新春舞始


新年を祝う盛大な宴。
天下人の名に相応しい贅を尽くしたその宴は、山海の珍味を並べ甘露の美酒を饗し、金蒔絵の施された朱塗りの酒器を持つのは京や大阪の妓楼から集めたという佳顔の美女たち。
派手好きな秀吉の好みらしいと、左近は杯酒を見遣る。芳醇な香り立つ酒は、混ぜもののない極上品だ。
陪臣である左近らへの饗応ですら、このように目を瞠る豪華さなのだ。主である三成ら直臣や有力諸侯を招いた饗宴の場の豪奢さなど比べるべくもなかろう。
だが――――― と左近は微かに眉を寄せる。
どんな豪華な宴会であっても必ず人の心を楽しませるとは限らない。
左近は、手中の杯を一息に干した。
馥郁とした香気が鼻孔を満たし、喉を濃厚な酒精が潤す。しかし、滅多に口にすることのない天下の銘酒も、今の左近の心を楽しませることはなかった。
無為に消費される酒に申し訳なく、左近は杯を盆に置く。
そして、宴の喧噪を避けるようにひとり新春の風が吹く縁側へと出て行った。



庭を挟んで対となる棟。そちらからも、風に運ばれた宴の喧噪と楽の音が聞こえてくる。
今頃、三成もあの賑やかな座の中で秀吉からの歓待を受けているはずだ。
もっとも、三成は無用な贅沢を好まない。その上、今宵の宴席には、日頃から三成を嫌い、また三成自身も毛嫌いしている者どもも同席をしている。
その状況と主の性格がかみ合った時のことを考えると、どうにも酒を楽しむ気にもなれないでいた。
左近は縁側に佇みふっと小さな溜息を漏らす。そんな左近に声をかける者がいた。

「如何しました、島殿。どうやら酔い覚ましではないようですが?」

晴れやかな笑顔と共に兼続が顔を出す。
兼続は秀吉の気に入りの武将ではあるが、立場はあくまでも上杉の家老である。このため、本日の酒宴では左近と同じく主の供としてこちらの席に列席をしていた。
左近は兼続に軽く眉を下げる。

「いえね。別段たいしたことじゃあないんですがねえ……」
「三成のことか?」
「ええ。まあね……」
「今日は狸殿も招かれておるからなあ。島殿の心配もわからぬではない」

兼続は、可笑しそうにクスクスと笑う。

「ま、三成も子供ではない。いくら嫌っておるからといって、新年の宴の席で狸殿に喧嘩をふっかけることはあるまい」
「そうは思うのですがねえ。まあ、無用な心配というヤツですよ」
「ははは。随分と過保護ですな。三成が聞いたら怒りますぞ」
「ですから、殿には内緒にしてくださいよ」

応じて左近も悪戯っぽく笑む。

「宴席には、幸村がいるし大谷殿も小西殿もおられる。第一、太閤殿下の主催の宴だ。今日ばかりは三成の堪忍袋の緒もいささか丈夫であろうよ」
「それもそうですな。これで多少は酒の味も味わえそうですよ」
「なら、わたしの酒に付き合っていただきますぞ。島殿からは軍略なりいろいろと話を伺いたい」
「ええ。お付き……」

三成が聞いていたら形のよい眉を顰めて、憮然とした表情をするだろう。そんなやり取りを交わしていたところ、突然、わあっという歓声が上がった。

「なんだ?」
「歓声……のようですな。なにかあったのでしょうか?」

驚いて歓声の源をみると、秀吉や三成らがいる酒宴の席からであった。
感嘆の声と盛大な拍手。宴の席は、この上もなく盛り上がっている。
その盛況ぶりの原因に兼続が思い至ったらしく口を開いた。

「うむ。確か……、本日の宴に京で評判の出雲の阿国を招いているらしい」
「ああ、ややこ踊りですか? 新しもの好きの秀吉様らしいですな」
「なら、あの歓声は阿国のものであろう。流石、名に違わぬ見事な舞であったと見える」
「そりゃ、拝見できぬのが残念ですなあ」
「その言葉も三成には内緒にした方がよいですかな?」
「あははは、できればそうしていただけますかな?」

冗談を飛ばす兼続に苦笑いを返すと、左近は兼続と酒を酌み交わすために再び座敷へと上がった。



ほどなくして、談笑を交えながら杯を重ねていたふたりの耳に新たな楽の音が運ばれてきた。

「おや? この三味線の音は……」
「元親殿ですな」

聞き覚えのある音色。
幾人かの三味線の弾き手を知ってはいるが、耳に馴染んだこの弾き方は長宗我部元親、彼のものだった。
高い矜持を誇る元親が、請われるまま簡単に楽を奏じることはない。例え、それが天下人の秀吉であったとしても、己の気に入った時、気に入った相手でなければ名手を披露することはない。
長宗我部元親はそういう男であった。
その彼が楽を奏じている。恐らく阿国の絶美な舞に触発されてのことだろう。
ひょっとしたら、元親の音に合わせて阿国が舞を舞っているのかも知れない。
やがて―――――

「これはまた……」
「阿国の舞であろうか。これはまた随分と皆を魅了したものだな」

予想は的中したようだ。
楽が終わり、三味線の音の余韻が消えぬうちに、先ほどにも勝る大きな感嘆の声と万雷の拍手が届く。

「島殿の言葉ではないが、天下に名だたる舞を見れぬのは誠に残念なことだ」

その歓声を耳にした時、心底残念そうに兼続が大きな溜息をついた。





宴もたけなわを過ぎた。
主たちの席も左近たちのように各々が好きに杯を重ね歓談を楽しむ頃合いとなった頃だろう。
そう思っていたのだが―――――

「ああ、左近殿! よかった、こちらにいらしたのですね」
「幸村?」
「申し訳ございませんが、急ぎこちらへ」
「は? どうしたっていうんだ?」

三成と共に宴に列席しているはずの幸村が慌ただしく左近たち倍臣らの宴の間に駆け込んできた。
幸村は左近を見つけるなり急かすように「お早く」と左近の腕を曳くと、そのまま左近を引きずっていく。
後には、なんの説明もないままひとり兼続が取り残された。



左近が幸村と共に向かった先は、三成のいるはずの宴の会場ではなかった。
忙しく立ち働く侍女らの間をすり抜けた先の奥の間。様々な小道具や衣装を納めた長持がそこここに置かれている。
「なぜにこんなところに?」と思う間もなく、幸村は突き当たりの襖を開ける。そこに三成がいた。

「左近か……」
「と、殿? なんです、その格好は……」
「好きでこのような態をしているわけではない」

目を丸くする左近を三成は不機嫌そうに一瞥した。
白い絹地に銀糸で細かな刺繍が施された装束。三成が纏う古式ゆかしいその装束は「水干」だった。
白い水干に朱の袴。手に持つ扇は花鳥風月を描いた檜扇。立烏帽子を被っていない点を除けば、まるで白拍子のようななりだ。
おまけに目元と唇に薄く化粧が施されている。
このような主の艶姿をひとり夢想することはあっても、まさか現実に目にするとは思っても見なかった。
希有な出来事に左近が一寸言葉に詰まる。と、その反応に三成の眉間に皺が寄った。

「なんだ。阿呆みたいに惚けおって」
「三成殿。いま、着物をお持ちいたしますので、暫しお待ち下さい。では、左近殿。後はよろしくお願い致します」
「ゆ、幸村? おい!?」

三成の雰囲気に不穏な空気を感じ取ったわけではないだろうが、ここは左近の出番とばかりに幸村は早々に部屋を退出してしまった。



「で、一体全体どういう訳ですか?」
「五月蠅い」

先ほどの左近の態度がカンに障ったのか、三成の答えは素っ気ない。
フンと小鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。
だが、左近にとって三成の不機嫌な態度など、今の主の姿に比べれば日常茶飯事のこと。

「まあ、左近としては、殿のそのお衣装もなかなか似合っておられると思いますがねえ。静御前もかくやですよ」
「なんだと! こんなおなごのような衣装が似合うというのか!?」
「殿。折角の新年の祝いの日なんですから、そう怒らないで。で、そのお衣装の理由をお聞かせ願えますか?」

柳眉を跳ね上げる三成に左近は笑顔を返す。
左近がいつもの通りにこやかに笑みで応じれば、三成も渋々と口を開く。

「秀吉様の命だ」
「秀吉様の?」
「阿国の舞が見事であったのでな。秀吉様が何か褒美を取らすと仰られたのだが……あの女」

三成の眉間の皺が一層深くなる。

「よりによって、俺と一差し舞ってみたいなどと云いだしおったのだ!!」

思い出したら不快感が増したらしく、苛立たしげに手中の扇をパチリと鳴らす。

「それで、秀吉様に舞えと命ぜられたのですな」
「俺が嫌がっているのがわかっておられるのに、秀吉様もおねね様もぜひやってみろと仰られるし……。おねね様なぞ阿国と組んで俺に無理矢理こんな衣装を着ろと……」
「それはそれは……」
「その上、元親までもが座興に楽を奏じると口出しおって……」

あの演奏はそういう訳だったのかと、得心がいった。すると、あの―――――

「じゃあ、あの歓声は、殿と阿国が舞っておられたのですか?」
「ふん。そちらにまで聞こえておったのか。まったく、いい見せ物だったようだな」

ねねと阿国。どちらも押しの強さは並ではないが、彼女らの不本意な要求に逆らい切れない辺り、天下一の横柄者よと陰口を叩かれる三成の本質が覗いているような気がする。
子供のように頬を膨らませる三成を見て、左近の相好が緩む。
三成を横柄者と云う者どもが知らない顔をもっと見たくなって、左近は楽しげに口角を上げた。

「なにを仰います。殿の舞。左近も是非にも拝見したかったですよ」
「左近までも……」
「戦場で舞う殿もお美しいが、偶には戦場以外で舞ってもよいのではないですか?」
「美しいなどといらぬ世辞だ。どうせ、お前の目的は俺の舞なぞより阿国の舞の方ではないのか?」
「またまた。左近が殿以外の者に見惚れるとでも? 左近が殿以外の者に目を奪われることなどないことは殿が一番よくご存じでしょう?」
「相変わらず口の減らぬ。だいたい俺の鉄扇は舞を舞うためのものではないぞ」
「それでも、左近のために舞っては頂けませんかねえ?」

ニヤニヤと頬を綻ばす左近に三成は胡乱な視線を投げ付けるが、不意に真顔でそんな台詞を云われて三成の頬が少し赤くなった。

「…………そんなに俺の舞が見たいのか?」
「ええ。勿論ですよ」
「……な、なら」

ツイと三成が顔を逸らす。きっと、頬が真っ赤に染まっていることだろう。
そして―――――

「左近が蛇皮線を弾くというのなら、仕方がないから舞ってやってもいいぞ」
「勿論ですよ。なにせ、左近の蛇皮線は殿のためにこそ覚えたものなんですからねえ」

左近の願い事に素直に応じられない。天の邪鬼な主らしいと、左近はクスクスと笑う。
先ほどまで、斜めに曲がっていた三成の機嫌も、いつの間にやら別の感情に取って代わる。

「ふん。では、とっとと着替えて屋敷へ戻るぞ。お前も支度しろ」
「ええ!? 折角、見目麗しいのに着替えてしまわれるのですか?」
「当たり前だろう!? こんな格好で屋敷に戻れるか!!」
「あーあ、そりゃもったいないことで……」
「ふん。阿呆が。では……」

眉を下げて左近が残念がれば、三成が怜悧な目許を半眼にする。と―――――

「左近もこれを着るというなら、考えてやってもよいぞ」

白皙の美貌に左近にしか見せない、子供のような笑みが浮かんだ。





fin
2009/1/17


という訳で、新年SSです
今年もどうぞよろしくお願いします。