花相の便り


「やれやれ、今日も一日ご苦労さんっと」

一日の疲れを風呂で癒すと、左近は大阪城下の石田屋敷の渡り廊下を歩く。

城下には自分の屋敷も一応あるのだが、仕事の都合上、この主の住まう屋敷に入り浸ることが多い。
もっとも自分の屋敷に戻ったところで、妻帯をせぬ独り身。待つ家族がいる訳でもない。何より、待つ者のいない侘び住まいに戻るよりも愛しい主のいるこちらの方がずっと居心地がいい。

斯様な訳で、左近は当然の如くに主家の風呂で寛ぎ、屋敷の一郭の床がきちんと整えられた己の寝所へと向かう。
左近が部屋に着く頃には、目賢い侍女によって枕元に寝酒と少々の肴。そして、気に入りの煙管と上等の葉が収められた煙草入れが用意されている。この待遇については主も許していることから、これも当然至極のことと家人も受け止めていた。
斯くして、左近は平時、就寝前に酒とお気に入りの煙管での一服を習慣としている。

しかし、ここ数日、その習慣に若干の変化があった。




ことは数日前―――――

いつもの主従のやり取り。
左近の諫言と主の反論と怒声。ふたりの論争は激しさを増すが、交わされる会話の内容は、適時に交わされるいつもの内容。家人も習慣と化したこの言い合いに「ま、放っておけばご家老が収めるでしょう」と取り合う者は誰もいない。
だが、定例と化した口論も、偶さか互いの虫の居所が悪かったりすると、歯車が噛み合わずにとんでもない方向に向かったりするもので…………



「ですから、なんでそうなるんです?」
「『そうなるんです』ではないわ! 只の情報収集で、何で頬に白粉と紅が付いてくるのだッ!」
「妓たちのちょっとした悪戯ですよ。左近が余りにも殿一筋なので、妓たちがからかっておるのですよ」
「それは、己がいかにもてるかと自慢をしておるのか?」
「だーかーらー、どうしたらそうなるんですか?」

「確か、殿の不摂生を注意していたはずなのに、何故に自分の妓楼通いに話題が飛ぶのだ……」と、左近は思わずチッと小さく舌打ちをする。
それを目敏く見つけ、三成は柳眉を逆立てる。

「左近ッ! なんだ、今の舌打ちはッ!! 俺の話はまともに聞けぬとでも云うのか!?」
「殿……。そんなこと一言も云っていないでしょう」
「口で云わぬでも態度に出ておるわッ!」
「どちらにしても、堂々巡りですよ。ここいらで、少し頭を冷やしませんか?」

重い溜息に眉間の皺。明らかに左近の機嫌が悪い。
珍しく思うように捗らない仕事の苛立ちに加えて、この三成の勘気。
元来、傲慢な自信家である左近にとって、思う通りにいかない仕事ほど神経を逆撫でる事柄はない。そして、只でさえ、苛立っているところに三成が大阪城で貧血を起こしかけたとの報告。家臣として諫言をすれば、ごらんの通りの有様である。

そして、三成もこれまたかなり機嫌が悪い。
こちらも次から次へと持ち込まれる問題処理に忙殺された挙げ句、ここ数日の過労で立ちくらみを起こした。折り悪く、その様を福島正則の目撃をされ、散々揶揄をされて帰ってくれば、家老の小言が待っていた。

どちらも気分は最悪。巡り合わせも最悪。これで事態が好転するはずもなく…………





兎に角、ささくれた精神を落ち着けようと左近は懐から愛用の煙管を取り出す。
いつもの冷静な左近ならば、絶対にしないような行動。苛ついた気持ちが取らせた行動とはいえ、迂闊以外に他ならない。
案の定、その左近の振る舞いが三成の逆鱗に障った。

「左近ッ! 俺を無視してなんだその態度は!?」
「無視なんぞしてはおりませんよ。殿の方こそ、煙草の一服くらいで一々喚かないでくださいよ」

眉を上げて怒鳴る三成を見向きもせず、左近は煙管に葉を詰める。三成のことなど歯牙にもかけぬ態度に益々柳眉が上がると、三成は力一杯に左近の肩を掴んで無理矢理自分の方に顔を向けさせていた。

「話は済んではおらぬぞ」
「わかっておりますよ。ですが、そんなに頭に血が上った状態では話し合いにもならないじゃないですか」
「それは、俺が冷静ではないと云うことか」
「わかっていらっしゃるなら、冷静になるよう努めたらどうです?」
「このぉ……」

三成の怒声に左近に辛辣な物言いが返る。普段、自分の口から飛び出す人を抉るような辛辣な言葉が、今は自分を抉る。
三成が気が付いた時には、咄嗟に左近の手から煙管を奪い取っていた。

「左近ッ! 俺を無視するなッ!!」
「殿。それは左近の気に入りの大事な煙管です。お返し願えますか?」

左近の表情が険しくなる。努めて冷静を装っているが、口の端に昇る声には怒気が滲む。
常人ならば、これだけで十分に怯むのだが、相手は頑固者で鳴らす石田三成。
例え相手が左近であろうが、戦場の鬼神 本田忠勝であろうが、多少の恫喝で引くような弱気な心根など持ってはいない。
左近の怒りに油を注がれ、更に三成が険を張り上げる。

「何が気に入りだ! 俺と話をするよりも大事なものかッ!?」
「えぇ、どこぞの駄々っ子よりも大事ですよ。わかったのならお返しなさい」
「なんだとッ!!」

耳の奥で何かが切れる音を聞いたような気がする。胸がズキリと痛む。途端に、今、手中にあるものが疎ましい。触れていたくもないし目にも入れたくない。
三成は、反射的に煙管を持つ手を高く上げる。


     こんなものさえ―――――


三成が最も嫌う理に叶わぬ行い。その理に叶わぬ行いを止めるための理性はすでにない。

「こんなものッ!!」
「ッ!?」

カツーン―――――

甲高い金属音が鳴る。

庭に投げ捨てられたそれは、固い庭石に木製の羅宇の部分が当たった。
羅宇は真っ二つに割れ、銀製の火皿が悲鳴のように高い音を奏で、そして静かになった。
石が音を吸い込むと主従の間に痛いような沈黙が降りた。

身に吹く花冷えの風が、逆上していた三成の精神を沈める。
身を刺すような静寂が、己のしたことをヒシヒシと伝えてくる。
ハッと我に返った時には全てが遅かった。

ユラリと音もなく庭に降り立った大きな影が、うち捨てられた大事な品をそっと拾い上げる。

「殿。これは左近の大事なものだと云いましたよね?」
「な、何が大事だ。どうせ、妓楼の妓に……」

何の波もない平坦な声。それが一層に左近の怒りを三成に伝える。
云わなければいけない言葉があると知っていた。知っているにも関わらず、口から吐いてでるのは考えもなしに紡がれる平懐者の言。
だが、左近の静かな一言が三成の口を遮った。

「これは、筒井の順慶様から賜った品ですよ」
「え……?」


     順慶殿の……


衝撃に三成の琥珀色の瞳が大きく見開かれる。

「………あ……」

何か云おうと色を失った唇が動くが、声は喉に張り付いたまま何も云えない。
血の気の失せた顔で立ち竦む三成に一瞥もくれることなく、左近は拾った煙管を手に黙って三成に背を向ける。

「さ……さこん?」

一言も口を開くことなく、左近の広い背が遠ざかる。漸く絞り出した三成の声を巌のような背が拒絶する。そのまま、左近は振り向くことなく廊下の向こうへと立ち去ってしまった。
ひとり残された三成は、ただただ呆然と誰もいない廊下を眺め遣る。

季節は卯月の終わり、晩春の季節ことであった―――――





「…………どうしたものか」

風呂上がりの濡れた髪を春暖の風に靡かせながら、左近はひとり溜息を吐く。
鼻腔に花もたけなわの牡丹が香る。


     あぁ、あれから随分と立っちまったなぁ……


例の件から数日。同じ屋敷にいながら、主と顔を合わせることもない。
互いに忙しい身上であるが、それでも今迄は必ず時間を作っては、ほんの一時でも顔を合わせていた。それが、一度も顔を見ることなく幾日にかが過ぎてしまった。

気まずい。
きっかけが掴めない。

気まずい思いは三成も同じらしく、思い切って声をかけようとしても巧みにかわされてしまい、結局今日に至る。
永遠にこのままという訳ではない。いつかは、元の鞘に収まるものとわかっている。自分たちの繋がりは、そんな簡単に切れてしまうようなものではないことも知っている。
時が経てば、自然と互いの関係の修復も計れようが、どうにもその時間がもどかしい。


     殿に触れたのはいつであったか…………


折からの忙しさのため、互いに触れ合ったのは随分と前のこと。久しく肌の温もりに触れていない。

あの白い痩身を抱き締め、朱に染まった頬に唇を寄せたい。
己の腕の中で、子供のように安らいだ顔で眠る顔を見たい。

そう思うと、どうにも気分が乗らずに就寝前の寝酒にも口をつけずにいる日が続く。当然、原因となった煙管で一服という気にもなれず、あの煙管は、修繕の行う羅宇屋に預けるでもなく文机の上に放って置いていた。
ふと、気がついた時には、その煙管もいつの間にか失せてしまっていた。


     きっと、順慶様があの世で俺に怒っていらっしゃるのだろう……


左近は在りし日の順慶の穏やかな顔を思い出す。
順慶は、左近の誤りに対して声を荒げて怒鳴るようなことは一切なかった。ただ、笑みを浮かべつつ静かに語りかけるのみ。その笑みに過去何度となく諭されてきたことか……



「『四十にして惑わず』と孔子は教えを説くが、果たしてわたしはその年までに惑わずの心持ちを得ることができるのかね」

そう云って微笑む順慶の懐かしい顔が脳裏に蘇り、思わず苦笑が零れる。
順慶は、不惑の年を迎えることは叶わなかったが、聡いあの方ならば不惑の境地を得ることも出来たであろうと思う。だが、一方で己はというと、本日で四十を超える年を重ねても未だ惑わずにはいられない。
だから、失せたあの煙管は順慶の教えなのだろう。

「大事なものを見誤るな」と―――――

いくら苛立ちささくれていたとは云え、「煙管の方が大事です」などとよくも云えたものだ。云われた三成も、左近が本気だとは思ってはいないだろうが、それでも云われて傷つかない訳がない。
云われた瞬間、眉を寄せてグッと痛みを堪えるような三成の顔が忘れられない。
本当に大事なものなど、わかり過ぎる程にわかってはいるのに。一瞬の心の惑いがそれを傷つけてしまった。

「どうやら、俺もまだまだ青臭いようですよ。順慶様……」

冴えた春方の月にそう呟くと、左近は己の居室へと歩を向けた。





部屋の障子を開けると、不意に花の香りがする。
蕩けるような甘い香は、文机の上に添えられた白い芍薬。皐月の初旬には早い早咲きの芍薬は、純白の花弁を優雅に広げていた。
そして、その横には失せたはずの順慶の煙管。

「これは…………」

驚きつつも、それを手に取ってみる。折れた羅宇は新しいものに取り替えられ、石に当たって欠けた銀の雁首の装飾も元通りに修繕されていた。
文は添えられていない。
だが、そんなものなくとも誰の仕業か知っている。

左近は、緩む頬を押さえることなく足早に部屋を後にした。





「殿」

小姓の取り次ぎもそこそこに、左近は三成の部屋を訪れる。
左近の来訪を予想していたのか、期待をしていたのか、朱塗りの杯がふたつ。揃えられた酒器には、いくつかの肴。
しかし、三成は左近の姿を認めると、プイッと顔を逸らしてしまう。

「呼ばれもせぬのに、よく来たな」
「おや? 花の便りをお寄越しになったのは、殿でしょう」
「なぜ俺だと決めつける」
「そんなこと云われなくてもわかりますよ」

片眉を上げてクツクツと左近が喉を鳴らせば、下から三成が不機嫌そうな眼差しで睨め付ける。
そんな三成の前にそっと座すと、左近は懐から件の煙管を取り出した。

「これを直して下さったのですね。ありがとうございます」
「…………左近の大事な品を壊したのは俺だ。俺には直す責がある」

嬉しそうに微笑む左近から三成は目線を外すと、畳の縁を見遣るように面を伏せてしまう。長い朱の前髪に隠されて表情を窺うことは出来ないが、項垂れた肩は叱られた子供のようにシュンと萎んでしまっている。

「左近が……怒って当然なのだ」

ボソボソと口中で呟く小さな声。

「だから…左近が俺に愛想を尽かして、出奔してしまっても仕方がないと……思っていた」
「は?」
「順慶殿に比べれば……俺なぞ……。あんな子供のような真似……左近程の武将の主として……相応しくないと思われても……」

打ちひしがれしおしおとした声が発する言葉は、常の横柄な物言いとかけ離れてまるで力がない。

「殿、あのですね」

左近はその項垂れた小さな朱色の頭をそっと撫でる。

「俺は殿と順慶様を比べたことなんぞ、一度もありませんよ」
「でも…………」
「確かに順慶様は、主として申し分がないどころか、左近にとって果報な程のお方でしたよ」

そう云いながら、左近は三成の髪を梳き続ける。

「人の心の機微に聡く。穏やかでお優しく、決して声を荒げることもない」
「………まるで俺とは正反対だな」

少し旋毛を曲げた不機嫌な声。かつての亡き主を褒めそやす左近の言葉が、三成の癇に障ったようだ。
シュンとしょげ返っているよりも余程に三成らしい。
左近は可笑しそうにクスクスと笑みを零しながら、そんな主の細い肩を抱き寄せる。三成は逆らわずにその逞しい胸に身体を預ける。互いに感じる久方ぶりの温もりが心地いい。

「ですからね。殿と順慶様を比べるなんて意味ないんですよ。殿は殿。順慶様は順慶様」

ゆったりと教え諭すような左近の語りを三成はジッと黙して聞く。

「殿は、月と海を比してどちらが美しいかなんて論じて意味があるとお思いで?」
「それは……どちらも美しいものであろう」
「では、牡丹と芍薬では? それぞれ花の王と宰相と称えられるますが、実際花としてどちらがより美しくあると?」
「好きとか嫌いとかの好みはあるだろうが……、やはりどちらも美しいものだろう」
「ま、そう云うことですよ。殿だって左近にとってはこの上もなく果報な方だ」
「さこん……」

下から左近を見上げる三成の琥珀の瞳が大きく見張る。その瞳に目を細くする左近の影が映り込む。
―――――

「その果報な方に、左近はひどいことを云ってしまいました」

表情を改めた左近の面に滲み出るは、慚愧の情。
その表意のまま左近は腕に抱き留めた三成の白い頬に手を添える。

「左近に取って殿以上に大事なお方はおりません。どうかお許し下さい」
「さこん……………」

ひしと自分を見つめる左近の後悔の念は、自分も同じ。
掛け替えのない人の大事なものを考えもなしに台無しにしてしまった。それが、どんなにひどい行為であるのかなど口にする間でもない。
左近が憤って自分を見限っても仕方ない。少なくとも、激しく叱責されることを覚悟していた。それなのに、左近は優しく自分の頬を撫で「すまぬ」と云ってくれる。
自分の方こそ云わねばならぬ言葉。平素、素直に口に出来ぬ言詞も今は自然と告げることが出来た。

「俺の方こそ、すまぬ。順慶殿から賜った大事な品を……」
「もういいんですよ。殿がちゃんと直して下さった。それで十分です」
「うん」
「ま、お互い様っと云うことですよ」
「そうだな」

暖かな左近の笑顔。釣られるように三成の花顔に微笑みが浮かんだ。






「ところで、殿」

左近はチラリと支度されている膳を見遣る。

「酒肴の支度がしてあるということは、今宵は左近と一献傾けて下さるので?」
「そうだ。厭か?」
「まさか。先程も申し上げましたでしょう。殿は左近にとって最も大切な方です。その方のお誘いを左近が断るとお思いで?」
「いや……知っている」

ほんのりと頬と耳を桜色に染めて、三成は小さく頷く。
三成はツイと左近から身を離すと、朱塗りの盃を左近に差し出す。

「おや、殿が左近の酌をして下さるのですか?」
「そうだ。行長に聞いた。南蛮では、その人が生まれた日をみなで祝うのだそうだ。だから、今日は……その」
「覚えていて下さったのですね」

驚き破顔する左近に、三成は更に頬を紅くし目を逸らしてしまう。それでも、ツンと尖らした口からは左近にとっては最上の告白。

「左近が……俺を大事だというように、俺にとっても左近は大事な……人だから、当然であろう」
「これは嬉しいことを……。殿、お耳が真っ赤ですよ」
「うるさいッ!」

クスクスと笑いを堪えながら、寒桜のように顔を紅くする主をからかえば、その主はプウとむきになる。
いつもならば、ここで愛用の扇が華麗に飛んでくるのだが、本日は仲直りしたばかりの上、南蛮の風習に則っての祝いの席。ムウと眉を顰めながらも左近が受け取った盃に酒を注ぐ。
注がれる酒は上等なもので、甘く芳醇な香りが鼻孔を擽る。
愛しい手から注がれる酒は、この上もなく格別な味がするだろう。そう相好を崩す左近に、主が上目遣いで問うてくる。

「それでだな……。南蛮では、祝いの時に贈り物をするそうなのだが、何か欲しいものはあるのか?」
「さぁ、これといって特には……ただ」
「ただ?」

思案げに笑む左近に三成はコトリと小首を傾げる。

「殿がよろしければ、仲違いをしていたのと同じだけ、左近に殿の時間を下され」
「え?」
「お忙しいのは承知しておりますが、左近はずっと殿に触れていない」

目を丸くする三成の細い頤を左近の無骨な手が捕らえると、かさついた指先が桜色の唇の輪郭をなぞる。

「いかが?」

左近の顔がゆっくりと近づき吐息が交わる。
その瞬間―――――

「フン、好きにするが……いい」

紅唇に落ちる温もりに三成はそろりと目を閉じる。





fin
2007/03/04


3月5日は「左近の日」ということで、間違って早取りお誕生日SSを上げてみました。本当の誕生日は5月5日なので、季節感がSSを書いた時とはまるで違います。
「昔語り」で信玄公との話を書いたので、ちょっと順慶様との絡みも書いてみました〜。
タイトルの「花相」とは、芍薬のことです。ちなみに牡丹は「花王」というそうです。