鎮魂祭
あの日あの時と同じ月が昇る
あの日あの時と違う月が昇る
あの日あの時見た月は、血に染まって紅く見えたのに
今日昇るあの月は、同じ日だというのに、何故にああも白いのだろう
北国の冬は早い。
暦はいまだに中秋であるにも関わらず、身に吹く秋風は冬の冷たさを予感させる。
ひとり、冷たさ増す風が撫ぜる庭に降り立ち、蒼い闇に浮かぶ眞白の月の望む。
覚えている。
京の闇を真昼のように照らした松明の炎。
雲霞の如くに迫る敵のその中で舞っていた紅い髪に冴えた月のような琥珀の眼光。
その瞳が見据える先を。そのもっと先を見たかったから
――――――
三成…我らで義の世を築くのだ!
その戦に勝ち、我らの手で義の世、築きましょう!
三成と幸村、そしてわたし。我ら、義を誓い合った三人。
共に義を誓い。共に義の世を築き。共に義の世で生きる。
そう、信じていた。
なのに
――――――
共にと誓った人はもういない。
共にと誓った人の元へと逝くことはできない。
あんたには、まだやることがあるだろう?
そう云って肩に置かれた無骨な手。そうだ
――――――
主を置いては逝けない。
自分を信じついてきてくれた民人を置いては逝けない。
己の信じた「義」のため、巻き込んだ多くのものを置いて逝くことはできない。
あの日あの時と同じ月が昇る
あの日あの時と違う月が昇る
あの日あの時見た月は、血に染まって紅く見えたのに
今日昇るあの月は、同じ日だというのに、何故にああも白いのだろう
三成…我らで義の世を築くのだ!
その戦に勝ち、我らの手で義の世、築きましょう!
そう云う我らにかの人は微笑みながら云った。
ああ、共にな
それは、今生で交わす最後の誓い。二度と誰とも誓いを交わす事はない。
天から舞い落ちる白い一片の花弁。触れた途端に消えてしまった、たったひとつの季節外れの雪は……鎮魂の願いが見せた…幻なのだろうか
あの日あの時と同じ月が昇る
あの日あの時と違う月が昇る
あの日あの時見た月は、血に染まって紅く見えたのに
今日昇るあの月は、同じ日だというのに、何故にああも白いのだろう
秋も深い山の中。
人里離れたこの地で聞く夜長の虫の声は、蕭々と身に染みて哀しくなる。
肌寒さを覚えるが、いま、眞白の月から注がれるこの月明かりを障子で遮るつもりはない。
ただただ、月を見つめる。
あれから再び槍は折れてしまった
――――――
長篠で
関ヶ原で
守ると誓った者は、掌から砂が零れるように去って逝ってしまった。
長篠で
関ヶ原で
守ると誓ったあの人は、わたしに云った。
もし俺が死んだりしたら
――――――
理を重んじる人だった。
「もし……」などという、仮定の話など口にする人ではなかった。
なのに
――――――
俺との友情に生きるといったお前がどうなるのかと……
そう云って不安げに眉を曇らせたあの人。
真っ直ぐに前を見続けるあの人の琥珀の瞳に見つめられた時、気が付いた。
守っているつもりが守られていた のだと……
だからこそ、守りたかった。
あの人の細い肩にすべてを預けてしまわぬよう。
あの人の背負ったものを少しでも分かち合えるよう。
だが、愚かな自分は己が背負わねばならぬものをあの人に預けてしまった。
預けてしまった戦う理由。
折れた槍は二度とは元に戻らない。
天高く遠くに輝く眞白な月。手の届かぬそれは、二度とは戻らぬ遠き日の一時を思い出させる。
埃舞う戦場。轟く雄叫びの中でもはっきりと聞こえたあの人の声。
槍を取っては幸村に勝る者などおらぬな
驚いて振り返ると、気恥ずかしげに唇を尖らせて、「当たり前のことを云っただけだ」とそっぽを向かれた。
あの日あの時と同じ月が昇る
あの日あの時と違う月が昇る
あの日あの時見た月は、血に染まって紅く見えたのに
今日昇るあの月は、同じ日だというのに、何故にああも白いのだろう
今少し…
今少しだけ、お預けをしてもいいですか。いつかきっと
――――――
天を行く朧に滲む月に託すは、心の裡に秘めた鎮魂の約束。その白き輝きは、白日の下の槍の穂先にも似て、なんて冷たく哀しいのだろう。
あの日あの時と同じ月が昇る
あの日あの時と違う月が昇る
あの日あの時見た月は、血に染まって紅く見えたのに
今日昇るあの月は、同じ日だというのに、何故にああも白いのだろう
あれから鎧は纏ってはいない。父から譲り受けた剣も握ってはいない。
恐らく、もう自分は戦場に立つことはないだろう。そして、あの戦屋も…………
不思議だと思う。
何故か心は静かだ。
誇りを守るために、剣を手に持ち鎧を身に纏うことが叶わなくなったというのに、この胸に去来するのは怒りでも絶望でも憎しみでもない。
彼は自分とよく似ていた。
誇り高く
己を曲げることを知らぬ
そして、不器用で熱い
――――――
「立花」という誇りを守るためのすべてを失ったと思っていた。だが、彼は教えてくれた。
俺は落ちる。生きて再起を図るのだ
腹を切って死ぬは、こっぱ武者のすることだ。大将の道を知るならば、どんなことがあろうと諦めてはならぬ
柿は痰の毒だ。いらぬ
阿呆が……。この首が落ちるまで、なにがあるかわからぬ。故にいかな時にも己の身を労って何が悪い!
剣に寄らず。
鎧に寄らず。
それでも戦う術はある。それでも守る術はある。
訪れる者のないこの侘びしい幽囚の身でも、たったひとつ残ったこの思いのために、立花は最後まで戦い逝こう。
だから
せめて
――――――
あの日あの時と同じ月が昇る
あの日あの時と違う月が昇る
あの日あの時見た月は、血に染まって紅く見えたのに
今日昇るあの月は、同じ日だというのに、何故にああも白いのだろう
眞白の月に祈るように固く結んだ手に落ちるは、鎮魂の真珠のひとしずく
ただただ声もなく
――――――
あの日あの時と同じ月が昇る
あの日あの時と違う月が昇る
あの日あの時見た月は、血に染まって紅く見えたのに
今日昇るあの月は、同じ日だというのに、何故にああも白いのだろう
老骨が生き残ってしまった。
右腕と頼む家老であった。
将来が楽しみな若武者であった。
そして、数多の将兵が散っていった。
あやつらも
――――――
「三成は夢想屋よ。地に足がついておらぬは」
「ま、それは、そうでしょうけどね」
「おかしな男だ。お前程の男がなぜ、あんな小才子に仕え、義戦などという大層なご託を並べて戦に出る」
「惚れちまったもんですからね。どうにもならない」
そう云って片笑む男を嫌いではなかった。
「ですが、あんたの方こそなぜ西軍に? そう仰るからには、あちらさんでしょ」
「一世一代の大博打じゃ。少々、火遊びがなければつらまん」
「でも、こっちじゃ立花のお嬢と戦り合えませんよ?」
「ふん、痛いところを突きおるわ」
「少なくとも……嫌いではないんでしょ」
「誰のことだ」
あぁ、嫌いではないさ。いっそ、とことん嫌えれば儂とて東軍にいたかもしれぬのにな。
「ま、こっちとしては、島津が敵につかないだけ助かりますよ」
それじゃと云って去っていった白い陣羽織。
それが、最後だった。
あの日あの時と同じ月が昇る
あの日あの時と違う月が昇る
あの日あの時見た月は、血に染まって紅く見えたのに
今日昇るあの月は、同じ日だというのに、何故にああも白いのだろう
「終わったら…ま、酒でも呑みましょうや」
「貴様と呑むとあの小才子の話しかせん」
「そちらだって、甥っ子の自慢話ばかりじゃないですか」
「まぁ、よい。すべてが終わってからの話じゃ」
すべては終わったが、あの男はいない。あの男が慈しんだ小才子もいない。儂が愛した甥もいない。
眞白の月が照らす座には只ひとり
――――――
みんないなくなった後、ひとりで呑む酒は……鎮魂の祈りに似て……何とも寂しいもよな。
蒼い闇に眞白の月が昇る。
闇海に浮かぶは、紅い導の篝火。
燃える炎に浮かぶは、白木の舞台。
荒々とした野に、白く浮かび上がる舞台は、まるで夜の海に浮かぶ小さな小舟。
シャン
――――――
鈴が鳴った。
シャン
――――――
もう一度鈴が鳴った。
鈴が鳴る度に、朧な影を従えて紅い袴がくるりくるりと舞う。
白い素足がするりするりと白木を滑ると、艶やかな朱色の踊り傘が弧跡を描く。
女が舞っていた。
楽の音はない。
舞に合わす謡いもない。
女は只ひとり。
踊る炎と共に舞台に立つ。
やがて
――――――
ポツリポツリと季節外れの蛍火が、女の舞いにあわせて踊る。
幾百、幾千、幾万。
地上の星の乱舞。その青白い光跡の中を昔日の幻が音もなく行き交う。
幾百、幾千、幾万。
炎が爆ぜ、鈴が鳴る度に現れては蛍火と共に消えていく。
パチリ
一際高く炎が舞い上がる。
シャラン
鈴が軽やかな音を奏でると、誘われるように一差しの扇が舞う。
宙を舞う踊り傘。
それを追って、緋色の扇が弧線を描く。
舞台を彩るのは
――――――
闇と炎
緋色の傘と扇
流れる黒髪と揺れる朱の髪
艶やかな神子と凛とした武士
誰も見る者もない荒野の二人舞台。
永遠に続くかと思われる静寂。
その只中で、蛍火の乱舞は徐々に天空へと昇っていく。
そして、最後のひとつがその姿を消した時、舞台の幕も静かに終わりを告げた。
「流石。凛としはったええ舞どすなぁ」
「お前の方こそ……。名に違わぬ見事な舞であった」
「まぁ、いつもはつれのうおすのに、嬉しいこと云わはって……」
戦扇の主は微かな笑みを口の端に浮かべる。
それを受けて踊り傘の主がクスクスと微笑する。
パチリと幾分か小さくなった篝火が火の粉を上げる。
舞い上がる赤い光の追って女も天を仰ぐ。
「みんなはちゃんと往きはったのに、あなた様は往かへんのどすか?」
「俺はまだ往けぬ」
問う女に赤い髪がフルリと揺れる。
「捜さねばならぬ。置いて行ってしまったあいつを捜さねばならぬから……」
キュッと苦しげに柳眉が寄る。僅かに潤む琥珀の瞳は、暗い荒野をひたと見つめる。
「例え、骨の一欠片であろうと、髪の一筋であろうと構わない」
震える声。震える肩。扇の握る手も幽かに震える。
「あいつをこの手に……もう一度だけ……でも……」
小さな哀咽。白皙の頬を伝う一滴。
寂莫の闇の海を見つめ続ける細い背中に、女は寂しげに問う。
「だから、ずっとずっと探し続けておられたのどすなぁ」
「だが、見つからぬ」
絞り出すような哀傷の呟き。孤影はただただ闇を見つめる。
「声が嗄れるほどに名を呼んでも、もう数え切れぬほど夜を彷徨っても、あいつは見つからぬ」
「だから往く訳にはいかない」と、薄い唇を噛み締め頭を垂れる。
「これは罰なのだろうか…………」
吐き出される突き刺さるような悲嘆の情。
数多の無辜の民を戦へと導いたことへの罰なのだろうか と
――――――
カタカタと小刻みに揺れる肩は、女に問いかける。
「さあ。うちには戦のことも政のこともようわからんよって……」
「ただ……」と女は続ける。
「現のことは一時の夢。過ぎた夢の罪を問うても仕方あらへん」
そう云って女は俯いた細い肩を優しく包む。戦慄く背を細手がゆっくりと撫でる。
繰り返される穏やかな慰撫。
「うちに云えることはひとつだけどす」
そして、女はそうっと囁く。
「もう、そないに捜さへんでもよろしいのどすえ」
赤子をあやす母親の如くに優しい音調。
「だが……」
「いいえ。あなた様のお捜しの方は……ほぉら」
ニコリと女が微笑む。
シャン
――――――
鈴が鳴った。
「お探しの方は、ちゃんとそこに……」
細手がついと上がる。そのたおやかな指が指し示すその先に
――――――
「三成様の側に居てはりますのえ」
佇む人影。
闇を写し取ったような艶やかな黒髪に白い陣羽織の男。
片笑む左の頬には、一筋の傷跡。
「殿」
懐かしい低く優しい声が、自分を呼ぶ。
「あぁ……」
欠けた月が満ちるように、潤む琥珀の瞳に透明な滴が満ち流れる。
武骨な掌が流れた滴をそっと拭うと、朱の糸がサラリと揺れて白い陣羽織の胸元へと飛び込んでいく。
「そこにおったのか……。阿呆が……随分と探したのだぞ。……さこ…ん」
「殿……。申し訳ありませんでしたな。もう大丈夫ですから……。左近はずっと殿のお側におりますからね」
扇を握る白い手が、今は黒髪が流れる背をギュッと抱き締める。応えるように太く逞しい腕が、胸の飛び込んできた痩身をふわりと包み込んだ。
ふと、優しげな視線を感じて傷跡の残る面を上げる。
「世話をかけたな」
「いぃえ。うちも綺麗な人と一差し舞わさせてもろうて、ええ思いさせてもらいましたわ」
互いに口元を綻ばせると、女はだいぶ西に傾いた月を仰ぐ。
「さあ、他の皆様もお待ちどす。あの可愛らしお猿さんなんか、きっと首を長うしてはりますえ」
「そうですね。さ、殿。もう参りましょう。もう随分とお待たせしてしまっているんですから」
「そんなに、お待たせしてしまったのか?」
驚き凛とした目元を見開く手中の麗人に、男はクスクスと悪戯っぽく頬を緩ませる。
「ええ。殿にしては、珍しく大遅刻ですよ。ひょっとしたら大目玉を食らうかもしれませぬなぁ」
「なッ! なんだと!! も、元はといえば、いくら探しても出てこなかった左近が悪いんだからな!」
「はいはい。左近も一緒に怒られますから、そんなに拗ねないで」
男は扇を握る白い手を曳く。
「さぁ、参りましょうか」
コクンと朱の髪が肯くと、男はその肩を柔らかく抱き寄せる。寄り添うふたつの影が、露に濡れる秋草を踏み闇の中へと去って行く。
ふたりの姿が消え、山の際から仄かに光が差し込み始めた。
「あらぁ、もう夜が明けてまう。そろそろ……」
すべてを見送り終えた女は、「よいしょ」と緋色の踊り傘を肩に負う。
「うちも往くとしまひょかいな」
綻ぶ紅唇が呟くと、女もゆるりと何処かへと歩み去る。
女が去った後、明けの光明を受けた荒野の舞台は霞と消え失せ、やがてその荒野自体も小さな山間の町へと姿を変えゆく。
荒涼と血にまみれた野はすでにない
そこを彷徨う孤独な魂もすでにない
すべては現の夢となりにけり
――――――
2007/11/22
シリアス主従SSというより、西軍の殿たちの追悼SSです。ァ千代の話は完全にねつ造ですが、史実でも関ヶ原後は、どこかに幽閉されていたらしいと、聞いたような聞かなかったような気がしたものですから(ぉぃ)
後半部分は、以前、同志の方から「殿の幽霊が関ヶ原で左近を捜しているという話があるんですよ〜」と聞いた時から、ずっと書きたかったネタです。
ちょっと暗い話ですが、読んでくださった方々が、最後の最後に殿が救われたんだなと感じていただければ幸いです。