四百四病のほか


「妲妃の守役、殿には似合いませんよ?」
「くっ、お前が来るとは計算外だ。消えてくれ」

長谷堂の戦い。あの苦い邂逅から何ヶ月が経ったのだろうか。
今や曹魏は、遠呂智の支配下を脱し対遠呂智の一軍として頭角を現しつつあった。
他に趙雲率いる「漢蜀」。孫策率いる「孫呉」。織田信長率いる織田軍と確実に遠呂智の勢力を削ぎ落としていく。そんな中、各反乱勢力は、時に直接、時に間接的に協力をしつつ戦いを進めていった。

だが、曹魏と共に立った今でも、あの男との再会の日はいまだに来たらない。
遠くに離れた上、曹魏、孫呉の一員として互いに多忙な身。そう簡単に会えないと理性ではわかっていても、「薄情なヤツだ」と人知れずに感情を爆発させたこともあった。

しかしそれも、少し前までのこと。

居室へと向かう三成の足取りは軽い。
綻びそうになる口元を引き締めて平静な自分を装うが、急ぐ歩みを緩めることは出来なさそうだ。
今の三成の心を占めるのは、左近から届いた手紙と添えられた錦の袋。
突然、送られてきたその手紙には、自分の近況と三成を心配する内容が認められていた。その最後に「愛していますよ」という結びの甘い言葉。
その甘い言葉を思い出して、三成は微かに頬を染める。
「左近を思い出して寂しくなったらこれを……」と手紙に添えられた錦の袋。掌一杯の大きさのそれを受け取った時は、「痴れ者が……」と小さく毒づいたが、今では毎日それを取り出しては、そっと再会の日を待ち望む日が続く。
今日も一日の終わりに、それを手に密かな楽しみに寂しい心の裡を慰めるつもりであった。



己の居室に近づいた時、三成は不意に足を止めた。
戸が開け放たれ、中からゴソゴソっという物音がする。

「賊か? 俺の部屋に侵入するとは阿呆が……」

よりによって自分の部屋を選ぶとはと、哀れな賊に若干と同情と大いなる怒りを覚えて、三成はフンッと鼻を鳴らす。
愛用の鉄扇を手にし、足音を忍ばせてそっと戸口に寄る。
壁を背に部屋を覗き見ると――――――

見覚えのあるまるまるとした巨体が机の辺りをゴソゴソと動いている。隠れるつもりがないのか、それともあの巨体では隠れることも出来ないのか。机の前。そこの床に座り込んで巨体が揺れる。
どちらにしても、侵入者の正体は見知った者。無断で人の部屋に入り込むという不埒な行為を侵した者でも、見知った者ならいきなり手打ちにするのも多少は心が引ける。
鉄扇で打ち据える前に言い訳のひとつでも聞いてやろうと、三成は侵入者に言葉の網を投げかけた。

「何をしている。許チョ」
「ッ!!」

ビクっと巨体の肩が震えると、許チョは小さな丸い目をまんまるにして三成を振り返った。何やら口の辺りがモゴモゴと忙しない。
三成は無言でスゥっと目を細めて許チョを睨む。その冷たく鋭い視線に耐えられず、許チョは丸い眼(なまこ)をキョロキョロとさせる。だが、三成の問いかけには答えない。いや、どうやら「答えられない」らしい。

「何をしているのかと聞いている」

三成の再度の誰何の声に、今度はモゴモゴと動く口を太く丸い手で覆い隠す。
今更、口中に何かを含んでいることを隠し立てしても遅いというのに、悪戯を見咎められた子供がその痕跡を隠そうと試みるかのように必死に口元を隠し中のものを喉に押し込もうとしている。

「言い方が悪かった。貴様、何を食っている?」

そこでハタッと三成の思考が停止する。


     俺の部屋に食い物など……


あるわけはなかった。たったひとつを除いては……

三成の視線が、許チョが座り込んだ辺りを彷徨う。
見つけた。
机の引き出しの奥深くに仕舞っていあったはずの錦の袋。それが許チョの膝の上で大きく口を開けている。

次の瞬間――――――

城内に響き渡る三成の怒声と物が壊れる派手な騒音。そして、許チョの悲鳴がそれに続いた。









「いったい、何の騒ぎだ」

眉間に深い縦皺が刻まれる。
問い詰める機嫌の悪そうな声と共に深い溜息が吐き出された。
目の前の光景に曹丕は軽い頭痛を覚える。

目の前には、丸い顔をグシャグシャにして幼児のように泣きわめく許チョ。それを氷のような冷たい瞳で睨みつける三成の険悪な顔。そして、騒ぎを聞きつけたやって来た曹魏の軍の面々。
静かな夜は一変し、ガヤガヤと喧噪も甚だしい。
これからの戦いの行く末を思案し、曹魏の覇道に思いを馳せる静夜の一時を邪魔された最悪の気分。それを再び溜息として吐き出し、曹丕はもう一度云った。

「いったい、何の騒ぎだ」



「部屋に侵入した賊を手打ちにしたまでだ。問題はなかろう」

最初の答えたのは三成の冷徹な声。

「三成が、約束を守らないのが悪いだよぉ」

それに反論するのは、涙声の許チョの丸い声。
その声に、不快感も露わに三成の柳眉が跳ね上がる。

「約束? 俺と貴様との間で、いつどんな約束をしたというのだ?」
「昨日の戦いで、三成が危ないところ助けたでねぇか。そん時だぁ」
「は? 確かに危ないところに援軍に来て貰ったが、いったいどんな約束をしたというのだ!?」

昨日の戦い。混戦の中、突如の伏兵に襲われた際、許チョの活躍で危地を脱したのは事実である。しかし、あの戦の最中、許チョと「約束」をする程に会話をした覚えはない。
首を傾げる三成にエグエグと嗚咽混じりの許チョが抗議の声を上げる。

「したでねぇかッ!忘れたとは云わせねぇぞッ!!」
「なんだとッ! 脳まで胃袋の貴様が覚えていて、この俺が忘れる訳なかろうがッ! 約束なぞした覚えはないッ!!」
「三成、待て。許チョ、ちゃんと話してみろ」

膂力でなら許チョに劣ると云われても文句は云えないが、頭脳の点に置いて彼に劣るとは微塵も思ってはいない。その許チョに「忘れた」と云われて、三成の矜持が傷ついた。言葉も荒く反撃をする三成に、云った云わないの泥仕合が始まりそうな予感を感じ、曹丕は不承不承ながらも仲裁に入る。



「おいらが三成を助けた時、三成は……」

当時の状況を思い出そうと許チョは唸りながらポツポツと口を開く。

「えっとなぁ……あぁ、そうだぁ。『あとで飯くらいなら食わせてやろう』って云っただよぉ」
「三成。そう云ったのか?」
「……確かにそう云った。だから、俺はこいつにたっぷりと飯を食わせたぞ」

もしそれが「約束」ならば、その約束は疾うの昔に実行されている。「約束」通り、兵糧を担当する者に命じて、常時の三倍(許チョ比率)のご馳走を許チョには振る舞っている。
三成の中で「約束」は完全に消化されていたのだが、許チョの方ではそうではなかったようだ。

「あれは曹操様や曹丕様の出すご馳走と一緒だぞぉッ! 曹操様にも曹丕様にも、あれと同じもんを腹一杯食わせて貰っているだ! だけど、三成は違う世界から来たんでねぇか。だから、曹操様と違うもんを食わせてくれるんだと楽しみにしていただのに……」
「はあ?」
「あれじゃ、三成が食わせたうちに入らねぇだ!」

許チョの言葉に三成は唖然とする。それは、集まった曹魏の面々も同じだったらしく、みな一様に目を丸くしていた。

「あいつ……。食い物だったらなんでもいいってわけじゃないんだ」

誰かがボソリと呟いた。

どうやら許チョは許チョなりに食に対する信条を持っているらしい。ここは曹魏の軍。当然出される食事は基本的に曹魏の流儀に沿っている。だから、ここの食事は曹操や曹丕が食わせてくれた物。許チョはそう思っている。
ならば、他の出自。特に三成などが「食わせる」と云ったからには、自分が見たこともない別世界のご馳走を用意してくれる物だと信じていた。
許チョは、大きな胸を更に期待に膨らませて待った。だがしかし、なんてことだろうか!? 出てきたのは曹操や曹丕が出す食事と同じ。ただ、単に量が多いだけ。
期待は失望へと代わり、最後には怒りに代わった。

「だから、昨日の晩に三成に文句を云いに行っただよ。そしたら……」

許チョは、怒りも露わに頬を子犬……いや、子豚のように膨らませると、ブウッと三成を睨みつける。

「三成が何か部屋で食ってただよ。なんだか、とっても美味そうな顔して嬉しそうにひとりでこっそり食ってただ。ずるいでねぇかッ! あんな顔をする程、美味しい物をおいらに食わせねぇで独り占めするなんてッ!!」
「…………」
「それで、三成の部屋に忍び込んでそれを食べたのだな」
「美味かっただぁ。甘かっただぁ。あんなに甘くて美味い物を食ったのは初めてだぁ。曹丕様も食うといいだ。ほっぺが落ちるってやつだよぉ」

そう云ってとろりと今にも蕩けそうな表情を浮かべる。うっとりと満ち足りたその顔は、口中のその魅惑の甘さを思い出しているのだろう。
許チョは、床に落ちていた錦の袋を曹丕に差し出した。
それは――――――
手紙と一緒に左近が三成に送った物だった。


一緒の送られた錦の袋には、星粒形の甘い甘い金平糖が目一杯詰め込まれていた。
それを一粒一粒、口に含む毎に、三成は次の手紙を待ち侘びる寂しい心を紛らわせる。
「ひょっとしたら、金平糖を全部食べたら左近と会えるのだろうか」などと夢想することもあるが、やはり勿体なくて三成は毎日一つずつ。大事に大事に口に運ぶ。
これを送ってきた不遜な男を思いながら……


「これはお前の物か、三成?」
「…………」

答えはない。
問われた三成は、顔を青くしたり赤くしたりしながら、ただただ言葉もなく立ち尽くしていた。曹丕の問いなどまったく耳に入っていない。


     見られた……あれを見られていた……


今、三成の頭を占めるのは、その一点。余りの恥ずかしさに思考が完全に停止する。ひとりで左近を思う時の甘い顔を他人に覗き見られていた。その事実だけで、目の前が真っ暗になりそうなのに……


     細心の注意を払っていたのに! よりにもよって、こんなところで暴露をされるなんて!!


許チョの言葉を真に受けるなら、甘いお菓子を独り占めにする子供じみたヤツだと思われるのかもしれない。
「あの冷徹そうな三成が夜にこっそりと部屋で甘い菓子を美味しそうに頬張っている」
間違いではない。その裏に隠している真実は兎も角として、取った行動として間違ってはいない。その行動が、曹魏軍の面々に知れ渡ってしまった。その行動をそのまま受け取られるにしろ、本当のことを云うにしろ、どちらにしても、三成の矜持の許容範囲を遙かに超える事態が起こっている。

できるならば、すべてがなかったことにならないのか。
三成は、停止する頭の片隅で、ひたすらそう願っていた。





「三成。おい、三成」

いくら呼びかけても三成は呆けたまま、こっちに戻ってくる気配がない。呆然とする三成の目の前で手を振ってみても反応がない。
これはこれで、非常に興味深く面白い事態ではあるのだが、自分は事態を悪化させる側ではなく事態を収める側である。事情をどのように処理するにしても、まずは原因となった物からの検分から始めよう。

「フン、まぁいい。これは菓子か?」

三成の処置はひとまず置いて、曹丕は許チョから受け取った錦の袋の中身を己の掌に開けてみる。袋は見た目よりも随分と軽い。元からそうだったのかもしれないが、三成の剣幕を考慮すると袋の中身の大半を許チョが食べてしまったと見た方がいいだろう。
中からは、ザラザラっと星の形をした色とりどりの粒が出てきた。この魏の地では見たことがない。三成の世界の菓子なのだろう。
曹丕はその星の粒をひとつ摘むと、星の粒−金平糖−をひょいと口の中に放り込んだ。
カリリと粒を噛み締めると口中に甘味が広がる。


     うむ。悪くはない。


これならば、確かに独り占めをしたくなる気もわかる。
曹丕は口の端をほんの少し上げると、興味津々にこちらを見つめる一同に向き合った。

「……確かに甘いな。砂糖菓子だな。甄よ。お前もひとつどうだ?」
「よろしいのですか? では、ひとつ……あら、甘い」
「へぇ、どれどれ? お、こいつはいけるぜ、惇兄」
「そうか? 俺にはちと甘いな」
「おいおい、俺様にも寄越せよ」
「わたくしもひとつ。まぁ、形も美しい」
「あ、ホントだ。おいしぃ〜。ねぇねぇ、もっとないのぉ、三成さん〜」

どこか甘えたような無邪気な妲妃の声が、薄膜を通したように遠くに聞こえるのを三成は微かに認識をした。
手に何かを押しつけられた。
視線を動かすと見覚えのある錦の袋。だが、その中にはなにも入っていない。
そろっと顔を上げてみる。見覚えのある連中が、各々これまた見覚えのある糖衣を纏った菓子を口に運び、好き勝手な感想を述べあっている。

「…………三成さん?」

誰かが自分を呼んでいる。
だが、ぼうっとした三成の思考は鈍い。


     思ったよりも早くになくなってしまったのだなぁ


「あぁ、こうなるんだったらもっとちゃんと食べておけばよかった」と思考は続く。

「三成さんってば!」

誰かが呼んでいる。誰だったけ?


     でも……ならせめて…左近に早くに……会えると…いいなぁ


いつもの夢想。真実の望みが霞む思考の果てに消える。
スゥっと目の前が暗くなると、そこで三成の意識は途切れた。



「ねぇ、曹丕さん。三成さん、卒倒しちゃったよ」

ドサリと何かが倒れる音がする。一同は驚いてそちらに視線を送ると、床に崩れ落ちた三成とその横で目を丸くする妲妃の姿。
一瞬、殺気立つ雰囲気に「わたしは、なにもやってないわよぉ!」と諸手を挙げて妲妃は口を尖らせる。
その光景に曹丕は人知れず深い溜息を吐く。事態は徐々に収まりつつある。少々、微妙な方向を向いているようだが……
その歪みが、今後どのような事態を引き起こすのか。
所謂、「イヤな予感」が脳裏に点滅するのを感じつつ、曹丕は此度、四度目の溜息を吐き出した。





「……三成殿。お気の毒に」

曹魏の面々から少し離れたところから浅井の夫婦はひっそりと事の成り行きを見守っていた。
卒倒し倒れた三成を見つめながら、お市は愁いを含んだ眉を寄せる。それに長政が応じた。

「金平糖は貴重品だからな、市」
「そう云う意味ではありませんわ。長政様」

夫の的外れな言葉に困ったように微笑むお市の手には、錦の袋から滑り落ちた一通の手紙があった。





fin
2007/04/08


「あとで飯くらいなら食わせてやろう」は許チョで三成を救援する時の台詞ですー。
魏ストーリーの5章以降がベースなので、曹魏の面々に妲妃がいます。
タイトルの「四百四病のほか」というのは、所謂、「恋患い」のことです。医者にかかる以外の病気って意味らしい。
OROCHIでは、三成は左近になかなか会えなくて、悶々としているが萌えかと……