんかねぇ。折角の花が散ってしまいますよ」

三成の子供染みた所作に左近は声を立てて笑うと、その一枝をそっと三成の手から取り上げ自分の手元の酒瓶に桜を生けた。

「なんだ。酒を桜にやってしまうのか?」
「なに。左近には殿のお持ち下さった分があります故」
「貴様にやると決まったわけではないぞ」
「おや、それにしては、殿お一人で飲むには随分と量があるようですが?」
「フン……好きにしろ」
「では、まず殿より一献」

そう云うと、左近は桜の花弁の泳ぐ己の朱杯を三成に差し出した。





月は洋々と夜の空を昇って行く。その様をユルユルと見上げながら、ささやかな酒宴は佳境を向かえていた。

「……という訳だ。まったく、貴様の愚痴のせいでとんだ厄日だ」
「それはそれは……」

左近は、声を押し殺し笑いを必死で堪える。

「笑うなッ!」

三成は、そう一言怒鳴りつけると、中身の軽くなった酒瓶から手酌で酒を杯に注いだ。酔いのせいか本日あった『酷い出来事』を思い出したせいか、乱暴に酒を注いだため杯から酒精が零れ落ちる。

「それは、申し訳ありませんでしたな」

そう口にしつつも左近の忍び笑いは収まらない。クツクツと喉の奥から笑い声が漏れ聞こえる。

―――――で、左近を安心させるため、わざわざ起こし下されたのか」
「……お、おねね様に言われんでも今やっている仕事の片がついたら、ちゃんと左近と……その…酒でも飲むつもりであったぞ」

三成の少々バツが悪そうな物云いに左近の忍び笑いが重なる。

「ほ、本当だぞ! おねね様は余計な気遣いをせんでも良かったのだッ!! と云うか…お陰で今日一日、無駄に潰れてしまったぞ」
「でも、確かに昨日よりはお顔の色は良いですぞ」
「……左近までそのような」
「しかし、心ならずも殿のお仕事の邪魔をしてしまいましたな。仕方ない。殿のご負担が減るまで祐筆の真似事でも致しましょうか?」
「フン…勝手にしろ!」

笑いの止まらない左近を目で咎めつつ、三成は杯を一気に開けた。―――――と、グラリと視界が回る。そのまま、倒れ込むかと思いきや、ガシリとした大きな手が三成の身体を受け止めた。

「っと、どうやら酔われたようですな」
「……そのようだな」

本当は酔ったことを否定したいのだが、酔いのせいで顔が赤く火照るのを自覚している上、この様では否定の仕様がない。一息吐き、左近の手を借り手近にあった脇息に凭れた。

「政務でお忙しかった身。お疲れが残っておられるのでしょう。余り無理をされずにそろそろ寝まれよ」
「そうだな。だが……」

左近の云う通りなのだが……

「もうしばし……こうしていてもよいか?」

ほろ酔い加減の心地よさが捨てがたく、ぼんやりとした面持ちで満たされぬ十三夜月を見上げて呟く。

「お風邪を召しますよ」
「日頃から『たまには、気を休めろ』とか言っている癖に……今は、久方ぶりに心地がいい」
「まったく、仕方のないお人ですね」

不意に三成の肩に暖かいものを感じる。見ると、左近が自分の羽織をそっと三成の肩に掛けていた。

「いましばし、そうされていてもよいですよ」
「……すまぬな、左近」

三成がゆったりと微笑む。左近は、こういう風に機嫌よく微笑む主を見るのが好きであった。
しばしの間、静かでたうたうような穏やかな時間が過ぎる。
左近は黙して酒を飲み、三成はそんな左近や生けられた桜の枝、開け放たれた障子越しの春宵の月を眺めていた。

「殿、そのように左近を見て面白いですか」
「面白くはない。が、こっちからだと月も桜も左近も同じ方向にいるのだ。仕方あるまい」
「それでは、殿の月見を邪魔してしまいますな。少し退きましょう」

だが、三成は少し思案げな顔をすると、

「よい。左近がおった方が絵になる」
「はっ?」

左近は、三成の思わぬ言葉に自分でも間の抜けていると思う声を上げた。
唐突な主君の言葉に左近は訊ねる。

「左近は絵になりまするか?」
「なる……と、思う」

三成の珍しい褒め言葉に左近は苦笑した。こんな褒め言葉の一つや二つ散々妓楼の美女たちから妖艶な香りと共に受けていたはずのだが、三成から受けるそれは、妓女たちから受ける賛辞よりも嬉しくもこそばゆい思いがする。

「それは、過分なお言葉。左様に左近は良い男ですかな」
「当然だ。俺の禄の半分を出した男が良い男でないわけがない」

臆面のなくきっぱりと云い切る三成に左近は苦笑を重ねる。


     やはり、相当酔っておられるなぁ


丁度、宵もだいぶ回っている。明日も城詰めをする主をそろそろ寝所へ連れて行かねばならない。心地よい気分に浸っているところに水を差すようで申し訳ない気がするが、これも家臣の務め。

「殿、夜もだいぶ更けました。そろそろお休みになられてはいかがですか?」
「……嫌だ」

即答。

「……嫌だって…明日も城で仕事されるのでしょう」
「折角のよい気分に水を差すな。わかった。もういい、ここで寝る」
「……ここは、俺の部屋なんですが…」
「ここは俺の屋敷だ」

「文句があるのか」となぜか叱責される。どうやらこの頑固者はテコでも動くつもりはなさそうだ。こういう我侭も禄の内なのだろうかと小さく溜息を吐いてみるも、その我が儘が厭でない自分が可笑しくなる。

「なら、寝付くまで何か話しでも致しましょうか?」
「……そうだな、どんな話がある」

からかい半分に子供のように寝物語でもと申し出たところ、割とあっさりと承諾されてしまった。が、左近も冗談半分であったため、これと言った話の内容が思いつかない。

「さて……戦の腕を禄で買われたのですし、左近の手柄話でもしますか?」
「こんな心地よい夜に無粋だな」
「はは、これは手厳しい。なら……」

どうすれば主の機嫌を損ねずにすむかと思案顔の左近の目の前を夜風が桜の花びらを攫って行く。

「寝物語ではありませんが、左近が一指し舞いまする故、これで寝て下さいね」
「左近がか? 舞えるのか?」

脇息に凭れた姿勢のまま小首を傾げる。目には好奇の色を湛えていた。

「嗜み程度のものですよ。戦場で舞う殿ほど、美しくはありません」
「フン、ならやってみろ。みっともなかったら酷いぞ」
「ご期待に添えるよう努力致しましょうかね」

クスクスと笑い出す三成を横目で見遣り、左近が酒瓶に生けていた桜の枝を手に取った。





舞の謡いに合わせて薄紅色の花が揺れ花弁が零れると後を追うように袖が翻る。

桜の光跡が上がる。
何も持たぬ左手が下がる。
畳を滑る足が下がったかと思うと、風を孕んで黒髪が揺れた。
朗々とよく響く低い声が謡曲の節を辿る度にゆったりと桜の枝が舞う。


     酒に酔うているのか…それともこの男に酔うているのか。夢見心地とはこういうことをいうものか……


三成は、目を細め青白い月光に浮かぶ男を見つめる。


     この男が俺の……


己の胸中に渡来する感情をなんと呼ぶのだろうか。この男が自分の側にいてくれるという安堵感、高揚感。そして、その男が己の身を案じてくれていたという嬉しさ、気恥ずかしさ。そんなない交ぜになった感情が、なんともいえず心地いい。


     こんな心持ちになったことなぞ…今まで…なかった…な……


うっすらと霞のかかった思考は、そのまま安息の眠りへと落ちて行った。



「やけに静かだと思ったら……」

謡が終わり舞い終えた左近が息を整え時には、すでに三成は健やかな寝息を立たてていた。

「そんなに左近の舞は、詰まらなかったんですかねぇ」

左近は、思わず「はぁ〜」っと溜息をつくと頭をかきつつ三成の床を整えるため、隣にある自分の寝所へと向かった。



「殿〜。って、やっぱり寝ちゃっていますね」

床を整え自室へと戻った左近は、脇息にもたれて熟睡をしている三成の側に屈み込み、その寝顔を伺う。子供のように安心しきったようなその寝顔に左近は脱力した。

「あぁ〜、少しは見惚れてくれると思ったんですけどね」

しばしの間、その寝顔を見つめる。やがて、伸ばした手が三成の髪を撫でる。絹糸のようなサラサラとした感触が指の間を滑る。何度か髪を梳くように遊ぶが、三成が起きる気配はない。

「ま、綺麗な寝顔が拝めたからよしとするか…」

燗の強いこの主が安心して熟睡をしてくれるのである。おまけに綺麗な寝顔の見放題。これは、家臣としては破格の信頼であろうと左近は一人細く笑む。
左近は眠っている主を起こさぬようそっとその身体を横抱きにする。―――――

「…左近?」

左近の腕の中の主がうっすらと目を開ける。

「あ、起こしちまいましたか? すんま……」
「左近……頼りにして…いる…」
「へっ…!?」

半覚醒の茫洋とした瞳は、すぐまた眠りの淵へと落ちてゆく。
思いもよらない三成の言葉に左近は鼓動が早くなるのを感じた。頬が熱くなりどうしようもなく緩んでゆくのを自覚した。左近は、三成が眠っていることに感謝する。


     こんな顔、誰にも見せられんなぁ


寝室に整えた褥に三成の身体を横たえそっと布団を掛けると、左近はそっと己の頬を撫ぜた。

「まったく…左近にこのような顔をさせるなんて。殿もなかなかやるじゃないですか」

安らかに寝息を乱さぬようそっと寝所を抜け、春酔いの月が見える部屋に戻る。文机の酒杯に残りの酒を注ぐとそれを一気に煽った。酒精が喉を通り体中に染み渡るのを感じる。
ほう っと息を吐き、煌々と照る月を見上げると、現在の懸念を口にする。

「さて……布団を殿に明け渡しちまったし、どこかでもう一組、布団調達しないとな。ま、それは殿付きの小姓や侍女を捕まえるとして……」

と、三成の眠る寝所に目をやる。

「殿と同じ褥……というのは今後のお楽しみとするかね」

家臣としては不適当な台詞を小さく口にすると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ左近は自室を後にした。





fin
2006/05/23


主従両者から見たお互いというテーマ。
舞のシーンが無理やりって気もしますが、どうしても左近に舞をさせたかったんです(><)