春眠
「みーつなりー♪」
予告もなくカラリと襖戸が開き、明るい声が室内に響く。
「おねね様?」
文机に座し書き物をしたためていた三成は、迷惑極まりないという不機嫌な声色で主家の奥方を迎えた。
「一体なんの用ですか? ご覧のとおり政務中です。普通に邪魔ですから帰って下さい」
戸口のねねを一瞥しただけで、プイッと再び書に目を戻す三成の周囲には、書籍や書簡その他諸々の紙類が散乱し、足の踏み場を探すのがやっとの有様だった。
「知っているわよ。だって、左近に嘆かれたもの〜」
あはは、と無邪気に笑うねねの口から左近の名が出る。
――と、書から目を上げ三成が小首を傾げてねねに向き直る。
「左近が何か?」
「『殿がちっとも休んで下さらぬ』って……あなた、ここのところ、ろくに睡眠も取っていないんですってね!」
「……政務が溜まっているんです。仕方ないでしょう」
「だからって、家臣に無用な気遣いをさせるなんて、感心しないなぁ」
「ほっといて下さい。おねね様には関係ありません」
そう云うと三成は、拗ねたように黙ってしまう。口元が僅かにへの字に曲がっている辺り、まるで子供の拗ね方だ。大事な家臣……もとい同志である左近に心配をかけてしまっていることに後ろめたさを感じているのであろう。
だが、このまま素直に自分の忠告を聞いて身を休めるなど、この頑固者は決してしないことも彼女は知っている。
「無理に休めとは云わないわよ。でもね、疲れた時には一息入れるものよ」
「疲れてなどおりません」
間髪入れず、ねねの言葉を否定する三成。が、外から差し込む春の暖かな陽の光に照らされた秀麗な目元にはうっすらと隈ができ、疲労の色が滲み出ている。
秀吉に認められたいがため、武功では加藤清正や福島正則に劣る分を埋め合わせようと、必死に政務に取り組んでいる結果である。
そんなことしなくても、うちの人もあたしも十分に認めているのにねぇ……
そう何度も諭しているのだが、まったく聞き入れない。
まーったく……ホント、素直じゃないんだから……
「どうしてこんな素直じゃない子に育っちゃたのかなぁ……」などと心の中で嘆息しながらも、こういう場合の対処方法も、長い付き合いからちゃんと心得ている。
「でもねぇ。ちゃんと仕事したいなら、一息入れなさい。ほら、こういう時には、甘い物がいいって云うでしょ?」
「…………」
「ね♪ 気分転換、気分転換♪ 仕事の能率を上げるには、ほんの半刻、手を休めることも大事よ。それくらいなら、そんなに仕事が遅れるわけでもないでしょ?」
「…………」
ほらほーら。考え込んでいる。あと、一息だね!
「ほら、こうしてお手製のお団子も持って来たんだから♪ 三成の好みにあわせて、甘さも控えめだよ。外もいい天気で、桜の花が見頃だしお花見しようよ♪」
「…………わかりましたよ。半刻だけですよ」
渋々っといった風ではあるが、ねねの提案に重い腰を上げる。どうやら、ねねの作戦は功を奏したようだ。
「うん、ありがとう、三成!」
「……なんで、おねね様が『ありがとう』って云うんです? 普通は……」
「普通は? なぁに??」
「……いえ、なんでもないです」
自分が云わんとした事に気がつき、慌てて目を逸らして誤魔化そうとする三成。
やっぱり素直じゃないわねぇ……
と、こっそり苦笑をするねねであった。
桜咲き誇る春といえども、日が落ちると肌寒さが身に染みる。吹き抜ける風の寒さに三成は目が覚めた。
「…………?」
なぜ、俺はここでいるのだ?
霞が掛かったように思考はぼんやりとしている。状況を把握できず、目は宙を彷徨う。その瞳に映るのは、咲き誇る満開の桜の薄紅と朱と濃紺が入り混じった夕闇の空だった。
「あ、目が覚めた?」
頭上から聞き慣れた声が聞こえる。
「……おねね様?」
「はいはい、そろそろ起きてくれないかなぁ。このままじゃ風邪引くよ」
起きる? 俺は寝ていたのか? でもなぜ……
鈍った思考を奮い立たせて、状況を整理する。
確か、おねね様に誘われて……中庭の桜を見ながら休憩にと差し入れの団子とお茶を……その後、急に眠気が……
そう思い至った瞬間、鋭敏な三成の頭脳は理解した。
「おねね様ッ!!」
勢いよく飛び起きようとした瞬間
――――――――
ゴッッ!!!
「
――――――――ッ!!」
低く鈍い音がし、三成の額は何かと激突をした。目の前が暗転し痛みと衝撃に言葉もでない。その頭上でも同様に………
「
―――――ッたぁ〜〜〜〜!!」
と苦悶の声がする。
目尻に涙を浮かべつつ痛みを堪えて目を開ける。すると
――――― 三成の頭上で、ねねが顎を押さえて同じように目尻に涙を浮かべている。
どうやら、勢いよく飛び起きた瞬間に三成の顔を覗き込んでいたねねの顎とぶつかったようだ。
でも、何ゆえ?
――という疑問は、すぐに氷解した。自分の後頭部を包む柔らかな感触。それは、硬い土や芽吹いたばかりの下草の青臭さとも違うものだ。
こ、これは……ひょっとして……
額の痛みを堪えて、首をほんの少し右に傾けてみると、予想は図らずも当たっていた。
ひ、膝枕
―――――――――――ッ!!!?
「お……おねね様ッ! こ、これはッ……!!?」
「はいはい、そんなに慌てないの。意外とせっかちな子だね」
慌てて起き上がろうとする三成の肩をねねが優しく押し返す。この場合、『せっかちな子』という名称が当てはまるかは、疑問の余地が残るが、三成は取り敢えず大人しく従い、再びねねの膝枕に頭を預ける。
額がズキズキと痛む。
赤い痣となっているであろう額を手で押さえつつ、三成はねねを睨みつけた。もちろんその眉間には、痛みと不機嫌さからくる深い皺がしっかりと刻み込まれている。
「……謀りましたね。団子かお茶に一服盛ったでしょう?」
「うん♪」
「……まったく…なんでまた」
「だって、あなた、あのまま仕事漬けになっていたら、倒れちゃうわよ」
「……ほっといて下さい」
「ほっとけないから、強硬手段にでたのよ」
「……結局、力ずくですか」
相変わらず強引な……
と、思うものの、三成はその言葉を呑み込み、代わりに小さく舌打ちをした。
そんな三成の心の内を知ってか知らずか、ねねは三成の顔を両手で包み、無理やり自分の方に顔を上げさせ、じっと三成の顔を覗き込む。
「いいじゃない。ほら、顔色も随分良くなったし♪」
「そんなにひどい顔をしておりましたか?」
「していたから、無理にでも休ませたんじゃないの。ホント、自覚のない子だね」
そんな三成を微苦笑で見つめながら、ねねは三成の朱色の髪を梳いた。
「……まぁ、この顔色なら左近も一安心ね♪」
どうやら、今回のねねの所業は、左近がねねに言った『殿がちっとも休んで下さらぬ』という一言が原因らしい。
そんなに心配をさせていたのか……
そんな思いとは裏腹に、溜息と共に口から出るのは
――――
「フン…左近め。余計なことを……」
口を尖らせ悪態を吐くが、白皙の頬がほんの少し赤く染まる。
「こらこら、左近はあなたが大事だから心配をしただけでしょう。今日はもう屋敷に帰って左近を安心させておあげなさい」
「…………そうします」
今度は、ゆっくりと身を起こす。
身体に降り積もった桜の花びらがハラハラと舞い落ちる。落ちる花びらの数や空模様からも、かなりの間、自分が熟睡をしていたことが窺い知れた。
随分、長く寝ていたものだ。
いくら薬の作用とはいえ、ここまで寝入ってしまったのは、やはり相当疲労が溜まっていた証であろう。だが、そうすると
―――
「あの……おねね様」
振り返り、ねねを見下ろす。ねねは変わらず、桜の木の根元に座したままだ。
ああ、やっぱり……
「立てますか?」
空が刻む時の移ろいから見ても、かれこれ二刻以上は経っているはずだ。その間、ずっと膝枕をしていたのであれば、いくら忍として鍛錬を積んでいるねねであろうと、脚が痺れぬわけはない。
ねねは、悪戯が見つかった子供のような苦笑いを浮かべる。
「ありゃ、ばれちゃった?」
「少し考えればわかりますよ」
呆れたという風に嘆息をするが、頬の赤みが微妙に増している。ずっと膝枕をされていたことに、改めて照れているのだ。
「脚が痺れて立てなくなるくらいなら、膝枕なんてしなければよいでしょうに……」
「いいじゃない。昔はこうやってよく……」
「もう、いいですから! ほら、捕まって下さい」
放って置いたら子供時代のあれやこれなど、思い出したくもない昔話をされかねない。三成は、慌てて手をねねへと差し伸べた。
「はいはい。ホント、佐吉は昔から照れ屋さんなこと」
「ッ……!? もう、本当にいい加減にして下さいッ!!」
「はいはい。そんな耳まで真っ赤になって照れなくてもいいじゃない」
ねねは、薄明かりの中でもはっきりわかるくらいに赤くなっている三成を揶揄しつつ、その手を取り、痺れた脚に負担をかけぬようゆっくりと立ち上がった。
そして、止めに一言。
「それにしても、佐吉の寝顔はホントーに可愛いこと♪」
「ッッッ!!!!」
絶句し反論もできずにいる三成を横目に、「眼福♪眼福♪」などとのたまいながらねねは、軽く伸びをする。最後に「ちゃんと左近に謝るのよ」と半分石になりかけた三成の肩を軽く叩き、ねねは軽やかにその場を去って行った。
三成は、ねねが去った先を眺めながら、深い溜息をひとつ吐き出す。
「まったく、おねね様には敵わん」
そう呟く自分の口元が優しく微笑んでいることは、余人どころか本人すら気づかない。知っているのは、夕風にそよぐ桜の花のみ
――――――――――――
風がざあっと、一吹き。桜の花がハラリと舞い落ちた。
fin
2006/4/10
三成って、絶対にねねに逆らえないと思います。