花冷えの夜・花咲く朝


冷たかった空気も温み陽光暖かくなる頃、左近は情報を集めるために馴染みの妓楼へと立ち寄った。筒井の家老時代からの馴染みの妓楼。放っていた密偵からの報告を得るためだったり、妓たちから市井の噂を仕入れるためだったりと、三成に仕えるようになった今でも定期的に足を運ぶようにしている。

ただ、以前と違うことがひとつ―――――



「では、またな」

そう云って、下男が用意をした履き物に足を通す左近に顔馴染みとなった妓楼の女主人が左近にそっと耳打つ。

「島様。そろそろ、賀茂の川辺の桜が見頃やいうお話どすえ。それと、川沿いに評判の団子屋があるとか……」

―――――
意味ありげに紅で飾った口元に笑みを称え、話に乗せた団子屋の地図らしき紙をそっと左近の袖に忍ばせる。

「ご機嫌取りに買うて行かれたらいかがどす? じゃないと……」

するりと女主人の白魚の指が左近の左頬をなぞる。

「男前のお顔が、更に男前にならはりますえ」

女主人の指が掠った先には、左頬の傷跡に添うように残された一筋のひっかき傷。髪の毛の先程の細さしかないその小さな傷を目敏く見付けて女主人はクスクスと喉を鳴らすように笑う。

「これは、参ったな……」
「今度、お越しになる時にはぜひお泊まりくださいと、云おう思うとりましたけど……」

悋気の証を指摘されて、照れたように眉を下げる左近に女主人の笑みが深くなる。

「そのご様子じゃあ、無理そうどすなぁ」
「すまんな。金にならぬ客で……」
「島様にはいつもご贔屓頂いた上、花代も余分に頂戴しておりますよって、なぁんの問題もありませんえ。第一、うちの妓たちは、みな島様を好いておりますのや。お足を運んで頂けるだけでも嬉しゅうございますわ」
「そう云って貰えるのは、光栄だな。だが、こちらもなにかと忙しくてなぁ。そうちょくちょく足を運べぬ。今日だってこの通りだ。許せよ」

そう笑いながら、左近は左頬の小さな証を指差す。

かつて遊び上手で名の通った男が、ある日を境にパタリと遊びを止めてしまった。依然と変わらず足を運ぶものの、妓たちと枕を共にすることはない。今だとて、まだまだ日が天高くあるというのに、用件を済ますとさっさと見世を後にするという。
そうなった理由など、余人にも大体想像がつく。この花街に長く身を置けば、そう云った話は多々耳にするし、別段、珍しいことではない。
だが、数々の浮き名を流し、「鬼」とまで異称され、多くの大名たちがその才を欲した男が、そこまで惚れ込んだのはどんな人なのだろうかと、興味を掻き立てられる。この鬼才の武人の心を捕らえて放さぬ程の人。恐らく唯人ではあるまい。だが―――――
ひとりだけ、女主人に思いたる人物がいた。
愛想のよい笑みを崩さぬまま、女主人は左近に「そのようですね」と相打つ。

「ですから、とっておきの団子屋をご紹介したのどす。精々ご機嫌を取ってお足を運びやすくしてくださいまし」
「さて、そう簡単に買収されてくれるかな」
「そうどすねぇ……」

クスリと女主人の口の端が上がった。

「聞き及ぶに、島様のお狐様は随分と頑固なお人だとか……。やはり団子ひとつでは難しいおすか?」

女主人の言葉に目を丸くする左近。そんな左近に女主人は、袖で隠した艶笑を返すだけだった。





あれは、綻び掛けた蕾がまた閉じてしまうのではないかと思うほど花冷えが厳しいの夜のことだった。
無遠慮に座敷に上がり込んできた美貌の青年。玲瓏とした面とは裏腹に熱を帯びた琥珀の瞳には、ただひとつのものしか映っていなかった。
きっとあの青年は、あの時応対に出た自分の顔などちっとも覚えてはいないだろう。
「お通しできぬ」と廊下を塞いだ自分を「邪魔だ」と乱暴に押しのけていった。「噂通り、なんて横柄な」と憤慨したのも束の間、座敷で妓女を侍らせ皮肉げに口元歪める男をジッと見据えるその瞳の一途さに言葉を失った。

今迄一度も、あんなに一途な瞳を見たことがなかった。
望み、縋り、欲す。
多くの者が取り巻き見守っていたはずだった。だが、あの時、あの空間にいたのは、望む者と望まれる者との唯ふたりだけ。
唯ひとりを望む。唯ひとりにと望まれる。
あの時、あの場にいたのは、このふたりだけだ。

いっそ、羨ましいほどに
いっそ、妬ましいほどに
いっそ、憎らしいほどに

どうすれば、あんなにもただひとりを望むことができるのであろうかと、少し泣きたくなるような気分となった。



翌朝―――――
底冷えの夜が嘘のように緩む春風の中、主従の契りを交わしたふたりは見世を出て行った。暖かさを増した風が、言祝ぐようにどこからか桜の花弁を運び舞っていたのを覚えている。
その日を境に、唯ひとりにと望まれた男は二度とこの見世で宵を過ごすことはない。





そしてその男の主君となった青年は、世の人に「狐」と呼ばれている。
クスクスと眼を細める女主人に、左近は彼女の云わんとしていることを察して苦笑いながらも鷹揚に頷く。

「まあ、噂は噂だが……頑固だというのはその通りだな。さてさて、団子ひとつでご機嫌を治してくださるかねぇ」
「あらまぁ、これは島様のお言葉とは思われへんわぁ。そこは、今迄うちで見世で磨かれはった腕の見せ所とちゃいますか?」
「おいおい、俺のお狐様は一筋縄ではいかぬお人でね。この見世の妓たちと違って、天の邪鬼なんだよ」
「その天の邪鬼なお方の方がいいといって、うちの気立てのいい妓たちを袖にしてはる方はどこのどなたやら」
「手厳しいがその通りだな。しかし、こればかりは仕方ない。―――――俺はあの人がいいんだ」

フッと頬を緩めて左近は微笑む。その柔らかい眼差しは、自分に向けられたものではないことを女主人は知っている。
たった一度しか会ったことはないが、この男にそんな眼差しをさせる天の邪鬼なお人は、きっとあの玲瓏な美貌を真っ赤に染めて不機嫌そうにそっぽを向くに違いない。
そんな様が容易に想像されて、女主人は鈴を転がすような笑い声をたてる。

「これはこれは。お熱いことで……」

あれだけ浮き名を流し世情を知り尽くした男が、「狐」だの「横柄者」だのと悪し様に評される青年にこんなにも心縛られている。飄々と世の波を巧みに渡っていそうな見た目に反して、わざわざ面倒そうな人を主と呼び、その人を心の中の最も大事なところに住まわせる。
この見世で埋めきれない虚ろを胸に抱えていた男が――――― と益々おかしくなる。

「そないに大切なお方なら、ご機嫌伺いに団子ひとつでは味気のうおすな」
「おや、ほかに何か入れ知恵をしてくるのか?」
「ええ、じつは件の団子屋には、それは見事な桜がありますのえ。丁度今が見頃とか。口を利いてあげますから、一枝貰ろうていかれたらよろしいわ」
「それはいい。折角の季節だというのに屋敷で仕事漬けなんだ。少しは気晴らしになるだろう」


     ほら、また! 目の前のいい女を放って、そんな優しいお顔を誰に向けてはるんですか?


再び、頬を緩ませる左近に女主人は胸裡で小さく唇を尖らすが、そこは客商売で慣れたもの。そんな心情をちらりとも漏らすことなくニコリと微笑む。

「それじゃあ、少しお待ちくださいまし。今、言付けを書きますよって……」
「気を遣わせたか?」

言付けを書き付けるために見世に上がる女主人に、その心の声を聞いたわけではないだろうが左近が声を掛けた。

「いいえぇ。あぁ、でも少しは感謝してくれはるんでしたら、今度はおふたりでお出でくださいまし。うちの見世は桜はありませんが、自慢の藤棚がございますよってなぁ」

庭一面に備え付けられた見事な藤棚があるのは本当だが、真意はあの青年にもう一度会ってみたかった。決して埋まることのなかった男の空虚を刹那の時間で埋めてしまったあの青年。
主従であり、同志であり、そして想い合う者同士。
この花街に身を置く者には持ち得ない希有な絆を羨ましく思いながら、女主人は意味ありげに左近に目配せをする。

「それに、偶に趣向を凝らすのもいい刺激ですえ」

その意図を察して苦笑う左近に、「あんじょう、おきばりやす」と女主人は眼を細めた。





fin
2008/04/11


殿が左近を召し抱えた時期は、正確にはわかりません(勉強不足)
無双ムービーを見て勝手に春だと決めました。なんとなくそんな雰囲気があったので……