観月の宴


秋の澄んだ夜空に煌々と丸く大きな月が昇る。
金色の月が中天に達した頃、書斎の丸窓から差し込む金の光に気付いて、漸く三成は仕事の筆を止めた。
小姓が気を利かせたのであろうか。
ふと、庭に面した廊下に目を転じると、金の月光を受けて淡く輝く薄の穂と真っ白な月見団子が添えられていた。

「ああ、そうか……」

仲秋の名月――――――か と三成は口中で呟く。

仕事に没頭する余り、本日が古来より続く月見の宴の日であることをすっかり忘れていた。
そう云えば、先日、ねねから月見に誘われたのだが、仕事の多忙さと構われる鬱陶しさから、速攻で断っていたことを思い出す。
たまに接待や宴席での仕切りを秀吉に命ぜられる立場にあるため、季節の移ろいや行事に対してまったく疎いという訳ではないのだが、仕事が絡まないと途端にそういったことは思考の隅に追いやってしまう。
現にこうして、この時間まで天を渡る黄金の輝きに気付くでもない。小姓が気遣って添え物を置いてくれなければ、恐らく本日が十五夜であることも忘れてしまっていたであろう。

「左近がおれば、もっと早くに気付いたであろうな」

ポツリと呟いた言葉。自分が吐き出したその意味合いに三成は眉間に皺を寄せてチッと舌を打つ。

確かに、左近がいればとっくに上等な酒と肴で、主従ふたりの静かな酒宴となっていただろう。左近だけではない。兼続や幸村がいれば、当然と云わんばかりに三成の屋敷を宴会場として、みなで酒を酌み交わしていたはずだ。
一度、何故に自分の屋敷ばかりで? と問うて見たところ、兼続曰く。

「どうせ、ぎりぎりまで仕事をしておるのだ。そんなに待って追ったら月が沈んでしまう」

と悪びれもせず自信ありげに語られてしまった。
しかし、妙に一理ある言質に文句も云えず、確か昨年も屋敷でささやかな酒宴を催したのだった。

だが、今宵は三成ひとり――――――

左近は、三成の命で領地の佐和山へ。
兼続と幸村はそれぞれの国元へ。
慶次に至っては、フラリとどこかへ行ってしまった。





我に返ると灯火の油の切れかかった室内を一杯の月明かりが満たしていた。
自分の他に誰もいない室内。月が孤影を描く。
そこに一瞬だけ、昨年の賑やかな喧噪の幻が浮かぶ。あの時の笑い声までもが、さざめくように記憶の底から蘇る。
名月が見せる朧影か。それとも、胸裏に湧き上がった秋の夕暮れにも似た一抹の侘びしさが見せた幻影か。

「阿呆か……俺は……」

何とも云えぬもの寂しい気持ちを溜息と共に吐き出し、三成は筆を置いた。
もう仕事を続ける気も失せた。
かといって、胸の裡を占めるこの理不尽な気持ちは静まらない。

「そうだ。こんな気分になるのは、左近が悪い!」

三成はその場にいない左近に向かって口を尖らせる。

「なにが、『今年の月見には間に合わず、申し訳ない』だ。すまぬと思うくらいなら、死ぬ気で仕事を片づけろ、ド阿呆!!」

そんな無理難題なことを口走っても詮無いことはよくわかっている。
左近に任せた仕事が、どんなに重要で大変なものであるかなど、左近に命じた三成自身が嫌という程に理解している。
だが、湧き上がったモヤモヤとした理不尽な気分を紛らわせるように、遠くの月夜の下の相手に散々に悪態をつく。

「兼続も幸村も! 毎年、都合よく人の屋敷を月見の会場にしておきながら、今年は都合が悪いだと!? どうせ、今年もだろうと思って、今宵に仕事が重ならぬようにと調節しておったのに……結局、無駄な努力だったではないか!! 慶次も慶次だ! 知らぬ間に、どこぞに勝手に行ってしまいおって……これでは、捕まえて文句のひとつも云えぬ!!」

フンと小鼻を鳴らして盛大に息を吐くと、三成はそのまま畳にゴロリと寝転がる。

大の字になって寝転がっていると、目の端に中天の満月。秋風にフワリと揺れる薄の穂。
折角、小姓が気を利かせたのだ。
ひとり静かに月を眺めるのも悪くはないだろう。
そう思い直して、縁側に出てみる。

添えられた薄と月見の団子。その横には既に冷えてしまった茶が置いてあった。三成は好んで酒を口にはしない。恐らく、ひとりで月を見るならば酒よりも茶がよかろうと気を回したのだろう。だが、三成が小姓の気遣いに気が付くのが遅かったため、茶はすっかり冷えてしまった。
小姓を呼んで、新たに茶を入れさせるかとも思ったのだが、代わりに浮かんだのは佐和山へ出立する前の左近の言葉。


「これは、月見のために用意した上等な酒なんですよ。左近が、仲秋に間に合ったら一緒に呑みましょうね」


だが、そう云っていた男は、今ここにはいない。

「ふふん。確か……月見のために用意したとか云っておったな。仲秋に間に合わなかったのは左近の落ち度だ。なら――――――

ニッと悪戯を思い付いたような顔。
三成が自分ひとりだけで酒を口にするなど、誰も思っていない。左近とてそう思い込んでいる。
ならば――――――

「左近のやつめ! 俺は子供ではないのだ。偶にはひとりで酒くらい呑むんだからな! なにが、一緒に呑みましょうね だ!」

帰ったら取っておいた秘蔵の酒がなくなっていた。
その珍奇に目を丸くするであろう左近の顔を想像し、三成はひとりでクツクツと忍笑うのだった。




――――――





「いま戻った。殿はどうされた? 登城されておられぬようだが……」
「それが……その…………」

仲秋から遅れること三日程。
漸く左近が佐和山から戻ってきた。いつもならば、既に主は登城をしているはずなのだが、供廻りの者たちの顔を邸内で見かけている。
不思議に思って小姓に三成の所在を尋ねてみたところ――――――





「殿。左近です。ただいま帰参致しました。入りますよ」

三成の寝室。左近は、その障子をそっと開けた。

「…さこん……か……」
「ほっほう。だいぶお加減が優れぬようですなぁ」
「なにを楽しそうに……ニヤニヤと…にやけておる……。その様子だと……どうせ、もう……聞いたので…あろうが…」

唸るような声が小山となった布団から漏れ聞こえる。のそりと小山が動くと、布団の端から紅い髪が零れ、琥珀の瞳が布団の隙間から伺うように左近を睨みつけた。

「ええ、聞きましたとも。左近の秘蔵の酒をお一人で平らげた上、酔っぱらってそのまま寝てしまわれたとか。挙げ句、風邪と二日酔いでもう三日もご政務を休まれているそうですなぁ」
「…………」

無言。
がしかし、返答の代わりに三成の頬にさぁっと朱が上がると、すっぽりと布団を頭から被って隠れてしまった。

「そんな風に子供染みた真似をされるとはねぇ。仲秋の名月にお一人でおられたのが、斯様にお寂しかったのですかな」
「な、なんだ! 仲秋には戻るように努力すると云っておいて!! 戻れなかった左近が悪いのだぞ!!!」

と、布団の中から怒鳴ってみても、怒気も覇気も威厳もない。

「そんなことをおっしゃられても、殿だって左近の仕事がどの様なものであるのか先刻承知じゃないですか」
「そ……それは……そうだが……」
「ははは。まあ、いいですよ。殿のそんな態度を見たら、怒る気も失せました」

クスクスと苦笑う左近。
それに驚いて、三成がガバッと布団を跳ね上げて飛び起きる。

「ッ!? そ、それは……怒るに値せぬ、情けない主だと……」
「まったく……違いますってば、そのように可愛らしく拗ねられるとね」

柳眉を寄せて不安そうな顔をする三成の白い腕を引き寄せ、左近は三成の痩身を腕に抱き込む。

「怒るよりもこうして抱き締めたくなるんですよ」
「さ……こん……」

大きな手が三成の肩を抱き、柔らかい髪で遊ぶ。
やがて、頬を撫でた手が頤をそっと上向かせると、優しい唇が落ちてきた。





そのまま、左近に身を預けてゆったりと時を過ごす。と―――――

「そうだ。お詫びというわけじゃないですが、次の十三夜には直江殿や幸村を呼んで、みなで月見の宴をやりましょう」
「え?」
「なんだったら、大谷殿や小西殿も呼べばよろしい。殿のおやりになりたいようになさりませ」
「よい……のか?」

ことりと小首を傾げて問い返す三成に左近は笑みを浮かべて応える。

「いいに決まっていますよ。準備は左近もお手伝い致しますよ。重陽の節句には少し遅くはなりますが、菊を浮かべた酒で名月を愛でるというのも乙ですな」
「ありがとう…さこん。それと……その、すまぬ」
「いえいえ。まずはお風邪を治すことが先決ですよ。さあ、もうお休みなされ」
「ああ」

安心したかのように微笑む三成の唇に、左近はもう一度口付けを落とした。








後日――――――

「三成! 先月は共に月見ができなかったこと、そんなに寂しかったのだとは……。気付いてやれなかったわたしの不義を許せ!!」
「だからと云うて、酔っぱらって縁側で寝てまうなんてなぁ。そないに強うないのに、一瓶も呑み干すからやン。んで、二日酔いと風邪にで寝込んでたンやって?」
「佐吉。子供じゃないんだからねぇ。いい加減におし。そんな理由で政務を休まれる方の身になって見ろ」
「…………なんで、お前らが知っている」
「おや? 本当だったんですね。左近殿から頂いた招待状に、かくかくしかじかと書かれておりますよ」
「なッ!!?」

あの時のことの顛末のすべてを親友一同に暴露されるとは……
しかも、左近が!? と頭を抱える三成。
当人を睨み付けてみるが…………

「さこん……貴様。やっぱり怒っておったのではないか……」
「怒ってはおりませぬが、これくらいの意趣返しはいいでしょう?」

ニヤリと人の悪い笑みを返されるだけ。
左近の意趣返しに三成はただ「ド阿呆……」と、口を尖らせるだけが精一杯だった。





fin
2007/10/11


十五夜には間に合いませんでしたが、月見のお話です。
十五夜は旧暦の8月15日。重陽の節句は旧暦の9月9日。十三夜は旧暦の9月13日。季節行事は旧暦で考えるとしっくりときますね。
うちでは、左近は殿にすごい優しいけど、時々意地悪なのが萌えポイントのようです。