春爛漫


「あぁ、とうとう降ってきたか」

所用からの帰路。澄み渡った春の空は重く立ちこめた曇天に取って代わり、とうとう大粒の水滴を地上へと降らせ始めた。
三成の待つ屋敷までそう遠くない。左近は、ポツポツと降り始めた雨を避けるように足を速めた。
屋敷の門構えが見え始めた頃、途端にざあっと雨脚が強くなる。左近は、急いで門の軒下の滑り込むと、雨空を見上げる。

「これじゃあ、満開の花が愛でられる前に散ってしまうじゃないか。勿体ない……」

降り注ぐ雨粒は、道中で目を楽しませてくれた見事な満開の桜の花弁をも叩いているだろう。
ここ数日の多忙故、ろくに花を愛でる時間のない主を戸外へ連れ出そうと画策していた矢先の雨。計画を実行する前に予定を邪魔され、左近は溜息混じりに花散らしの雨を睨み付ける。

「花見代わりに遠いが、ないよりはマシかな」

そう呟くと、左近は抱えていた紙の包みをそっと開く。中からは、満々と花を咲き誇らせる桜の一枝が姿を覗かせる。
左近は再び、そおっと薄紅の花弁が散らぬように紙でくるむと足早に邸内へと向かったのであった。





「殿。只今戻りました」
「左近か。ご苦労だったな」
「……って、殿。これは……」

折角の三成の労いの言葉も、耳の内を楽しませる間もなくあっという間に左近の耳朶から過ぎ去ってしまった。
代わりに侵入してきたベベンという三味線の音色に左近は眉を顰める。

「左近。遅かったな」
「左近殿。お疲れ様です。ささ、どうぞ」
「島殿。すまぬな。先に始めさせて頂いているぞ」
「ははは、どうしたい? あんたも呆けてないで座に加わりな」
「どうや、お取り寄せの特上の葡萄酒もあるでぇ。それより、薩摩の焼酎の方がええか?」
「秀吉様からも秘蔵の酒を頂いておる。今宵はよい酒宴になりそうだぞ、島殿」

酒杯やら箸やら三味線やらを手にした見知った面々から次々に声をかけられる。が、左近は返事に窮する。
小姓に書斎ではなく客間の方の通された時から、客人がいることはわかっていたが、まさかかような宴席へと招かれるとは聞いていない。だいたい、主の仕事一色に塗り潰された予定の中に、当然「宴席」という単語はなかったはずだ。
だが、各種取りそろえられた銘酒に山海の美味が並ぶ。客はほろ酔い。宴も盛況。
その様子を眺め遣ると、左近は困ったように顎の辺りをポリポリと掻きながら、彼の主に再度尋ねた。

「殿……これはいったい……」
「ふん! どいつもこいつも……。折角の花見の季節だというのに、俺が引き篭もりっぱなしだとほざいてな。俺が外に出て花見をせぬなら、こっちから宴会に来てやると抜かし追ってこの有様だ」

三成は仏頂面のまま、目の前の豪勢な料理を箸で突っつく。
合理主義を尊ぶ石田家の家風は、不要な贅沢はしない。突発的に始まった宴席のために贅を尽くした酒肴など用意できるはずもなかった。いや、寧ろ、三成の性格を考慮すれば、勝手に押しかけてきた者のためにそんな応対など「しない」といった方が正しい。
となると―――――


     あんたら。これ全部、持ち込んだんですね


左近は、持ち込まれた数々の品々を見回す。酒も肴も、それを容れる器も、かなり手の込んだものばかりだ。
三成の性格を見越した用意万全の策に、左近は大いに感心する。
三成のためにと、ここまで心尽くした品々を持参してきたのだ。いくら天下無双の横柄者とて無下にはできないし、唇を尖らせても兼続や大谷に諭されて、最後には丸め込まれるのだ。
そして、持ち込んできたのは酒肴だけではなかった。
目の前をハラハラと薄紅の花弁が宙に舞う。それを目で追うと、部屋のあちこちに花瓶に生けられた桜が枝々に一杯の花を咲き誇らせていた。
さながら、小さな桜の園のようだ。
左近の視線を追って三成も花々に目を遣ると、更に不機嫌そうに続ける。

「こいつらだけでなく、秀吉様や佐和山の兄上たちまでもが、こぞって桜の枝なぞを俺に送って寄越しおって……」
「それは、また……」
「お前とて同類だぞ。左近」
「は?」
「その手にあるのは何だ?」

ついと細い指先が左近の手にある包みを指す。

「はは……。確かに左近もお歴々とご同類ですなぁ。しかし……花もたけなわのこの季節に、文机に向かってばかりというのも無粋ではありませんか?」
「仕事が忙しいのだ。仕方あるまい」

三成はふて腐れたように眉を顰めるが、これは自分を気遣ってくれる人たちに対する照れ隠しであることをここにいる皆が知っている。
クツクツと微苦笑を喉の奥で鳴らしながら、元親が口を開く。

「三成。桜の花は長くは持たん。折角、美しく咲いているのだ。一時、この花のために手を休めてやってもよかろう」
「随分と優しいのだな。元親は……」
「花の美しさも俺が奏でるこの楽の音も同じだ。どんなに美しくとも次の瞬間には儚く消えていく。だが、人の目に花の姿は残り、楽の音は耳に残る」

ビィンと弦が鳴り響く。どこかの流行り唄だろうか。流麗な音が宴席の上を滑るように流れる。

「俺はそういうものを愛おしく思う。悪くはない。そうは思わんか?」

短いながらも巧みな楽の音が奏されると、最後の一節は元親が謡うように三成に問いかけた。抑揚少なく淡々と紡がれるが、自身が奏でる楽の音と同じくひどく音楽的な声。その声で口説かれれば、どんな美女もひとたまりもないだろうが、生憎と三成は、頬を染める美女ではない。
頬を染める代わりに、三成は口元に微かな笑みを浮かべる元親に生真面目な顔を向ける。

「花の香りは?」
「うん?」
「花は姿形の麗しさだけではなかろう。花の香りはどこに残るのだ」
「花の香りは…………」

三成の真剣な面持ちと返された内容を吟味しつつ、元親は周囲の連中に視線でその真意を問う。
その視線に最初に答えたのは幸村だった。

「鼻……ですか?」
「鼻だろうねぇ」
「そうだな。鼻だよねぇ……」

続いて慶次と吉継が己の顔の真ん中を指差す。
数瞬の微妙な沈黙――――― そして、その沈黙を破ったのは行長の笑い声だった。

「ぶわっはははははははは! 三成。それなんの洒落やね!?」
「大丈夫だ、三成! わたしの義と愛が全力で面白いと云っているぞ!!」
「はッ? 洒落……? 何の話をしているのだ?? おい! 行長! 何を腹を抱えておる!! って、兼続、口元が引きつっておるぞ!?」

ばんばんと畳を叩いて派手の笑い転げる行長となぜか拳を握り締めて迫ってくる兼続に三成は首を傾げる。自分が発した言葉の意味を周囲がどういう風に受け取ったのか、まったく理解できない。
そんな三成の不思議そうな表情に左近がクスクスと笑いを噛み殺す。

「ははは、殿は天然ですからねぇ」
「え?」
「あぁ、別段、花と鼻を引っかけた訳じゃねぇのはわかっているよ。でもねぇ……」
「なんというか……本当に純粋な方ですね」
「ふッ……まったくだ」
「へ? な、なんなのだ! 貴様らッ!?」

左近に応じて吉継がウンウンと頷くと、続いて幸村や元親までもが、何かを妙に納得している。
唯ひとり置いてけぼりを食らった三成が、憤慨して声を上げる。
が、それは―――――

「まぁまぁ、いいじゃないですか」

すいと眼前に現れた桜の花弁。ほのかな花の香りが鼻先を掠め、三成の口をやんわりと押し止める。

「この花散らしの雨せいで今年は外で花見はできませんが……」

花と共に左近の柔らかい笑みを向ける。

「代わりにみなと楽しく変わった趣向が楽しめるじゃありませんか。折角ですから、お楽しみといきましょうよね」
「フン。仕方あるまい……」

頬を膨らませて不承不承といった態で三成は手元の杯を突き出した。

「行長。葡萄酒を寄越せ。今日はとことん呑んでやる!」





花散らしの夜雨はシトシト降り続く。
桜花は雨に打たれてハラハラ舞い落ちる。
なれどシンシンと更ける花宵の夜に煌々と灯る明かりがいつまでも。

外は春の雨
中は最後の春爛漫





fin
2008/04/22


桜は既に散ってしまいましたが、桜の話です。
じつは、「花冷え〜」と少しリンクしていたりいなかったりです。