昔語り
「左近は亡き信玄公と随分と親しくしていたようだな」
殿の書斎を訪れたある日、唐突に云われた一言に俺は目を丸くする。
「まぁ、それなりには……」
「それなり? 俺が聞いた話とは違うな」
「はい?」
どこか不機嫌そうで、どこか楽しげで。
相反する感情を微妙に入り交じらせて、常と少し様子が違う殿の態度に俺は首を傾げる。
殿は、書き物を認めていた筆を置き、手近の脇息を引き寄せて少しばかり姿勢を崩される。
そして、愛用の扇を弄びながら、そっぽを向いたまま口を開かれる。
「幸村が云っていた。左近は、しょっちゅう領内の視察だの城下のお忍びの供だとかで、よく信玄公と出掛けていたそうだな。幸村が供を申し出ても『幸村にはまだ早い』とか云って、一度も連れて行ってはくれなんだとか……」
今は、不機嫌さが全面に押し出ている様で、そう仰る殿の頬が幾分か膨らんでいる様に見える。
ゆ、幸村ァ
――――― ッ! なんてことを
―――― ッ!!
俺は心中で「幸村の馬鹿野郎」と呟く。
「どうやら、左近は信玄公から軍略だけでなく、本当に『いろいろなこと』を学んでおったのだなぁ」
本当に余計なことを殿に吹き込んでくれましたね、幸村さん。
確かに、武田の客将時代にそう云うことは度々ありましたがねぇ。って、もう時効でしょ? まったく、何で今更そんなことを殿に云うんですか? だって、仕方ないでしょうが、どこぞの坊主でもあるまいに、聖人君子の如きに欲と無縁でいられますかっつうの…………
天然なのか、人が良さそうで実は腹黒いのか。どちらにしろ、俺のとって非常に厄介な種を提供してくれた事実には変わりはない。
ひょっとして、置いてけぼりを食らったお返しですか?
「と、殿……」
「近づくでない」
兎に角、言い訳ではないが、ひとまず弁明をと口を開きかけた俺を殿は、ピシャリと愛用の扇で額を叩く。思い切り力が込められていた。もし、戦場仕様の鉄扇だったならば、確実に脳震盪くらいは起こしている。
殿はその扇で、畳の縁をスイッと線曳くと
――――
「俺がよいと云うまで、ここより立ち入るな」
「……こ、国境線ですか?」
「そのようなものだ」
「で、どうすれば、ご勘気を解いていただけるンでしょうか?」
「別段、怒っておる訳ではない。どうせ過去のことだ。今更、怒ったとて詮無きことではないか」
「では、何故?」
と、俺が問うと殿はにんまりと口元を上げる。
「些か、息抜きに少し意地悪をしてみたいだけだ」
何かを企む子供の様な笑み。どうやら、何か俺に意趣返しでもと考えておられるらしい。
「意地悪ですか?」
「そうだ。国境を越えたくば、なんぞ面白い話をしてみろ。勿論、信玄公の話だ。だが、妓楼がどうだとか、どこぞの町娘を口説くのに苦労したなどと云う話は厳禁。切った張っただのという戦の手柄話もなしだ。俺の息抜きなのだから、小難しい政事の話もだめだ」
「そりゃまた、なかなか厳しい条件で……」
殿から、軍略や政以外の話を所望されるとはね。それは、俺の才以外を望まれているのと同義。望まれているのは、俺の過去の思い出ひとつ。そのことに何とはなしに頬が緩んでいく。
「この条件が厳しいのか? ひょっとして……貴様、信玄公との思い出話のほとんどが、妓の話しかないのか? どれだけ信玄公と一緒に浮き名を流したというのだ。呆れたヤツだな」
「ははは、そういうわけではないんですが……。って、殿は左近をどのように見ておられるので?」
拗ねた風に口を曲げてみれば、殿は半眼で俺を軽く睨む。
「フンッ! そのようなこと云わぬでも身に染みておろう。どうせ、信玄公のお供といいつつ、相伴に預かってたらふく『よい思い』をしたのであろう。信玄公といえば、かなりの色好みでおられたというではないか」
「えー、戦の手柄話というのは、合戦の話ってことですか? ちょっとした小競り合いならその範囲外と云うことでよろしいので?」
「誤魔化すな。まぁ、いいだろう。 ただし……」
クイっと殿は扇で俺の顎を突き上げると
――――
「つまらぬ話をしたらひどいぞ」
楽しげに揺れる琥珀の瞳。それは、御伽草子を読み聞かせてくれるのを待つ幼子のそれに似ている。
なら、とっておきの話をしてあげましょうかね。
これより語りまするは、今は昔の物語
――――
「あれは、左近が武田に身を寄せてそこそこに経った頃だったでしょうか
――――」
俺は静かに、遠い昔の記憶を心の奥底から引き上げる。
「信玄公が、左近ひとりを供にして領内を見回っていた時のことです。山深い土地でしてね。甲斐は元々山々が連なる土地ですが、一際、山間の奥深くにある土地を回った時のことです」
「左近ひとりを供にか? しかもそのように山深い土地に領主自らがか?」
殿が目を丸くする。まぁ、名将・武田信玄公がそんな身軽にお忍び領内視察をするとは思えないわな。しかも、直臣でない俺ひとりを供としてなんて、誰も考えつかない。
「まぁ、信玄公が仰るには、大勢でぞろぞろ連れだって領地を見回っても民の本当の姿はわからぬと
――――。民の暮らしを知るには、領主であることを隠してのお忍びに限るってことです。それに、左近の様な新参者と一緒にお忍びって誰も考えつかないところがミソだと仰っていましたよ」
「なるほど」
「って、云っていた割にはあの目立つ仮面は絶対に外さないんですよねぇ」
ありゃ、なんか事件が起こることを期待していたに違いない
「それで?」
「その土地の村に着いたのが、もう夕刻近くだったのでそこで宿を取ることとなったんですよ」
山間の土地といっても人が住んでいれば当然物の交流もある。山の民と毛皮や薬草などの取引を行う商人もあるし、生活必需品を商う行商人もいる。俺と信玄公はそのための宿に泊まったんですが
――――
「どなたか。今から山向こうの村に行かれる方はおりませんか?」
そう云って、宿の戸を叩いたのはうら若い娘でした。
「どうかどうか、今から一緒に山向こうの村に行って下さいまし! どうかお願い致します!」
必死の形相で共に道中を行く相手を探す娘。だが、時刻は既に日没。夜の帳がおり、名残惜しそうな橙色の残光が僅かに山の端を染めている頃合いです。夜中の山道を行く物好きなどいるはずもなく、誰も娘の相手をする者はおりませんでした。
その娘を見兼ねて、信玄公が声を掛けられたのです。
「これこれ、そこのお嬢さん。何をそんなに慌てているのかね。よければ、ワシに話してみぬかね?」
「ご隠居……。よろしいので?」
「おこと、困っている若い娘を放っておけるのかね? ひどいヤツじゃなぁ」
「あのですねぇ…………俺ひとりならなんとでもしますが、ご隠居を危ないかも知れないことに巻き込める訳ないじゃないですか」
「大丈夫。ワシ、強いし」
「はぁ、さいで……」
「ご隠居?」
殿が不思議そうに小首を傾げる。
「そう云う設定だそうで……。なんでも、お忍びの正義の味方は『ご隠居』と名乗るのが王道なんだそうですよ」
「そう云うものか?」
「少なくとも、信玄公はそう仰ってましたよ」
「なるほど……」
妙に素直に納得される殿。これは、信玄公の冗談であって特に軍略的な意味だのといった深謀機略はないと思う。というか、あのお人、そう云う冗談、大好きだったしな。
まぁ、いちいち説明するのも面倒だから省略しますか…………
ともかく、信玄公は娘の話を聞くことにしたんですよ。
「で、お嬢さんのような若くて可愛らしい娘さんが、何を好きこのんで危ない山道を急ぐのかね?」
「わたしは、山向こうの村の端で薪や山菜を採って生計を立てております者ですが……。じ、じつは…………母が急な病で……」
そう云う娘の両の目には涙が光っておりました。
「急いで薬を買いに、こちらの村まで来たのですが……思ったより時間が掛かってしまい…」
「ほうほう、それは急いで戻りたいと思うのも無理はないのぉ」
「では?」
パッと娘の顔の喜色が浮かぶと、信玄公は口元を和らげて仰いました。
「うむ。安心せい。ワシが一緒に行ってあげようかね」
「ご隠居ッ!」
「なんじゃ? ワシは行くぞ。 ワシに万が一のことがあったらおことも大変じゃのう。ちなみに、あの山道、山賊がでるという話じゃ。だから、頑張ってワシと娘さんを守ってね」
「あんた……自分で強い とか云っていませんでした? というか、山賊って……知っておられるなら、わざわざ危険をお買いになる真似をなさらないで下さいよ」
「ふぉふぉふぉ。ご隠居が頑張るって云うておるんじゃ。若いモンもせっせと働かんとね。若い内の苦労は買ってでもしろと云うではないかね」
「………………」
こういう訳で、俺と信玄公はその娘さんと一緒に夜の山越えと相成ったんですよ。
まぁ、夜といってもそこそこ月明かりもありましたし、山道は人の往来があるせいかある程度踏み固められていて、夜道でも歩くにはさほど苦労はありませんでした。
提灯の明かりは遠目からでも居場所を告げてしまうので、俺としては明かりを灯して夜道を行くのは危ないと云ったのですが、「娘さんが困るから」と信玄公は手に提灯を持って件の娘さんの手を曳いて山道を行かれることとなったんです。
そう話をする俺に殿は眉を顰められる。
「ひょっとして……、信玄公は賊を誘き寄せるおつもりだったのか?」
「ええ、そうです」
あっさりと殿の疑問を肯定すると、殿の眉間の皺が更に深くなる。
「……左近や信玄公なら兎も角、普通の娘が道中にいる中で、それは危険ではないのか」
「疑問は最もですが、最後までお聞き下さいよ」
そう云って俺は、更に昔語りを続けた。
殿の仰る通り、提灯の明かりを見た賊が俺たちを襲ってきたんですよ。
まぁ、人数はほんの3、4人。しかも、威勢だけの破落戸ですから信玄公の手を煩わせる迄もなく、この左近があっさりと返り討ちにしてやりましたよ。
ところがですよ。信玄公は返り討ちにした賊のひとりを捕まえて
――――
「い……い……命ばかりはお助けくだされぇ」
「うむ。では、ワシの云うことを聞いてくれるかねぇ」
「聞きます! 聞きますとも!!」
半泣き状態で命乞いをする賊。信玄公は、その賊に低く恫喝する様な声でお尋ねになりました。
「なら、賊どもの残りは何人になるかの?」
「の、残りは6人程でさぁ」
「うん、なるほど。間諜の情報通りじゃの。しからば、おぬしはねぐらに戻って残りの仲間にこう云うんじゃ………
夜道を行く商人の一行を襲った。商人が逃げ出したので、今、他の仲間が追い掛けている。
金の入った袋やら金目の荷物が襲った際に散らばってしまったので、それを拾うのを手伝って欲しい。ついで、商人の連れ合いらしい若い娘を捕まえたが、これが足を痛めたらしくて動かせないのだ
とな…………。場所は、そうじゃなぁ、その先に適当な広さの空き地があるじゃろう。崖下のあそこじゃ。そこに来いと誘導するんじゃ」
「へ、へぇ」
信玄公の威に身が竦み上がっていた賊に追い打ちをかける様に、信玄公は賊の肩をむんずと掴んだと思ったら、
「おぬし。ワシ……裏切ったら怖いよ」
「ひぃぃぃぃ!!」
黄金色の仮面の奥に瞳が賊を射る。その鋭い眼光に射られた賊は、完全に戦意を喪失し左近たちを裏切る気力も失われた様です。
恐ろしさでよろける足を必死に動かし、ねぐらへと戻る賊の後ろ姿を見送りながら、左近も殿と同じような疑問を口にしました。
「ご隠居。いったい何をなさるおつもりで?」
「みなまでいわんでもわかっておろう」
「賊を誘き寄せて一網打尽ですか? 誘導先の地形は……崖を背にした空き地ですね。崖の側には俺たちが身を隠すに最適な藪。木立からと空き地の間の広さも適当だ。賊共が隠れてこちらの背後や側面を狙う心配もない。左近の獲物を振るう広さも十分にある。確かに対多人数には有利と思いますよ。ですが、その娘を囮に使われるのは…………」
いくら軍略の師と仰ぐお方であっても、助けを求めてきた娘を囮に使うという策に、流石の左近も若干腹に据えかねるものがありました。
わざと非難する様な視線を信玄公に送ったのですが、信玄公はそんな左近の態度を一笑に付されたんです。
「誰が、このお嬢さんを囮に使うと云ったかね?」
「え? だって、今さっき、足を痛めた若い娘って……あれ、囮でしょ?」
「そうじゃよ。だけど、それがこのお嬢さんのことだと、ワシ云ったかい?」
そう仰る信玄公の小さな目が、怪しく光った様に左近には感ぜられました。その時、背筋に走ったイヤな悪寒は今でもよぉく覚えておりますよ。
「…………じゃ、誰が?」
予想はついても取り敢えず聞き返したくなるのが人情というもの。ひょっとしたら、左近の想像が外れている可能性だってございましょう?
しかし、哀しいかな。左近の予感は図らずも当たってしまったのですよ。
ズイッと身を寄せられた信玄公が仰ったのです。
「左近。おこと…………」
その時、信玄公は「してやったり!」という風にニヤリとお笑いになっておられました
――――
「髪、美しいのぉ♪」
「…………………で、やったのか?」
「…………………やりましたよ」
殿の切れ長の目が文字通り丸くなる。いつもキリッと引き締まっている怜悧な口がポカンと開く。その唖然とした口から発した問いに、俺は憮然とした表情で答えた。
思い出すだけでも、情けない思いで壁に頭を打ちつけたくなる。だが、殿のご勘気を解いて頂くためには、ここは我慢………。というか、もう半ば自棄だッ!
「えぇ、やりましたとも! どうせ、月明かりだけの薄暗い山中。薄衣でも被ってうずくまってりゃそれらしく見えると左近は云いましたよッ! だけど信玄公がッ!!」
自然と声高になる。脳裏にあの時の信玄公のとぼけた顔が鮮やかに蘇る。
「ワシの軍略に手抜かりはないよ♪」
そう云って、俺が運んでいた信玄公の荷物から次々と取り出される煌びやかな道具類。
喜色満面の信玄公に対して段々と顔を青くし言葉もなく立ちつくす俺。そんな俺に娘は気の毒そうな表情を見せていた。
「最初からそうするおつもりだったんですよ。でなけりゃ、左近の丈に合わせた女物だの化粧道具だのなんて都合よく出てくる訳はないんですッ!」
もうほとんど叫び声に近かった。
殿の勘気を解くためとはいえッ! いくら過ぎ去った詮無き過去とはいえッ!! 己の忘れ去りたい恥部を晒して楽しい阿呆などいるはずもないッ!!! しかも、馬鹿みたいにその荷を自分で背負っていたという事実も腹立たしい。
「…………………やったのか」
殿の声が震えている。
「…………女物の…着物を着て……け、化粧も……」
殿の頬が徐々に紅潮していく。
何かを堪える様に眉を寄せ、唇を細かく振るわせる。
「…………………信玄公が云うには、左近のために上物を揃えたそうですよ」
珍しく不愉快そうに眉を寄せる。
普段は殿を諫める立場にあるため、こんなに露骨に機嫌の悪い表情をすることがないが、今はそう云った建前も俺の気分に整理をつけることは出来ならしい。
「…………………プッ………」
殿の口の端が笑みを形作る。
「……クッ……フフ…………」
段々と肩の震えが大きくなる。
「殿?」
「アハハッ……フフ、す……すま…すまぬ、さ……さこん…ハハハ……」
怜悧・冷徹・仏頂面・鉄面皮・傲慢・横柄者
人を形容する言葉は世に様々あれど、これだけ印象のよくない修辞を並べ立てられる我が主。およそ、世間の人々が思い浮かべる石田治部少輔三成の笑みとは、「冷笑・嘲笑」の類と答えるだろう。勿論、世間一般の風評を余所に極近しい人たちには、時折柔らかい微笑や子供のような笑顔を見せてくれるのだが……
しかし、そのお人が、肩を振るわせ腹を抱えておられる。辛うじて、大声で爆笑されるのは堪えておられるが、息も絶えだえっといった風に肩で息をしながらも笑いが止まることはない。あぁ、目尻に涙まで溜められて……
「殿、いつまでお笑いになるおつもりで?」
「ハハ……、ほ…本当に…すまぬ……アハハ……」
口を尖らせて抗議をしてみても、殿の笑いはなかなか収まらない。まぁ、ある程度、殿に笑われるとわかっていてこの話をしたのだが、まさか、ここまでお笑いになるとは思わなかった。
「……で、賊はどうなったのだ?」
漸く、笑いと息が落ち着いてきた殿が、目尻に浮かんだ涙を手で拭いながら話の続きを強請る。
「勿論、信玄公の作戦通りに指定の場所に出てきた賊は、左近がすべて召し捕りましたよ」
「その賊になんぞ云われなかったか?」
「とーのー、何を云わせたいんですか?」
えぇ、色々と云われましたが、それは殿のご想像にお任せしますよ。
「ククク……すまぬ。それで、賊を召し捕って娘も無事、母の元に戻ってめでたしか?」
「それがね、それだけでは終わらなかったんですよ」
取り敢えず、荒縄で賊共を縛り上げたあと、俺と信玄公は娘を母の元に送り届けるべく、娘の住まいへと向かいました。
足取り軽く先を行く娘の後を追って道を急ぎましたが、山向こうの村に近づくと、娘は山道を外れて脇の細い獣道を辿り始めたのです。
滅多に人の通らぬらしい獣道は、雑多な草が茂り柔らかい落ち葉が積もってひどく歩きにくかった。
「本当にこちらでいいんですか?」
「うむ。間違いはないよ」
「……信玄公。あの娘のこと。ご存じのような口振りですね」
「うむ。まぁの。おぉ、あれじゃよ」
辿り着いたのは草深い藪に建つあばら屋でした。もう、何十年も人が住まず自然に任せるまま今にも朽ち行かんとしている家の裏手に娘は消えて行きました。
「さて、参るかね」
「参るって……」
信玄公は、勝って知ったるといった風に家の裏手へ回ると、裏庭の一画の草を払い始めたのです。
「あぁ、年が経つと草も随分茂るのぉ。左近、すまぬがおことも手伝ってくれ」
「草刈りですか?」
「あぁ、折角来たんじゃ。綺麗にしてやらんとな」
そう仰る信玄公のが足元には、小さな墓石がふたつ。
「件の娘と……その母のか?」
「えぇ、あの娘、母の病のために薬を求めに行き、その帰りに山中で賊に襲われ命を落としたそうです。母娘ふたりの侘び住まい。娘が薬を持って帰れなかったためか、村人が気付いた時には母親も亡くなっていたそうです」
「そうか」と呟く殿の瞳は先程の可笑しそうな色から打って変わって、ひどく物寂しげな色が滲む。心根は非常にお優しい。だから、胸に沸いた憐憫の情を抑え切れないのだ。されど、無意識に装う無表情がその思いが面に表すことを拒否する。結果、それ気付くことのない大勢の人間が、このお人を「冷たい人間」と評してしまう。
本当に損なお人だ
――――
俺のような傲慢で自信家の男が、そんな不器用なお人を主と呼んでいる。信玄公が今の俺を見たらどの様に仰ることやら……。きっとあのとぼけた顔を綻ばせて「おことも、漸く手間の掛かる者のかわゆさを覚えたか? それは重畳」と揶揄されるだろう。
「殿。信玄公のお話では、あの娘は、山に賊が住み着くとあのようにしていつも迷い出てくるのだそうです」
俺は再び、結末に向かって語り始める。
そうお話になられた信玄公の表情は、仮面に隠れて窺うことは出来ませんが、綺麗に掃除をしたふたつの小さな墓標に注がれる眼差しは、この上なくお優しく、そして少し愁いを含まれていたように思います。
「随分昔。ワシの若い頃。父の代の時の話じゃ。もう何十年も前に死んでしまったというのに、この娘は賊が山を騒がすと落ちついて眠っておられぬらしい」
線香と花を手向け、手を合わせる。
あの甲斐の虎が名も知れぬ山の娘のためにわざわざ自ら賊を退治するために赴かれる。
「騒がしい戦の世は、生者のみならず死者の安寧までも脅かす。なんとも、寂しい話じゃ」
「…………そうですな」
「だからこそ、この甲斐より王道を日本全土に敷かねばならぬのじゃ。賊に襲われ命を失う者も、賊になる者も戦の犠牲者。そのために、戦を起こさねばならぬとは、何とも因果な話じゃがな………」
恐らく信玄公にとって、あの娘は一種の象徴であったのではと思います。
己の背負う者。守るべき国。戦をし王道を敷かねばならぬ意味。
賊に眠りを阻まれる度に迷いでる娘は、信玄公に戦に疲れ平和を求める民の心を伝え、それを受けて信玄公は王道への決意を新たにする。
静かに娘への供養を終えた信玄公が、俺にこう仰いました。
「左近。ワシの軍略は勝つためだけの軍略ではない。『如何に人を生かすか』。それを常に考えぬ者には、ワシの軍略は学び得ぬ。しかと、心得よ」
「承知」
正直、信玄公の仰る『王道』とやらは、左近には理解出来ません。きっと、俺に『王道』とやらを理解するだけの器がないのでしょう。ですが、『如何に人を生かすか』。俺はそのお言葉に軍略家としての信玄公の真髄を見た気がしました。
まぁ、蛇足ながら、館への帰路
――――
「まぁ、此度のおことの働きは………50点といったところかの」
「えッ!? 採点されていたんですか、俺?」
「ふぉふぉふぉ、当たり前じゃ。日々精進。此度の話、甲斐の民人の話にキチッと耳を傾けておれば自然とおことの耳に入っておったわ。なんせ、この話は領内では超有名じゃからなぁ」
「って、そんな怪談話までいちいち目を通していませんよ」
「ふぉふぉふぉ、おこと、青いのぉ。もし、その怪談話の裏側に敵方の策謀があったら如何するつもりじゃ? 軍略家を目指すのならば、いかな胡散臭い話であっても頭からそうと決めてかかってはならぬぞ」
「これは……一本取られましたな」
「ふぉふぉふぉ、素直でよろしい。鍛えがいがありそうだのぉ」
昔語りを終え、俺は肩を竦めて戯けてみせる。
「ま、そう云う訳で、左近の最初の評価は50点ということでしたよ」
「50点か。落第ギリギリだな。信玄公もよくお前を見捨てなかったものだ」
「これはこれは、随分な仰りようですな。その落第生に二万石を気前よく下さったのはどこのどなたです?」
「フン、信玄公に感謝せねば。この阿呆をよくここまで仕込んでくれたものだ」
案の定な殿のお言葉に、俺は方眉を上げて笑うと、殿は気恥ずかしそうにフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。
やがて、ポツリと
――――
「…………左近。件の娘は、今も迷い出てくるのか?」
「さぁ、今は存じません。ですが、秀吉様と殿が間違いない道を歩まれれば、件の娘も安らかに眠れましょう」
「そうだな……」
俺には『王道』は理解出来ない。それは、常に武人として軍略家としてありたいと願う俺の器の限界なのだろう。
だが、この真っ直ぐで自分を曲げることを知らぬ、強くて……そして弱いこのお人の理想とする『義の世』には、信玄公の目指された『王道』に通じる何かがあるのかも知れない。ひょっとすると、幸村もそこに惹かれているのかもな。
どちらにしろ俺には、そんなことは関係はない。
我が主は理想を夢見、ただ前を向いて歩まれればいい。俺はその夢に添い、望まれれば助け、道を誤れば正し、迷えばその傍らで肩を貸す。
そのために、俺は『如何に人を生かすか』と軍略を練る。例え、一滴でもこの人の歩む道の血を少なくするために
――――
「さぁ、息抜きは終わりだ。左近、そこの書類を整理するのを手伝ってくれ」
ウンと背を伸ばし、身体を解した殿が、文机の上の紙の束を指し示す。
「おや? 国境線はもうよろしいので?」
「下らんことを聞くな。でなければ、手伝えなどと云うものか」
「それは、左近の話が面白かったと受け止めさせて頂きますよ。ですが……」
ニヤリと口角を上げて俺は笑う。
「じつは、流石にあれだけしゃべると、左近も喉が渇きましてね。そろそろ、茶と甘味で一服というのは如何です?」
「この上、まだ俺にさぼれと云うのか?」
「何を仰る。ここ三日程、ロクに食事もされておりませんよ。殿にきっちり太平の世のために力を尽くして頂くには、もうしばし息を抜いて頂くが必定。と、云う訳で、左近の茶に付き合って下さい」
「…………フッ」
俺が茶を飲む動作で殿を誘えば、呆れたヤツだと云わんばかりに鼻先で笑われる。が
――――
「仕方のないヤツだ」
そのすぐ後で、眉を下げた殿の顔は、花が咲き誇るように鮮やかな笑顔であった。
今は昔の物語。今宵の語りはこれにて仕舞いにて候
――――
fin
2007/02/06
どうもありがとうございます!