辞は達せんのみ


ゴォーン ゴォーン

夜気を震わせて鐘が鳴り渡る。遠くから近くから。
灯火の絶えた薄闇の中、左近は夜気に響く鐘の音に耳を澄ませた。信心深い者たちは、この寒い夜の中、俗世に汚れた身を払う鐘の音に祈りを捧げているところだろう。

煩悩を打ち払うという浄化の鐘。町中の至るところからこの鐘の音が響く。
なれど、そのありがたい音色も自分の奥深くで滔々と燃えるこの「慾」を打ち消すことはできないようだ。
かつては胸中を荒れ狂っていた「慾」は今は穏やかに息づいている。それは、嵐の後の凪いだ海にも似て心を深く静かに満たす。

世に慣れ幾多の浮き名を流してきた。世慣れた感情というのは、時に激しい感情を摩耗させるものだ。
既に擦り切れ色褪せたはずの「恋」いう名の激情。
まさか、様々な色恋を経験したこの歳になってその奔流に流されようとは思わなかった。しかも、横柄者と名高い己の主に対してとは―――――

ゴォーン ゴォーン

鳴り響く鐘の競演はたけなわを向かえる。あと数刻で夜が明け、冬の太陽が新年最初の暁を投げ掛ける。


もう何度、この人を抱いて年を越しただろうか。
あと何度、この人を抱いて年を越せるだろうか。


先程までの濃密な時間に意識を奪われ眠りに落ちた佳人が、「ん……」と小さな声を漏らして身じろぐ。フワフワと柔らかい赤毛が鼻先を擽ると、潜り込むように胸元に頭を預けてくる。その無意識の甘えた仕草に頬が緩む。

そう云えば、腕の中で安らかな寝息を立てる佳人が、「日の出が見たい」と云っていたことを思い出した。だが、渦巻いた「慾」を鎮めるために行使した体力を回復させるためにも、いましばしの眠りは欲しいところ。
そっと佳人の肩を包み込み、左近は今一度暖かい褥に潜り込む。

夜半を渡る鐘の音は、左近の意識の遠くへと消えていった。










家中の新年の挨拶も終わり、三成は漸く一息を入れる。
誰もいない佐和山の天守から城下を眺める。新年を祝う城下町は、遠目から見ても賑わいの中にあるのがわかる。聞こえるはずもない楽しげな喧噪が、今まさに聞こえてくるようだ。
そんな長閑な正月の風景をひとり楽しむ三成に声をかける者があった。

「殿。こちらでしたか」
「左近か。如何した?」

裃の正装から洒落た羽織へと着替えた左近が天守へと上がってくる。パリッと糊の利いた真新しい濃紺の羽織は、おろしたてらしい。新物の色鮮やかさが目に映える。よく見ればその下に纏う小袖や袴も羽織に合わせて新調されている。
新年のめでたい空気のせいか、それとも新調した衣装がそうさせるのか、機嫌よさげな左近はそのまま三成の隣へと立ち、同じく眼下に広がる賑やかな城下に目を向けた。

「いえね。新年のご挨拶をと思いましてね」
「阿呆か。新年の挨拶なら先程家中の者と済ませたであろう。第一、左近とは……」
「『年越しも一緒だったであろう』でしょう。まあ、除夜の鐘も初日の出も一緒とくれば、いまさら新年の挨拶もなにも……って、アイタッ!」

左近がニヤニヤと相好を崩しながら口を続けようとするのを三成は見事な手さばきで封じ込める。だが、パチンと小気味よい音を立てて叩かれた頭を撫でながら、左近は尚も唇を緩めたまま―――――

「何で殴るんですかぁ? あ、わかった。年越しながらのあんなことやこんなことが恥ずかしいので?」
「その意味ありげににやついた顔が勘に障っただけだ! それ以上云ったら、もっと殴るぞ!!」
「殿だって結構、いい感じだったじゃないですか。除夜の鐘を聞きながらいた……イタタッ!!」
「俺は殴ると云わなかったか? スケベ面しおって……。して、何のようだ」
「ですから、新年の挨拶ですよ。それとね……おい、持ってきてくれ」

今度は拳骨の制裁を受けた顎を撫でつつ、左近は階下に控えていた小姓を呼ぶ。
三成付きの小姓が捧げ持ってきたのは、白木の衣装箱。

「これを……」
「羽織?」

左近が受け取った箱から取り出したのは、臙脂色の羽織。細やかな文様の入ったそれを左近はフワリと三成の肩にかけた。真新しい布地からは炊き込めた香の薫る。

「折角の新年だというのに、殿はご自身のものは何ひとつ新調されていないじゃないですか。家中の者には褒美だと云って小袖だの筆だのとお与えになるのにねぇ」
「別に新年だからといって無理に新しくする必要もあるまい。それに、家中に者は良くやってくれたのだから、褒美を取らすのは当然ではないか。大体、俺はいつも当たり前の仕事をしているだけなのだから、自分で自分に褒美など与える必要もない」

思わぬ贈り物に目を丸くしながらも、三成は口元をムッと尖らせて抗議をする。
そんな三成に左近はクツクツと喉を鳴らす。なんとも生真面目な三成らしい言い分。常日頃から家臣には相応の待遇を与える癖に、自分のことは歯牙にもかけない。主君である秀吉からの褒美だとて、余程の理由がない限り受け取ろうともしないのは、真面目を通り越している。なんとも頑固者らしい一面ではある。

「ま、ですからね。左近から殿にご褒美ってことですよ」
「褒美? 臣から主へか? 俺はそんなことのために2万石を与えている訳じゃないぞ」
「ま、褒美だ何だのっていう、表向きの形式なんてどうでもいいんです。『左近』が『殿』のために何かをして差し上げたいんですよ。あぁ、本当によくお似合いですよ。流石、俺の見立てだな」

ますます口元をへの字に曲げる主。予想通りの主の反応に悪びれる風もなく左近は、三成の肩にかけた羽織の襟を正しながら、その出来映えに得意げに微笑んでいる。その左近の満足そうな笑みに三成は驚いて眉を開いた。

「左近が、これを見立てたのか?」
「当たり前じゃないですか。殿にお贈りするんですよ。左近が見立てないでどうするんです?」

そう云う左近に三成は、「俺は着せ替え人形か?」と憎まれ口を零す。だが、それ以上に気恥ずかしくて、嬉しそうに眼を細める左近からプイと視線を外してしまう。

「……似合うか?」

暫しの後にポソリと呟かれた言葉に左近が答える。

「似合いますよ」
「そうか……」

そっぽを向いた三成の頬が微かに赤らむ。
頬に差した赤味に益々左近の相好が綻びる。

「それじゃ、折角だし……」

いつも間にやら、左近の武骨な手が三成の肩にそっと添えられ、抱き寄せられる。と、耳元近くで囁く低い声。

「それを羽織ってお忍びで初詣にでも行きません? 左近とふたりで」
「ふん。最初からそれが目的か? この痴れ者めが……」

パチリと肩に置かれた手を扇で一撫で。三成は肩に置かれた手が緩んだ隙にスルリと身をかわしてしまった。
されど、左近が離れた手の温もりを残念に思う間もなく―――――

「まあ、いいだろう。ならば、さっさといくぞ。それと……」

フッと口元を緩めた三成が、左近を見つめる。

「今年も来年も再来年も……ずっと頼りにしているぞ。左近」

プイと言い捨てるように告げられらた新年最初の贈り物。簡潔で率直。強力に心を縛る最高の言の葉。
その辞が耳を打った瞬間に左近は、頬を染めた贈り主の腕を引く。

「勿論。お言いつけ通りに……」

腕に抱き締めた桜色の耳朶に吹き込む甘い声。鼓膜を震わせる辞に「当たり前だと……」と佳人は呟いた。





fin
2008/02/07