花唇綻びて


秋の日は落ちるのが早い。天高く昇っていた太陽は傾き時期に夕暮れとなる。暖かな日が差し込む書斎で主は陽に背を向け一日、一心に文机に向かう。

姿勢良く背筋を伸ばしているが、真一文字に引き締めている口元がいつもと違い覚束ない。何やら、しきりに唇を舐めたり、モゴモゴと軽く噛んだりと忙しない。

「殿、いかがされました?」

書類を届けに来た家老が見咎めると、書斎の主は不快そうに柳眉を寄せる。

「うむ……唇が乾いて仕方がない……」
「それで、しきりに唇を舐めておられるのか」

秋のこの季節は、兎に角、乾燥しがちだ。乾燥した空気のせいで、手や足やらが荒れてくるが、それは唇も例外ではない。

「お止めなさい。そんなことすれば、益々唇が乾きますぞ」
「そうは云っても……どうにも気になるのだ」
「なら、軟膏でも塗ったらどうです?」
「それもイヤだ。ベトベトして気持ちが悪い」

左近は、三成の所業を嗜めるが、プウッと頬を膨らまして文句を返される。別段、死ぬ訳ではないのだから放っておいても問題はないが、綺麗な唇が無惨に荒れていく様は見たくない。

「子供でもあるまいに……。余り、舐めると唇がひび割れますぞ。そう云って、去年だって酷く唇が荒れて痛がっておられたではありませんか」
「それは……そうだが…………」

去年。同じように唇が荒れたが、軟膏がイヤで何も付けずいたら酷くひび割れ血まで出てきたことを思い出し、言葉を詰まらせる。あの後、やたらと染みる薬を無理矢理塗られた記憶がある。
だからと云って、あのベトベトと不快な軟膏を塗りたくるのもイヤだ。

「何とかならぬのか?」と云わんばかりに、口を尖らせて上目遣いで睨んでくる主に苦笑をしつつ「それでは」と家老は口を開く―――――

「左近がよい薬を持っております。しばしお待ちを……」

そう言い置いて、左近は書斎から出て行く。去って行くその顔に悪戯を思いついた悪童の様な笑みを浮かべていたが、背を見送った三成には知らぬことだった。





「殿」
「左近か……」

暫くして左近が手に貝殻の軟膏入れを持って戻って来た。薄く金箔を貼り小物の絵柄が入ったそれはひどく美しかった。
今までの妓楼通いで培ったのであろうか。目の前の男は、武人然とした見た目に反してひどく洒落者だ。

「随分と瀟洒な薬入れだな」
「お気に召したのなら、殿に差し上げますよ。左近も使っておりますが、余りべとつかないので殿もお気に召すかと……」

そう云って左近は、貝の蓋を開け中の軟膏を小指で掬い取る。

「さ、左近が塗って差し上げますから目を瞑って……」
「なぜ、目を瞑るのだ?」
「いいから、いいから」

そう云って笑う左近を少し不審に思いつつも、三成は大人しく目を瞑り唇を突き出す。

「殿……すこぉし、お口を開けて下さいね」
「ん……」

云われたまま薄く口を開ける。軟膏の湿った感触が唇の上をそっと撫でる。器用な指先は、唇の端から端まで丁寧に往復し薬を塗っていく。
やがて、そっと小指が離れた。
三成も伏せていた目を開く。眼前には満足げな左近の顔があった。

「いかがです?」
「……確かに…余り気にはならぬ」

塗られた軟膏は、不快感を与えることなく唇に馴染む。上下の唇を摺り合わせて馴染み具合を見てみるが矢張り気にはならない。

「そうですか。それはよかった」
「この薬なら使えそうだ。左近、礼を云う」

そう云って、ニコリと微笑んでみれば、左近も更に相好を崩す。

「いいえ。左近も目の保……」
「ん?」
「殿。直江様と真田様がお見えです」

左近が何か云った様だったが、良く聞こえない。三成が聞き返そうとしたその時、折良く来客を告げる小姓の声がした。

「そうか、直ぐ行く」
「えっ!? ちょ、ちょっと待って……」

珍しく不遜な軍師の声に焦りが滲む。しかし、大事な親友を待たせる訳にはいかない。何か言いたげな左近を置いて、三成は足早に書斎を後にした。



「待たせたな、兼続、幸村」
「いや、みつな……り?」
「み、三成殿?」
「どうした二人とも? 俺の顔に何かついておるのか?」

客間に通されていたふたりは、三成が来るなり目を丸くする。しげしげと三成の顔を見つめるふたりに三成は不思議そうに小首を傾げる。

「つ、ついているというか……なんと云うか…だな……うむ」

お茶を濁す様に煮え切らない。兼続は、何とも言い難そうな顔で眉根を寄せている。その横の幸村はといえば―――――

「どうした。はっきりせぬな、兼続。で、幸村。なぜ、そのように赤くなっておる?」

耳まで顔を真っ赤にして目を逸らしている。よく見れば、兼続の頬も心なしか赤く染まっている様だ。

「ほっほう。これはこれは……」
「おぉう!? なんのサプライズやの、これ?」
「吉継。行長。お前たちまで来たのか?」
「ち、義父上殿ッ!?」

予告もなく障子がガラリと開く。部屋に闖入して来たのは、三成の親友たちだった。無遠慮にも程があろうが、これはこれでいつものことなので、三成もさして気にはしていない。
ただ、幸村がなぜ斯くも狼狽えねばならないのか、三成にはまったく見当がつかなかった。

「あぁ、いや……どうせなら、紅葉も美しい季節だし…その……みなで紅葉でも愛でながら呑もうかと……お誘いしてみたのだが………」

兼続が、しどろもどろに吉継と行長がここにいる理由を述べる。が、声は途切れ途切れで、明らかに挙動不審だ。

「ひょっとして、彼らを呼んだのはまずかったか?」
「は? 別に吉継や行長がここにおるからといって、別段不都合なぞないが……」
「うむ。そうだな、親友同士に隠し事なぞ……な。その、なにかの余興とか……ひょっとすると…趣味か? あ、いや、三成なら似合っているから別に構わないのだが……うん、そうだな幸村」
「へ? えぇ、そ、そうですね……よくお似合いで…」
「余興? 趣味? 似合う? なんのことだ?」

親友たちの意味不明な言の内容を問い詰めようと、その身を寄せる。すると、なぜか寄せた分だけ身を引かれる。
不審に思いつつ、再度身を寄せる。やはり引かれる。
結局、部屋の端までこの攻防は続く。だが、壁際に寄せられてはもう逃げ場はない。
三成は、逃げ場のない二人を捕まえる。つと身を寄せれば、思い切り目を逸らされる。

「……なぜ、俺を避ける?」
「と、とんでもないぞ、三成」
「そ、そうですとも……」
「ふうん……」

不審そうな視線で睨め付けると、ふたりとも益々顔を赤くする。
と、ここで事態を見守っていた吉継が、笑いを堪えながら割って入る。

「あー、佐吉。すまぬが、うちの婿殿を誘惑しないでもらえまいか?」
「はッ? ゆ……誘惑?? 何を……吉継??」
「はいッ! 南蛮渡来品でめっちゃよく映るでェ。うちの売れ筋ナンバーワンや」

どこに隠し持っていたのか、満面の笑みを浮かべて行長が細かな細工のされた手鏡を差し出す。「お前の実家は薬問屋ではなかったのか」とブツブツ文句を云いながらも、三成は差し出された手鏡を受け取る。
差し出された手鏡を覗くと―――――

「………………」

鏡に映る己の顔。その薄い唇に、鮮やかな紅が浮かんでいた。

「佐吉、よう似合っているぞ。なんぞ、島殿への『さあびす』とやらか?」
「紅つけただけやのに、エライ美人になるなァ。今度、きちんと化粧してみやァ」
「似合ってはおられるのですが……その顔で睨まれますと……すごい迫力で……ちょっとドキドキ致しました」
「うむ。わたしも……つい、取り乱してしまった。三成、もう一度、よく見せてくれないか?」

口々に云いたいことを云う親友たち。「似合っている」などと聞き捨てならない台詞を散々に云われても、当人の耳には入っていない模様。
肩を細かく震わし耳まで真っ赤に染め上げている。

「……さ、左近ッ!! 貴様ァッ――――!!!」

三成は思い切り怒声を張り上げ、その場に親友たちを残し元凶の元へと駆けて行く。
遠ざかる足音を見送りながら、吉継が呟く。

「某、佐吉が三日拗ねるに一票」
「うーん、俺は島殿に言い包められるンに一票や」
「幸村は?」
「えッ! わ、わたしですか……そうですねぇ」
「わたしは、島殿を見限って義と愛を語りにわたしの元に……」
「あぁ、それはあり得ないから……」
『無理やな(ですね)』
「な、何故、即答ッ!!?」
「当たり前やがなァ。アンタ、どんなけ自覚ないンや」
「な、なんのだとォ――――ッ!!」





三成は暫く戻りそうにない。そしてこちらも妙な議論に拍車がかかりそうな雰囲気。

「あぁ、侍女殿。申し訳ないが、適当に酒と肴を見繕ってはくれないか?」

吉継は、勝手に他家の侍女を呼びつけて、これまた勝手に酒宴の支度を始める。

「さてさて、本日の秋の夜長は楽しそうだなぁ」

一人白い覆面の奥で、ニヤリと目を細めるのであった。





fin
2006/11/16


ホントは、左近が一人で楽しむはずだった、殿のくちびる♪ 左近プランではきっとチュウでもするつもりだったと妄想(ぉぃ)
今回は、珍しく兼続が大人しいSSです。なんだか別人のよう……