良薬は耳に甘し
「?」
ポロリと筆が手から滑り落ちた。
落ちた筆はコロコロと転がり、真っ白な紙と青い畳を汚しながら漸く部屋の壁際で止まった。
ジンジンと痺れるような痛みが走る自分の白い手と汚れた白い紙と畳とを交互に見やりながら、三成は溜息をつく。
落ちた筆を拾うべく手を伸ばす。途端にズキリと鈍い痛みが広がった。不快そうに口を歪めて、今度はそっと手を伸ばして筆を拾う。
ムッと口元を曲げたまま、再び文机に向い仕事を再開させるが、すぐに手首の痛みのせいで筆を取り落とす。
不快なだけでなく苛立ちも募ってきたようだ。眉間の皺が深くなり、秀麗な顔立ちは不機嫌を体現したような面立ちとなっていく。
「殿。長束殿がこの書類に目を通して……って、なんて顔しているんですか。綺麗な顔が台無しですよ。」
両手に紙の束を抱え持って現れた家老は、呆れたように目を丸くして不機嫌面の主を宥める。
「五月蝿い」
「本当にご機嫌が悪いですね。なにかありましたか?」
いつもなら、「五月蝿い」の後に「顔のことを云うな」とか「俺の勝手だ」など、一言二言くらいおまけで付いてくるはずがそれもない。
この場合、三成の機嫌の悪さが頂点に達している時が多い。
三成の機嫌を察して左近が口を添えてやると、渋面のまま三成がズイっと白い手を腕ごと左近に突き出す。
「手が痛くて仕事にならん」
「どのように痛むのですか?」
とりあえず、左近は抱え持った書類を三成の文机に置いてから不機嫌な主を振り返る。
「痺れるように痛む。筆が上手く持てん。力も入らん」
そう云って、三成は顎をしゃくって畳の汚れを指す。黒い墨の汚れが点々と青い畳に染み入っている。
そこまで云えば、大体の症状は想像がつく。
左近は笑いながら三成の腕を取ると、そっと腕を撫でてやる。
「成る程。筋を痛められましたか。筆を畳に取り落とす程となると相当痛むのでしょう」
「何とかならぬか?」
「無理に酷使すると、更に酷くなりますよ。一先ず、手をお休めになったほうが賢明でしょうな」
「だが…………」
三成の視線は、文机の上の書類の山に注がれる。
書類に目を通しても、返書や指示を書き記すことができなければ仕事にならない。決済には三成の花押も必要だ。
三成の視線の意味を解して、左近はスッと硯に置かれた筆を手に取った。
「ならば、左近が代筆を致しますよ。殿はどのように書を認めればよいかを左近に教えて頂ければいい。花押は明日改めてということで……。本日はもう筆を持つのはお止めなさい」
「……致し方あるまい」
三成は、チッと小さく舌打ちをする。不本意だが、左近の云うことは正しい。仕方なく三成は、ずっと占領を続けていた定位置を左近に譲るのであった。
「だから、あれほど祐筆をお使いなさいと申し上げているではないですか。殿の仕事量は半端じゃないんですよ。筆を走らせる量だって相当な物じゃないですか。せめて、簡単な書類仕事くらい祐筆を使ってもいいんじゃないですか?」
するすると筆を滑らせながら左近が、己の背に凭れかかる主に苦笑を投げる。表情を窺い知ることは出来ないが、恐らく不機嫌そうに柳眉を寄せて頬を膨らませているに違いない。
案の定
――――――
「祐筆などいらぬ。一々、書く内容を説明せねばならぬのなら自分でやった方が早い。それに、俺の指示通りに動ける程に賢いヤツがおらぬ」
棘を含んだ声が、左近の苦言に抗う。声の調子と結びのフンと鳴らされた鼻息が、左近の想像が正しいことを裏付ける。
「やれやれ」と左近は眉を下げるが、主の負担を減らすべく尚も忠言を口の端に乗せた。
「いくら優秀でも、そうすぐに殿の指示通りに動ける者などおりはしませぬよ。こういうことは、多少、時間をかけて教えてやらねばなりませんとね」
「その時間が惜しいと云っている」
「まったく……。殿はせっかちなんですよ。せっかく、それなりの人材を推挙しても二三日で辞めさせてしまうんですから……」
「辞めさせた訳ではない。己から辞めていったのだ。だから、祐筆など要らぬと云っておる。それに……………」
「えッ? なんです」
先程までの威勢の良さと打って変わって、急にごにょごにょと三成の口の収まりが悪くなる。聞き取りづらくなった主の言葉に興味を掻き立てられて、左近が先を促す。と、思いもよらない答えが返ってきた。
「…………左近が悪いのだから…な」
「は?」
ボソボソと呟くような三成の言葉に、左近の筆が止まる。
驚いて肩越しに自分の背に凭れる主を見下ろすが、目に映るのは俯き加減の赤い頭だけ。重力に従ってハラリと肩に流れ落ちた赤毛の間から、白い項が垣間見える。
「左近が……ほれ、そのように……すんなり俺の意を汲んで……いつも、さっさと筆を進めてしまうから……」
そう呟く度に、三成の項にほんのりと朱が昇る。
「だから、左近が悪いのだッ! 祐筆を雇っても教え方など知るか!!」
そう一気に捲し立てると、白い項に昇った朱が色を濃くする。鮮やかに染まった項からも、伏した面や耳などはきっと真っ赤に茹で上がっているに違いないと容易に想像できる。
「…………殿。それはつまり……」
「何もそこまで真っ赤になるほどでもあるまいに」というこそばゆいような感情と、気位が高い主が口にした言葉の意味に湧き上がる嬉しさに、にやりと左近の頬が思い切り緩む。
左近は肩に掛かる赤い髪に優しく尋ねた。
「つまり、左近はちゃんと殿のお考えを汲めていると?」
「そうだ」
「左近は殿のお役に立っていると?」
「そうだ」
「だから、他では用は成さぬと?」
「そうだ」
「となると、殿は左近でないとダメだということですね」
「そうだ。……って、いったいダメとはなんだ、ダメとは!? それでは、俺が左近以外の家臣をろくに扱えぬボンクラみたいではないか!!?」
耳に注がれる甘い囁きに誘われ気恥ずかしい気持ちを素直に答えていたら、何故か最後に聞き捨てならない台詞を云われた。
先程まで辺りを覆っていた甘やかな雰囲気は微塵に吹き飛び、代わりに子供染みた癇癪声が書斎に響く。
そんな三成の眉間に皺寄せた脹れ面を横目で面白そうに見やりながら左近が笑い声を上げた。
「えぇ〜、だって、殿。左近じゃないと、ダメなんでしょ? 他の者じゃ思い通りにお仕事できないんです
よねぇ」
「あ、阿呆が! そんな訳あるかッ!! この俺を誰だと思っているんだ!!」
「なら、次の祐筆は、ちゃんと使ってやってくださいね」
「え?」
「おできになるんでしょ? 大丈夫。もう既に左近の方である程度の仕事は教えてありますから、殿のお手を煩わせるようなことはありませんよ」
「な…な………」
ニヤリと白い歯を見せて左近が更にクスクスと笑う。
「いやぁ。雇った祐筆をどうのようにして殿にお薦めしようかと悩んでおりましたが、斯様に乗り気ならば、問題はありませぬな。今度こそ辞めさせるようなこともないようですし……」
ただただ目を丸くする三成。
どうやらこの不遜な家臣は、主に雇い入れた祐筆をどうやって薦めるか機会を見計らっていたらしい。
折良く、三成が手の筋を痛めたのを好機と咄嗟に得意の軍略、もとい口八丁を発揮したという次第。つまり、まんまと左近の思い通りに事が運んだというわけだ。
今更、祐筆を拒んだところでもう遅い。祐筆を使いこなせなければ、自分で自分のことを「ボンクラ」だと証明してしまっているようなものだ。
「フ、フン! そこまでいうなら、左近の教育の賜物、しっかと見定めてやる。覚悟しろ、この痴れ者が……」
そう言い置くと三成は、盛大に鼻を鳴らし朱唇を突き出す。あとは唇を尖らせたまま、左近の背に凭れかかる。ムスッと押し黙ったままだが、立ち去る気配はない。
その拗ねたような甘えたような仕草は、左近の言葉を待つ三成の癖。そして左近はそのことを誰よりもよく知っている。
「では、左近の云うことを聞いていただけお礼に、後で痛むところをさすって差し上げますよ」
そっと肩に掛かる赤い髪を撫でつつ、左近は優しく囁いた。
2008/06/28