言好しことは危難なり


「三成殿。蛇皮線というものをご存じかしら?」

そう唐突に三成に問いを投げかけたのは、曹丕の后 甄姫であった。

「蛇皮線……?」
「ええ、蛇皮線。あなた方の世界の楽器ですのよね?」
「確かに我らの世で流行り始めていた楽器ですが……」

そう云えばこの女性は、妖笛を武器に美しい音色で敵を翻弄するのであったことを思い出した。ならば、目新しい異郷の楽器に興味を持っても可笑しくはない。だが、それを尋ねる人選を誤ったようだ。

「楽器に興味がおありですか。しかし俺は音曲の類には、疎いので何ともお答えのしようがありませんね」

つまり、蛇皮線の姿形や音色を知ってはいるが、それをどの様に説明をしたらよいのかがわからないのだ。
その真意を知ってから知らずか、甄姫は困ったように弧を描く眉を寄せる。

「あら、そうですの……。では、どなたのお聞きしましょう。政宗殿はご存じかしら? あぁ、でもあの方、董卓と共に行動をしていることがままあるのよね。わたくし、どうもあの董卓という男が嫌いですわ。なんと云ってもあの醜い顔。見るに堪えません」
「それは同感だ」

確か、曹丕も董卓を「ゴミ」扱いしていた。よくよく似たもの夫婦だと、三成は心中で苦笑する。勿論、そんなことは面には出さない。

兎も角、折角の手がかりもその側に不快な顔があれば訪ねる気も失せる。
甄姫は麗しの美貌に悩み顔を浮かべて溜息ひとつ。どうしても蛇皮線の音色がどの様なものか気になるらしい。

「矢張り、直接あの方に蛇皮線の音色を聞かせて頂くのが一番早いわね」

蛇皮線と聞いて、ふと三成の脳裏に左近の面影が蘇る。
仕事詰めの自分を慰めるために、わざわざ不慣れな蛇皮線を手に戯けて笑っていた顔を思い出し僅かに鼓動が早くなる。


     あの方っというのは……もしや……


この奇妙な世界に飛ばされて以来、彼とは会っていない。
孫策軍に参加をしているとの情報はあるが、妲妃の監視がある今、下手な動きを見せて警戒をされる訳にはいかない。風を頼りにその動向を見守れる限り見守っているが、手紙のひとつも出せぬ歯がゆさが、時折激しく胸中を揺さぶる。
だがそれも、曹丕の心中の秘が明らかになるまで、今暫しの辛抱――――――

しかし、思わずもたらされた左近の近況に三成の心が小さくさざめく。

「あの方……っというのは?」

極力、平静を装ってはいるが少し声が震えるのを自覚する。

「反乱軍……もとい孫呉の孫策殿の軍に身を置いてる殿方ですわ。名はなんと仰ったかしら? 先日、宛城での戦に来られた方です。蛇皮線のことはその方からお聞きしましたの」
「……ほう、それはどのような男で?」
「長い黒髪で、左頬に傷のある大刀を振るう武人でしたわ」


     矢張りッ! 左近だッ!


思わず三成の鼓動が跳ね上がる。

「…………で、貴女になんと云ったんです、そいつは」
「わたくしの笛の音を評して『美しいが哀しい音色』と。それと……いつか、自分の奏でる蛇皮線の音色を聴いて欲しいとも仰っていましたわ」
「……………………へぇ、蛇皮線をね」
「随分とキザなお言葉ですが、言い慣れておいでのご様子。あれは、相当に女の方を口説いていらっしゃると見ましたわ。確かに女心を擽るような好い殿方でしたけれど……」

「まぁ、わたくしとしては、やはり我が君の方が…」と続けようとして甄姫は口を開きかけるが、言葉は閉ざされた。


ピキ――――――


その瞬間――――――
甄姫は空気が凍る音を聞いた気がした。
心なしか三成の握る鉄扇が微妙に歪んでいるように思える。いや、ギリギリという音を立てながら確実に妙な方向に扇が曲がりつつある。

「そうですか……。蛇皮線を道具に貴女を口説いたと……。しかも相当言い慣れている…ね」
「えっと……口説かれたっというのでしょうか……と思うのですが……」

表面上はいつも何ら変わらない。どことなく、自分の夫と似た雰囲気を纏わせている秀麗で冷静沈着な顔。
しかし、その顔が纏う空気は着実に変わりつつあるのを甄姫は敏感に感じ取った。

「あの……お知り合いの方で?」
「フフフ、ええ、知り合いですよ。只の部下です。家臣です

そう云って心持ち引きつったような笑みを浮かべる三成。周囲の空気はどんどんと冷えてくるのに、どこかしら妙な熱気を持っている。
この剣呑とした空気に心当たりがあった。
自分にとっても極々身近な感情。だがまさか、目の前の冷たい印象を与えるこの青年からそんな類の感情が発せられるとは思いもしなかった。

「どうも家臣の教育がなっていなかったようですね。今度、会ったらとっつかまえてきちんと教育し直しておきます。あぁ、蛇皮線の件は、その時にでも……。どうぞ好きなだけ弾かせてやって下さい。あのド阿呆も美女のためなら一晩でも二晩でも喜んで弾くでしょうよ。ただし、下手くそですがね」

目を丸くして自分を凝視する甄姫の視線に気付くことなく、三成は引きつった笑みを頬に張り付かせる。平素、温度を感じさせない白皙の頬は、沸々を心底から湧き上がる怒りのためかほんの少し上気している。

「それでよろしければ、熨斗を付けて差し上げますよ」

そう云うなり、三成はクルリと背を向けて与えられた居室に引っ込んでしまう。
そのあと、部屋から物が壊れる派手な音が響き渡るのを甄姫は遠くに聞くと、自分の過去の出来事をしみじみと思い出すのであった。
何とはなしに心情が理解出来る分、存外彼も自分と同じく熱い部分も心の裡に隠し持っているのだと妙な親近感を覚える。

このまま、ことの成り行きを放っておくのもいいが、ここはひとつ引っかき回してみるのも面白かろう。





「我が君。今度、孫策軍と戦をする時には、ぜひぜひ、わたくしと三成殿をお連れ下さい」
「なんだ、甄よ。いきなり……」

突如、執務のための部屋に訪ねて来た妻が出し抜けに口にした内容に、曹丕はほんの僅かに眉根を寄せる。それが、努めて無表情を装う曹丕の最大の困惑の表情であった。
夫の驚いた顔が面白いのか、甄姫はクスクスと忍笑う。

「ひょっとしたら面白いものが見られるかもしれませぬ故、是非にお願い致します」
「どうした。楽しそうだな、甄。なにかあったのか?」

覇道を行く夫を支える妻として、政務や軍務に対して口を挟むことに慎重な甄姫が、珍しく強く希望を口にする。
曹丕は、傍らに寄った甄姫の滑らかな腰に手を回すとクスクスと笑う甄姫の顔を眺め遣る。どうやら、自分の表情からことの真意を汲み取ろうと試みているようだ。が、そうは簡単に種を明かしては面白くない。

「ええ。でも、これは秘密ですわ。楽しみは後々まで……」

妖艶な音色を奏でる唇を更に緩ませて甄姫は微笑む。

「他人の何とやらは密の味と申しますが、本当ですわね。我が君」

そう云って微笑む顔は、まるで悪戯を思いついたような少女のようだった。





fin
2007/03/27


OROCHIネタバレSSです。
左近の口説き台詞は、「呉 4章外伝」で甄姫との接触時に聞けます。